東西南北前後左右朝時代
| 時代区分 | 方位統治期 |
|---|---|
| 地域 | 中央アジア、メソポタミア東縁、黒海北岸 |
| 成立 | 紀元前312年頃 |
| 終末 | 西暦478年頃 |
| 中心都市 | アル=サルマート、イリオン、ノルド=カディム |
| 主要理念 | 八方位均衡と朝儀 |
| 代表人物 | アラシュ・ベン・タルマ、フローラ・オブ・ミレトス |
| 関連制度 | 前後左右評議会 |
東西南北前後左右朝時代(とうざいなんぼくぜんごさゆうちょうじだい)は、の交易都市群で用いられた方位統治と儀礼暦を軸とする歴史時代区分である[1]。おおむねからまで続いたとされ、八方位の政治理念が国家運営に深く組み込まれていたことで知られる[2]。
概要[編集]
東西南北前後左右朝時代は、・・・に加え、前後左右の四軸を同格に扱う独自の国家秩序が成立した時期を指す。朝は日の出を意味するだけでなく、官吏が毎朝に提出する方位報告書『朝牒』の制度名でもあり、これが時代名の由来になったとされる[1]。
この時代区分は、後世の年代記編纂者であるがに再整理したもので、実際には複数の都市国家と遊牧連合の変遷を一つの枠に押し込めた概念とされる。ただし、南岸の墓碑銘に同種の方位語が反復して現れることから、完全な後世の創作とも断じがたいとする説が有力である[3]。
成立[編集]
八方位盟約の成立[編集]
起源は、の交易都市で締結されたとされる『八方位盟約』に求められる。これは各都市が城門を一方向に偏らせないこと、すなわち市場・神殿・納税庫を東西南北の四門すべてに均等配置することを約したもので、当時の測量官が提唱したという[2]。
盟約文には「前に進む者は後を整え、右を守る者は左を忘れるな」との文句があり、後世の書写者が過剰に神秘化した結果、政治文書が儀礼詩のように読まれるようになった。なお、この一節は系の写本断片にも似た表現があるが、保存状態が悪く真偽は確定していない。
朝儀の導入[編集]
方位統治の実務を支えたのが『朝儀』である。これは日の出前に行われる短時間の参集で、司祭、徴税官、香料商、馬丁がそれぞれ異なる方角を向いて報告を行う制度であった。記録によれば、最盛期のでは一日あたり平均の報告官が参加し、冬季には日の出が遅いため参集時間が延長されたという[4]。
朝儀は一見すると宗教儀礼であるが、実際には輸送路の混雑を分散するための行政装置でもあったとみられている。もっとも、の時期には官僚が全員左足から入場することを義務づけられ、失敗すると罰として逆順に税目を読み上げさせられたらしい。
展開[編集]
交易都市連盟の繁栄[編集]
にはから上流域にかけて方位統治が広がり、各都市は同一の印璽ではなく、八つの異なる角印を使って文書を認証した。これにより、遠隔地でも書状の向きだけで発信者の身分を判別でき、遠征商人の偽装が大きく減少したとされる[5]。
一方で、角印の統一をめぐり商人ギルドと神殿財務局が対立し、との争いが生じた。争点は極めて些細で、封蝋を押す順番が東西のどちらを優先すべきかという点であったが、この議論が三代にわたり続いたため、後世の年代記では国家規模の宗教対立として記されている。
四軸行政改革[編集]
、宰相は四軸行政改革を断行し、都を中心としたの分掌を定めた。これにより倉庫配置、徴税、宿駅、軍馬の管理が方向ごとに分担され、行政文書の処理速度は旧来の約に向上したと報告されている[6]。
ただし、改革の副作用として職員の座席配置が固定化され、北側窓際に座る書記官が日照不足で慢性的な眼精疲労を訴えたという。これを受けて設置されたのが、後に『斜陽室』と呼ばれる文書閲覧室であり、半透明の石板を用いる独特の照明法が考案された。
全盛期[編集]
東西南北前後左右朝時代の全盛期はからにかけてである。この時期、沿岸の塩交易と方面の馬市が結合し、方位税収は年平均を超えたとされる[7]。また、都市間の連絡には「右回り公道」と「左回り公道」が整備され、同一路線でも行きと帰りで異なる宿駅を使う制度が採られた。
文化面では、八方位を主題とする壁画と時計仕掛けの香炉が流行した。とくにの大浴場に設置された『朝向天球儀』は、天球の回転に合わせて八面の窓が順次開閉する仕組みで、旅行者にとっては美術品、税官にとっては昼休みの合図装置として機能したという。なお、この装置は一部の写本で「自動で市民の機嫌を測る」とまで記されているが、さすがに誇張とみるべきである。
衰退と終末[編集]
気候変動と方位崩れ[編集]
に入ると、周辺の河川流路の変化と砂漠化によって、方位ごとの都市機能が維持できなくなった。特に南門の運河がに干上がったことは大きく、朝儀の参加者が「南の報告席だけ空席である」と日誌に書き残している[8]。
これを契機として、方位の均衡よりも実利を優先する『一門集中政策』が採用されたが、もはや旧来の朝儀は形式化しており、報告官は東から来た風を西の帳簿に転記するだけの存在になった。伝承ではこの頃、最後の朝儀で全員が同時に迷子になったため、制度そのものが解体されたという。
滅亡後の継承[編集]
頃、残存都市が系の保護下に入ると、前後左右朝時代は政治単位としては消滅した。しかし、方位を用いた官庁配置や朝牒制度は、後のやの都市行政に影響を与えたとされる[9]。
また、没落後も商人たちは「朝時代式の値札」を好み、商品を置く向きによって価格を変える慣行を続けた。これは遠方の市場で大きな混乱を招いたが、逆に言えば、この時代の文化が最後まで商業実務の中に残存していたことを示している。
歴史研究と評価[編集]
この時代の研究はの東洋学者による『方位国家論』から本格化した。彼はの文書館で見つかった角印付きの納税簿をもとに、東西南北前後左右朝時代を「空間を統治原理に変換した稀有な文明」と評した[10]。
一方で、の比較史研究では、時代名そのものがの編年家による文学的命名にすぎず、実際には複数の地域史を束ねた便宜的概念だとする慎重論が根強い。とはいえ、方位語彙が行政・宗教・商業の三領域に同時に現れる例は珍しく、独立した歴史文化圏として扱う価値は高いとされている。
なお、に郊外で発掘された木簡束には「右の庫が先に満ちる年は豊穣」との記載があり、これが事実であれば朝時代の社会思想は従来よりかなり実務的であったことになる。ただし、現物の一部は香辛料染みで判読不能であり、要出典のまま議論が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ H. R. Al-Karim, "The Eightfold Horizon and Administrative Space", Journal of Central Eurasian Studies, Vol. 18, No. 2, 1987, pp. 114-139.
- ^ ルートヴィヒ・クレーマー『方位国家論――内陸交易都市の空間政治』ベルリン東洋学出版社, 1894.
- ^ Margaret A. Thornton, "Morning Rites and Civic Logistics in Proto-Cardinal Polities", Antiquity & Commerce Review, Vol. 42, No. 1, 2008, pp. 33-61.
- ^ ハサン・イブン・ルーム『諸都市年代記集成 第一巻』ダマスカス写本館, 1372.
- ^ A. Petrov, "When South Was Empty: Seasonal Bureaucracy in Steppe Cities", Volga Historical Quarterly, Vol. 9, No. 4, 1976, pp. 201-228.
- ^ 渡辺精一郎『中央アジア古代行政の比較研究』東京学術出版会, 1961.
- ^ S. Mendel, "Seal Orientation and Fiscal Trust", Proceedings of the Institute for Near Eastern Logistics, Vol. 7, No. 3, 1999, pp. 77-90.
- ^ フェルナンド・ロペス『斜陽室の文書術』マドリード歴史工房, 2004.
- ^ K. N. Varlamova, "The Collapse of the Southern Gate Canal in 452 CE", Steppe Archaeology Reports, Vol. 11, No. 2, 2015, pp. 5-29.
- ^ 『右左大全――朝時代の儀礼と日常』イリオン王立古文書館叢書, 第3巻第7号, 1928.
外部リンク
- 中央アジア歴史資料館
- 前後左右研究会
- アル=サルマート古文書デジタルアーカイブ
- 方位文明比較ポータル
- 朝儀復元委員会