松永恒星
| 氏名 | 松永 恒一 |
|---|---|
| ふりがな | まつなが こうせい |
| 生年月日 | 1908年4月17日 |
| 出生地 | 長野県上伊那郡辰野町 |
| 没年月日 | 1979年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 天文工学者、教育者、発明家 |
| 活動期間 | 1931年 - 1976年 |
| 主な業績 | 夜間測位盤の考案、可搬式星図補正器の設計 |
| 受賞歴 | 帝国科学振興賞、地方功労章 |
松永 恒一(まつなが こうせい、 - )は、の天文工学者、星図装置設計者である。恒星視差の可視化研究と「夜間測位盤」の開発で広く知られる[1]。
概要[編集]
松永 恒一は、前期からにかけて活動したの天文工学者である。主として夜間の航法補助を目的とした星図装置の設計に携わり、特にの外部協力者として知られる[1]。
同時代の天文学が観測値の精密化に向かう一方、松永は「見上げた星を即座に地図へ落とす」ことに価値を見いだした人物とされる。後年は教育普及にも力を注ぎ、各地のやで実演講義を行った記録が残る[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
松永は、の辰野町にある製糸業者の家に生まれる。幼少期から夜更けに機械の点検を手伝わされることが多く、その際に工場上空の星の並びを覚えたことが、のちの研究の端緒になったとされる。地元では、家の番頭が「この子は機械より先に星を読んだ」と語ったという逸話が伝わるが、記録の初出は戦後の町史編纂時である[要出典]。
の尋常小学校では算術と図画を得意とし、への進学後、理科教諭のに強く影響を受けた。岸田は実在した人物として地元教育史に名を残す一方、松永にだけ特別に配布したとされる「星の定規」の存在は、現存資料がなく真偽が定かではない。
青年期[編集]
にへ進学し、のちに夜間測位論の草分けとなる教授に師事した。松永は在学中、理論天文学の講義よりも、製図室で廃棄される真鍮部品を集めて小型の回転盤を作ることに熱中したとされる。
、卒業を前にして提出した卒業研究「星位差の即時換算機構」は、当時としては異例の実用志向が評価され、学内の優等褒章を受けた。なお、この研究には下の印刷所が協力したとされるが、印刷所名は資料ごとに異なり、後年の研究者を悩ませている。
活動期[編集]
半ば、松永はの臨時嘱託として採用され、観測データを航海用の目盛りへ転写する装置の改良に従事した。もっとも本人は観測機器の巨大化に懐疑的であり、「星は大きく見れば便利だが、運ぶのは人間である」と述べたと伝えられる[3]。
には、木製の円盤と透明セルロイドを用いた「夜間測位盤」を完成させ、海軍の航法補助試験に供された。試験では沖での模擬航海において、訓練水兵37名中31名が15分以内に星位を再現できたとされるが、残り6名は装置の透過板に反射した照明を見つめていたという。
戦後はの委託を受け、地方校向けの星図教育キット「星路箱」を普及させた。キットは時点で全国412校に配布されたと記録されているが、実際には教室の窓枠に合わず使いにくかったため、黒板脇の装飾として転用される例も多かった。
晩年と死去[編集]
以降は設計第一線を退き、内の私設研究室「松永星理工房」で後進の指導にあたった。ここでは中学生向けの実演が人気を集め、松永自身が油性ペンで星座名を書き込むと、そのまま受講生のノートが複写原稿のようになることで知られた。
11月3日、心不全のためで死去した。葬儀には関係者のほか、かつて装置を実地運用したの代表も参列し、弔辞の最後に「夜の海に名前をくれた人」と述べたとされる。
人物[編集]
松永は寡黙で几帳面な人物とされ、机上では定規を角度ごとに三本並べる癖があったという。来客が多い日には、自ら茶を淹れる前に必ず窓を開け、外光の傾きを確認してから話し始めたと記録されている。
一方で、実地試験の場では妙に大胆で、装置の説明書にない使い方を即席で提案することが多かった。弟子のは「先生は理屈では慎重だが、星を前にすると急に祭りの人になる」と回想している。
逸話として有名なのは、の県民科学展で、展示品の回転盤が来場児童の手で勝手に逆回転した際、松永が「それも一つの夜である」と言って説明を続けた件である。この発言は後に教育雑誌で引用され、松永の柔軟さを象徴する言葉として定着した。
業績・作品[編集]
夜間測位盤[編集]
夜間測位盤は、松永の代表作とされる携帯型の星図補助装置である。透明円盤の上に星座線と方位目盛りを重ねることで、利用者が肉眼で見た星の位置を短時間で推定できる仕組みであった。
量産はからにかけて断続的に行われ、地方の漁村や山間部の巡回診療所にも配布された。とくにの沿岸部では、停電時の避難誘導に転用されたという記録があり、松永は「わたしの装置は星を見るためだけでなく、電気が消えたあとに人を落ち着かせるためにある」と語ったとされる。
星路箱と教育普及[編集]
後半に開発された星路箱は、黒板、星座カード、方位磁石、簡易天球儀を一体化した教育用器具である。折り畳み式のため持ち運びに便利で、からまでの学校講習会で使われた。
文部省の統計では、までに延べ1,284校へ導入されたとされるが、湿気による紙の膨張で星座カードが一部ずれてしまい、説明がむしろ盛り上がるという副作用があった。松永はこれを「誤差もまた学習である」と表現し、後に教育工学の用語として誤解される余地を残した。
論文・著作[編集]
著作としては『夜の地図学序説』『可搬式星図補正器の理論』『港と山のあいだの星』などがある。中でも『港と山のあいだの星』は、にから刊行されたとされるが、初版奥付の活字組みに不自然な空白があり、後年の研究では実在確認をめぐって議論が続いている[4]。
また、雑誌『』に掲載された連載「星の目盛り」は、専門家向けでありながら平易な口語が多く、当時の中学校教員に広く読まれた。最終回で松永は「装置は星を捕まえない。人間の迷いを一時的に整列させるだけである」と締めくくっている。
後世の評価[編集]
松永の評価は、戦後の天文教育史と地方工学史の双方で高い。特に以降、観測機器のデジタル化が進むなかで、彼の「紙と目と手で星をつなぐ」発想はアナログ教育の象徴として再評価された。
一方で、彼の装置群は実用性より情緒を優先していたとの批判もあり、の一部研究者からは「現場の熱意に比して規格化が遅い」と指摘されている。もっとも、地方自治体の防災展示や科学館では現在も復刻展示が行われ、来館者が回転盤を逆に回して迷う光景が恒例になっている。
には生誕100年を記念してで回顧展が開かれ、会期中の来場者数は推計1万7,400人であった。展示の目玉は実物大復元機であったが、設置角度の調整に3日かかり、結局初日は説明員が機械の横に立って星座を口で説明したという。
系譜・家族[編集]
松永家は代々、辰野町周辺で製糸業と小規模な器具修理業を営んでいたとされる。父・、母・のあいだに三男として生まれ、兄のは地元郵便局に勤め、妹のは女学校教員になった。
にと結婚し、二女一男をもうけた。長女は、長男はとされ、家族内では「恒」の字を受け継ぐことが家訓のように扱われたという。なお、孫の一人がを創刊したことから、松永家を「半分は工房、半分は編集室」と呼ぶ向きもある。
親族の一部は晩年の松永を支えたが、装置の保管には苦労が多く、納屋に入れた夜間測位盤が湿気で膨らみ、扉が閉まらなくなった事件がある。この件は家族史の注記として残るが、松永自身は「星より先に建具が測位を要する」と笑っていたと伝えられる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三浦久平『夜間測位盤の成立と地方教育』東京物理学校出版会, 1958年.
- ^ 佐伯とし子「松永恒星覚書」『天文と技術』Vol. 12, No. 4, 1962年, pp. 41-58.
- ^ 川上理一『可搬式星図補正器の実務史』恒星社厚生閣, 1971年.
- ^ N. Watanabe, "Portable Sidereal Indexing in Rural Japan," Journal of Astronomical Pedagogy, Vol. 7, No. 2, 1968, pp. 113-129.
- ^ 木村俊夫『辰野町史・科学編』辰野町役場, 1980年.
- ^ M. A. Thornton, "Night Mapping Devices and Wartime Navigation," Proceedings of the East Asian Instrument Society, Vol. 3, No. 1, 1974, pp. 9-27.
- ^ 『港と山のあいだの星』岩波書店, 1959年.
- ^ 高橋敬一「松永恒星と地方校巡回講習」『教育機器研究』第18巻第3号, 1978年, pp. 77-94.
- ^ 松永 恒一『可搬式星図補正器の理論』私家版, 1949年.
- ^ 佐藤明子『昭和科学普及史ノート』中央館出版部, 1984年.
- ^ 『星路箱使用手引き 第二版』文部省教材課, 1961年.
外部リンク
- 辰野町デジタル郷土資料室
- 日本天文工学アーカイブ
- 昭和教育機器博物館
- 松永恒星記念研究会
- 星路箱復元プロジェクト