柳川市営地下鉄10000系電車
| 形式 | 10000系 |
|---|---|
| 運用者 | 柳川市営地下鉄 |
| 製造年 | 1987年 - 1994年 |
| 製造所 | 九州車両工業、三潴車体、東都電機製作所 |
| 営業最高速度 | 75 km/h |
| 設計最高速度 | 90 km/h |
| 編成両数 | 2両・3両・4両 |
| 主電動機 | 複巻整流子電動機 |
| 制御方式 | 遅延励磁回生制御 |
| 特徴 | 床下排水ルーバー、潮位連動ブレーキ、柳川式低天井連結幌 |
柳川市営地下鉄10000系電車(やながわしえいちかてつ10000けいでんしゃ)は、が運営する向けに開発された通勤形電車である。水郷地帯における高湿度・軟弱地盤への適応を目的として設計され、地方地下鉄車両の「浮沈両用」思想を完成させた系列として知られている[1]。
概要[編集]
柳川市営地下鉄10000系電車は、に初登場した柳川市営地下鉄の主力車両である。一般には地下鉄車両に分類されるが、柳川市では水路転用区間を多く抱えていたため、完全な密閉構造ではなく、車内にわずかな通気を許容する「半地下式気密車」として設計されたとされる[2]。
本系列は、南部の高湿度環境に対応するため、車体下部に潮位観測用の小型フロートを備えた点で知られている。もっとも、運行管理局の内部資料ではこの装置は「浸水予知よりも縁起担ぎの要素が強い」と記されており、実用性については当初から議論があった[3]。
開発の経緯[編集]
水郷都市における地下鉄構想[編集]
柳川市営地下鉄の前身は、40年代後半に市内の堀割整備事業に付随して構想された「水上兼地下交通実験線」である。これは、系の通勤客が増加する一方、地盤沈下と満潮時の迂回渋滞が深刻化したことを受け、柳川市役所内の交通企画係が独自に検討を始めたものであった。
計画当初はゴンドラと気動車の併用案もあったが、に当時の柳川市長であった渡辺精一郎が「地下に入るなら、いっそちゃんと鉄道にせよ」と発言したことから、方式に一本化されたと伝えられる。なお、この発言記録は議事録の余白に鉛筆で書かれたメモしか残っていないため、信憑性には疑問がある。
10000系の設計会議[編集]
形式名の「10000」は、単なる系列番号ではなく、柳川市の面積約100.00平方キロメートルに由来するという説と、計画担当者が縁起のよい数字として採用したという説がある。設計はとの共同で進められ、特に車体外板には「水路の反射光で眩しくならない銀鼠色」が指定された。
また、初期案では車内に簀の子床を敷く提案があったが、地区の商工会から「靴下が乾かない」との強い抗議を受け、最終的には防滑ゴム床に変更されたとされる。これにより、柳川市営地下鉄10000系は地方鉄道車両としては珍しく、座席より床材の方が会議時間を要した設計例として知られている。
車体と設備[編集]
車体は鋼製で、側面窓の下端が通常より80mm高く設計されている。これは冠水時に車内へ「心理的に」水が入ってくるのを防ぐためであり、実際の浸水対策としては限定的であったが、利用者の安心感には寄与したとされる。
客室内には、柳川市の水郷文化を反映した「堀割案内灯」が設置されていた。これは、各車両の天井中央に細長い行灯状照明を配置し、駅間の暗所で水面の揺らぎを思わせる光を演出するもので、のちにから「公共交通で最も落ち着く照明の一つ」と評された[4]。
一方で、冷房装置は湿度制御を優先したため、夏季でも車内がやや涼しすぎる傾向があり、1991年夏には乗客から「涼しいを通り越して冷蔵庫の匂いがする」と苦情が寄せられた。これを受けて、翌年から送風口に微量の竹炭フィルターが追加されたという。
運用と改造[編集]
開業初期の混乱[編集]
10000系はの柳川市営地下鉄本線全通に合わせて本格運用を開始したが、初期のダイヤは潮位表をほぼそのまま時刻表に転記したため、朝夕で到着時刻が数分ずつ揺れることがあった。市交通局はこれを「自然と調和した柔軟ダイヤ」と説明したが、実際には運行管理装置が満潮警報と列車間隔制御を誤認していた可能性が高い。
特にでは、ホーム端の水抜き溝に靴が落ちる事例が月平均12件前後発生し、駅係員は「10000系は来るが、靴は戻らない」と冗談交じりに対応したと記録されている。
1990年代の更新[編集]
以降、10000系の一部編成には制御装置の更新と車内表示器のLED化が行われた。もっとも、更新工事を担当したの下請け業者が誤って旧来の行先幕の和紙仕様を再現してしまい、表示が逆光で透ける「半透明幕」として人気を集めた。
また、晩年には車体下部のフロート装置が実際に作動した例はほとんどなかったが、2003年の集中豪雨時に1編成だけが数センチ浮上したとされ、これが「10000系は沈まない」との都市伝説の発端になった。公式記録では確認されていないが、当日の乗務員日誌には「今日は少し機嫌が良かった」とだけ書かれている。
派生形式[編集]
10000系を基礎に、短編成化や観光用途への転用が進められ、10020形、10100形、10000-80番台など複数の派生が生まれた。特に10020形は、正月臨時列車用に床下へ鈴を装着したことから「鳴る地下鉄」として人気を博した。
観光改造車「しろうお号」は、前面貫通扉のガラスに柳川の水路地図が印刷され、車内放送に筑後弁の案内が追加された仕様である。観光客の満足度は高かった一方、地元住民からは「行先より前に方言の意味を覚える必要がある」との声もあった[5]。
社会的影響[編集]
10000系の登場は、柳川市における「地下鉄は大都市の専売特許ではない」という意識を定着させた。これにより、近隣自治体でも小規模地下交通の検討が相次ぎ、1980年代後半にはや南西部で類似計画が立ち上がったとされる。
また、本系列の車内広告枠は、市内の鰻店、川下り業者、保育園の入園案内が混在する独特の構成で知られ、地方交通広告の研究対象となった。とりわけ「地下でも柳川、でもうなぎは地上」という標語は、交通と食文化を結びつける成功例としてに引用されている。
もっとも、10000系が市の象徴として扱われすぎた結果、1989年には市議会で「市章より先に車両形式を覚える児童が増えている」と問題視された。これに対して教育委員会は、社会科副教材として車両形式を用いることを認め、翌年から小学校で「柳川のくらしと10000系」という副読本が配布された。
批判と論争[編集]
批判の中心は、同系列が「地下鉄」と称しながら実態は掘割区間を多く含む準水上交通であった点にある。鉄道愛好家の一部からは「地下鉄の定義を掘り下げすぎた」と揶揄され、九州支部でも長らく分類をめぐる論争が続いた。
また、10000系の最終増備車では前照灯がやや下向きに取り付けられており、夜間に水面を照らすと鯉が集まることが問題になった。市当局はこれを「景観効果」と説明したが、実際には鯉がホーム近くまで寄ることで清掃頻度が倍増し、駅務員の労務負担が増したとされる。
なお、2008年の記念式典では、形式発表当時の市長と同姓同名の人物がテープカットを行ったが、当人は実は元公民館長であり、主催者も式典直前まで気づいていなかったという。これは市史編さん室の記録に「偶然として処理」とだけ記されている[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『柳川地下交通史稿』柳川市史編さん室, 1996年.
- ^ 九州車両工業株式会社技術部『10000系車両設計報告書』社内資料, 1987年.
- ^ 佐伯みちる「水郷都市における半地下式鉄道の適用」『地方交通工学論集』Vol.12, No.3, pp. 44-58, 1991年.
- ^ H. Thornton, "Tidal Brake Systems in Municipal Railcars," Journal of East Asian Transit Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 101-119, 1995.
- ^ 柳川市交通局『10000系運用開始10周年記念誌』, 1998年.
- ^ 山本修一『筑後平野の都市鉄道と水環境』九州大学出版会, 2004年.
- ^ M. K. Ellison, "Submerged Urban Mobility and Civic Identity," Urban Rail Review, Vol. 15, No. 1, pp. 9-27, 2001.
- ^ 柳川市史編さん室編『市議会議事録抜粋 1978-1982』, 2007年.
- ^ 田中一彦「堀割照明の心理効果に関する実験的考察」『鉄道車両と照明』第4巻第1号, pp. 3-16, 1993年.
- ^ 『地下鉄と鯉の相関について』柳川交通文化研究所紀要, 第2号, pp. 77-81, 2009年.
外部リンク
- 柳川交通文化研究所
- 九州地方鉄道史アーカイブ
- 市営地下鉄車両博物館
- 筑後水郷交通資料室
- 架空鉄道技報オンライン