桐錦
| 名称 | 桐錦 |
|---|---|
| 読み | きりにしき |
| 別名 | 桐織錦、錦桐 |
| 分野 | 織物工芸、装飾布 |
| 発祥 | 京都府南部 |
| 成立時期 | 江戸時代後期 |
| 主な用途 | 袱紗、襖縁、祭礼具、舞台装束 |
| 特徴 | 桐皮繊維と金銀糸を併用する多層織り |
| 保存団体 | 日本桐錦保存会 |
| 登録区分 | 無形民俗工芸資料 |
桐錦(きりにしき)は、南部で成立したとされる、の繊維を極細に裁断して織り込んだ装飾布、およびその技法名である。近代以降はの意匠分類としても用いられ、系の織物研究ではしばしば「消えた準貴族工芸」として言及される[1]。
概要[編集]
桐錦は、の若木から採取した皮層繊維を、およびと交織して作るとされる装飾布である。一般にはの一派とみなされることが多いが、技法上はの補助織りを起点に独自発展したものとされる。
名称は、桐の「桐」と、錦を意味する「錦」を合わせたもので、元来は「桐のように軽く、錦のように華やか」という品質目標を指した職人用語であったという説が有力である。また、布地が湿度に応じて微細に色調を変えることから、周辺の古文書では「朝は青錦、暮れは錆錦」とも呼ばれていた[2]。
起源[編集]
宮廷試作の説[編集]
桐錦の起源については、年間にへ納める献上布の試作中、桐皮が偶然混入したことから生まれたとする説がある。とくにの山裾で採取される若桐の皮層は繊維が細く、試織したところ、通常の絹糸よりも光を散らす性質が確認されたという。
この説を支える資料として、2年の『織局雑録』に「一反の布、雨気に応じて枝葉の影を帯ぶ」との記述があるが、真偽は定かでない。なお同書には、担当職人のが「錦に木の息を入れる」と言い残したともあり、保存会では名言として扱っている。
寺社修復との関係[編集]
一方で、の修復に携わった集団が、破れた帳の補修用として桐皮を薄く割いて用いたのが始まりとする説もある。桐皮は虫害に強く、また火の粉を受けても表層が縮むだけで芯が残るため、仏具周辺の装飾材として重宝されたという。
3年には、の商家が桐錦の小切れを護符代わりに売り出し、月に約1,400枚を捌いたとされる。この販売記録はの複写帳に残るとされるが、欄外に牡丹の印が連打されており、研究者の間では「会計係の趣味である可能性」が指摘されている。
技法[編集]
桐錦の制作は、まずの若枝から採取した皮を三日間灰汁で煮、さらに竹簾の上で二昼夜乾燥させる工程から始まる。これを髪より細い帯状に裂き、として糸と交差させると、光沢の奥に木質の鈍い反射が生じるとされる。
最盛期の工房では、幅二尺八寸、長さ十間の織機を五人一組で扱い、1反あたり平均17日を要したという。特に夏場は湿度が高く、繊維が膨張して経糸を噛むため、職人はの水面の反射を見ながら張力を調整したと伝えられる。
なお、完成直前に米ぬかを極薄く刷く「糠打ち」という仕上げが行われるが、これにより布がわずかに香ばしい匂いを帯びる。保存会の実験では、同処理を行った試料の表面摩耗率は無処理比で約23%低下したと報告されている[3]。
歴史[編集]
江戸後期の流行[編集]
後期、桐錦はとの間で「控えめな奢侈」として流行した。とりわけの呉服商が、灯火の下でのみ模様が浮かぶ夜用の袱紗を販売したことで評判となり、13年には京都市中で年間推定860反が取引されたという。
しかし、桐皮の採取が過剰になったことで苗木不足が発生し、の数村で桐の植え替え令が出たとされる。これが後の「桐保護規定」の原型になったとする研究もあるが、当時の役所文書には「桐が減ると布が黙る」といった不可解な比喩があり、解釈を難しくしている。
明治期の工業化と衰退[編集]
に入ると、桐錦は系の殖産政策の中で一時的に標準化が試みられた。とくに出品用に、金糸比率を17%、桐皮比率を9%、残りを絹で埋める規格が定められたとされるが、実際には工場ごとに誤差が大きく、同一規格のはずの反物でも手触りが4種類以上あったという。
その後、安価な印刷布の普及により需要は急減した。明治末には、京都市内の桐錦工房は推定12軒にまで減少し、うち7軒が襖張り専門へ転業した。なおの連載記事では、桐錦を「時代に追い越されたが、まだ高貴に見える布」と評している。
復興運動[編集]
40年代、民藝運動の影響を受けたが桐錦の復元に着手した。中心人物はとで、の旧家から入手した断片4点をもとに、織密度、糊付け、桐皮の採取時期を再現したという。
1978年にはの協力で試作展が開かれ、観覧者の3割が「紙に見えるが布である」と証言した。これが逆に話題となり、以後は美術工芸の文脈でも評価されるようになったが、一部では「保存より再話が先行した」との批判もある。
社会的影響[編集]
桐錦は、単なる衣料素材というより、京都の都市美学を象徴する媒介として扱われてきた。たとえばの一部山鉾では、桐錦の断片を縁取りに用いることで「遠目には金襴、近くでは木肌」という二重の見え方が意識されたとされる。
また、の世界では、桐錦袱紗が「動作を遅く見せる布」として重宝され、扱う所作が1割ほど丁寧に見えるという経験則が広まった。1980年代の調査では、桐錦を使う席では客の発話回数が平均0.7回減少したとされ、静謐さの演出に寄与したと分析されている[4]。
批判と論争[編集]
桐錦には、その起源をめぐって常に論争がある。とくに、桐皮を主材料とする説については「本当に布と呼べるのか」という疑義があり、の一部研究者は、桐錦を「半植物質織物」と再分類すべきだと主張した。
さらに、保存会が公開した復元試料のうち2点が、実際には後年の合成繊維を混ぜたものであった疑いがあり、2011年に小さな騒動となった。保存会側は「展示用の安定化処理である」と説明したが、当該試料だけ妙に光沢が強く、来場者アンケートでは「新品のカーテンに近い」との回答が多かった。
現在の状況[編集]
現在、桐錦の本格製作を継承している工房は内に3軒、近郊を含めても7軒ほどとされる。多くは受注生産で、1反の価格は保存用で18万円前後、祭礼用の特注品では45万円を超えることもある。
一方で、観光土産向けに簡略化した「桐錦風」製品も流通しており、これについては保存会が「見た目の模倣にとどまり、素材思想が欠落している」と注意を呼びかけている。もっとも、若手職人の間では、逆にこの簡略版を入口にして本来の技法へ関心を持つ例も増えているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 中村照子『桐錦復元試験報告』日本染織学会誌 第18巻第3号, 1979, pp. 44-61.
- ^ 佐伯隆一『木質繊維と錦地の交錯』京都工芸叢書, 1981, pp. 102-139.
- ^ 藤堂雅彦『近世京都における装飾布の変遷』勁草書房, 1994, pp. 211-248.
- ^ Harold W. Kimball, “Fiber Memory in Kiri-Nishiki Textiles,” Journal of East Asian Craft Studies, Vol. 7, No. 2, 2008, pp. 55-79.
- ^ 田村澄江『桐皮利用史とその周辺』民具と生活 第31巻第1号, 2002, pp. 8-26.
- ^ Emilia Voss, “The Quiet Luxury of Kiri Brocade,” Textile Antiquity Review, Vol. 12, No. 4, 2015, pp. 301-327.
- ^ 京都市歴史資料館編『織局雑録抄』京都市文化財研究所, 1967, pp. 17-34.
- ^ 高橋竜一『布が黙るとき——桐錦と都市美学』芸術新報 第44巻第9号, 2011, pp. 77-95.
- ^ Margaret L. Fenwick, “On the Botanical Stability of Decorative Brocades,” Proceedings of the Imperial Textile Institute, Vol. 3, No. 1, 1972, pp. 1-19.
- ^ 日本桐錦保存会『桐錦技法書 第2版』保存会出版部, 2019, pp. 5-88.
外部リンク
- 日本桐錦保存会
- 京都染織文化アーカイブ
- 西陣工芸研究フォーラム
- 京都市歴史資料館デジタル目録
- 東山織物実験室