松本しげのぶ
| 氏名 | 松本 しげのぶ |
|---|---|
| ふりがな | まつもと しげのぶ |
| 生年月日 | |
| 出生地 | (旧・筑摩郡) |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 奇譚編集者・路地裏民俗研究家 |
| 活動期間 | 〜 |
| 主な業績 | 『路地帳(ろじちょう)』の編集基準策定、口承記録の分類法「方角法」導入 |
| 受賞歴 | 民俗記録功労賞、文化筆禍防止顕彰(迷説部門) |
松本 しげのぶ(まつもと しげのぶ、 - )は、の奇譚編集者である。とりわけ「路地裏の民俗学」を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
松本 しげのぶは、日本の奇譚編集者であり、口承で伝わる噂話・怪談・生活覚書を「再現可能な形」に整える技法で知られた人物である[1]。
しげのぶの方法は単なる収集にとどまらず、ではなく「観測可能性」を重視する編集思想として、当時の出版社や学校図書館の運用にも影響を与えたとされる[2]。
特に、出自不明の話を扱う際に「出どころの方角(東西南北・季節・風向)」を必須記入にした編集基準は、後年になって“路地裏の民俗学”とも呼ばれた[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
松本はのに生まれ、祖父の代から「道の端の古い言い回し」を数える家風があったと伝えられる[4]。
幼少期には、家の裏口から見える小川の流れを「一息で何回に分かれるか」を子守の目安にしていたという逸話が残っている。『家の記録帳』では、当時の年齢ごとの試行回数が「3回、7回、11回」といった素朴な素数で記されていたとされる[5]。
この“数える癖”が、のちの怪談編集で「聞いたまま」を嫌い、型に落とし込む姿勢へつながったという指摘がある。
青年期[編集]
、松本はに通いながら、町内会の回覧物を勝手に分類して貼り替えたことで、回覧板係に叱られたと伝えられる[6]。
に上京し、の小規模出版社で校正見習いとして働き始めた。校正室で扱う原稿が「誤字」より「語り口の崩れ」で台無しになることを痛感し、語りの“型”を整える必要があると考えたとされる[7]。
その後、知人の紹介で周辺の古書店主に師事し、見出しの立て方を「見える範囲だけで書く」のではなく「聞き取りの前提」を書き加える方向へ転換したと記録されている。
活動期[編集]
松本はから、各地の口承を集める旅を“編集旅行”として実施した。旅費は月額25円が上限で、宿は同じ建物に連泊せず、毎回違う部屋番号の鍵を借りる形に統一したという[8]。
この徹底は、語り手が「前回と同じ部屋」だと話の温度を合わせてしまうという仮説に基づくと説明された。のちにこの発想は「場の補正」として、路地裏の採録に関する講習会で引用されるようになった[9]。
また、松本は「方角法」と呼ぶ分類体系を導入し、怪談の各項目に“話の出どころの方角”と“語り手の視線の向き”を必ず添えるよう求めた。編集者としては異例の手順であり、後年、学校図書館の閲覧票にも影響が及んだとされる。
晩年と死去[編集]
頃から視力が衰え、原稿用の文字を自ら大きく切り貼りする工夫を続けた。記録によれば、晩年の作業は「1日で最大1,340字まで」と定められていたという[10]。
、長年の編集活動を一区切りとして引退し、後進のために“怪談の保存は紙でなく余白で行う”という講話を残したとされる[11]。
松本は、で持病のため死去した。享年はと記録されている。
人物[編集]
松本は几帳面な人物として描かれる一方、語りの場では妙に豪快であったとされる。語り手が「信じてくれ」と前置きすると、松本は即座に「信じるのは編集の後である」と返したという[12]。
性格面では、話の“恐さ”よりも“語りの癖”に注目する傾向があった。たとえば同じ怪談でも、語り手が結末を言わずに咳払いを挟むなら、その咳払いは本文とは別の「間(ま)」として独立記録されたとされる[13]。
一方で、談話の採録中に突然コインを床に転がし「転がり方が方角法の証明になる」と言い出した逸話も残っている。ただし、これは後年になって“実験の名を借りた遊び”として笑い話に転化したとされる。
業績・作品[編集]
松本の代表的な業績は、編集基準を体系化した『路地帳(ろじちょう)』にある。これは口承資料を「話題」「場所」「間」「帰結」の4層に分け、さらに“聞き取り条件”を欄外に残す形式を採った書物である[14]。
また、雑誌連載『夜の索引(やのさくいん)』では、怪談を単に怖い話として並べず、各話に“語りの目的”を付与した。たとえば「誰が誰に何を確かめたがる話か」を分類し、学校の国語科授業で“対話の練習資料”に使われたと記述されている[15]。
さらに松本は、口承の保存において紙質の違いより「余白の高さ」が重要だと主張し、原稿用紙の余白を単位で設計させたという。これは本来、植字工程の都合とされるが、松本本人の説明では“余白が記憶の避雷針になる”と語られたと伝えられる[16]。
作品としては『方角法記録集』『路地裏の校正帖』『迷説のための節度講義』などが知られる。
後世の評価[編集]
松本の方法は、単に採録の技術としてだけでなく、社会における“噂の扱い”の姿勢を変えたと評価されている。噂話をそのまま広めるのではなく、条件を記し、読み手が誤解しにくい形に整えるべきだという考え方が、戦後の図書館実務に波及したとされる[17]。
一方で批判もあり、『路地帳』の様式化が進むほど、語りの勢いが削がれ“怖さ”だけが残るとの指摘が出た。特に、方角法に慣れた編集者が「必ず東西南北を書かねばならない」と考え始めたことが、資料の自由度を損ねたのではないかという論争がある[18]。
また、松本が残したとされる“コイン実験”については、学術的検証が行われていないにもかかわらず後年の講習会で半ば儀式化した点が問題視された。これにより、側から「編集の物語化」を疑う声が出たとされる。
系譜・家族[編集]
松本 しげのぶの家系はの商家に属し、家業は“表札と回覧板の製作”だったと伝えられる。本人の姓を名乗ったのは明治末期の記録整理の結果であり、それ以前は別の屋号だったという説がある[19]。
結婚については、に出身の挿絵職人・田島ミチ(生)と結ばれたとされる。ミチは原稿の余白に花粉図のような装飾を施し、結果として『路地帳』の“余白設計”が広まったという見方がある[20]。
子の松本しげのぶの呼称は、長男が職の見習いをしていたことから「紙の系統を継げ」という意味合いで、二人だけで呼んでいた渾名が“しげのぶ”になったと語られている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐藤藍子『路地裏の校正理論:松本しげのぶと「間」の記録』幻青書房, 2012.
- ^ Watanabe Kazu『Directional Indexing of Folklore Narratives』Journal of Imaginary Ethnography, Vol. 8 No. 2, pp. 41-63, 2009.
- ^ 松本家文書刊行会『松本しげのぶ覚書(改訂版)』長野文庫, 1974.
- ^ Catherine L. Brookes『Margins as Memory: Editorial Practices in Urban Folklore』New Library Studies, Vol. 31, No. 4, pp. 110-129, 2016.
- ^ 伊藤健一『噂を保存する:図書館実務としての奇譚整形』行政図書館叢書, 第3巻第1号, pp. 22-58, 1959.
- ^ 田島ミチ『余白の仕事場(口述筆記)』風鈴出版, 1969.
- ^ 本郷雅人『方角法と学校資料の転用』国語教育評論, 第12巻第7号, pp. 5-19, 1962.
- ^ 鈴木久雄『民俗記録功労賞の選考要項に関する研究』学術文献社, 1958.
- ^ 山下玲子『文化筆禍防止顕彰(迷説部門)—顕彰制度の裏面』文化行政年報, 第19巻, pp. 77-102, 1964.
- ^ (書名が一部誤記されている資料)『夜の索引:誤植の歴史』光文堂プレス, 1941.
外部リンク
- 路地帳アーカイブ
- 方角法研究会
- 神田怪談目録
- 余白設計博物館
- 民俗記録功労賞データベース