森島那琉
| 氏名 | 森島 那琉 |
|---|---|
| ふりがな | もりしま なら |
| 生年月日 | 1912年7月18日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1987年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 奇術師(幻術師)、舞台照明技師兼任 |
| 活動期間 | 1936年 - 1979年 |
| 主な業績 | 幻術体系『半透明譜』の確立、救急訓練用“視覚錯覚”デモの普及 |
| 受賞歴 | 相当の『舞台科学賞』(1964年)ほか |
森島 那琉(もりしま なら、 - )は、の奇術師(きじゅつし)である。人体解剖図にも似た“透明化”の幻術で知られる[1]。
概要[編集]
森島那琉は、の奇術師であり、舞台上で物体を“透明化したように見せる”幻術体系を編み出した人物として知られている。彼の呼び名はしばしば「透明の口述者」ともされ、舞台照明の調光と手先の操作を、同じ“譜面”として扱った点に特徴があった。
那琉の人気は、第二次世界大戦後の娯楽需要と同時に、教育・訓練現場へも広がったことで拡大したとされる。特にの救急講習で行われたデモは、視認性の錯覚を利用した訓練として採用され、奇術が単なる見世物に留まらない道具になったと語られた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
森島那琉はに生まれた。家は造船下請けを扱うとされ、父の森島琢也は“船体の歪みを測る”仕事で、母の里江は帳簿と色票(いろふだ)を管理していたという逸話が残っている[3]。
那琉は幼少期に、港で拾ったガラス片を並べて光の屈折を観察し、16歳までに「影が先に動く瞬間」を再現する“実験ノート”を綴っていたとされた。実際にはノートが残っていないため、どこまでが事実かは不明とされるが、伝記作家の間では「幻術の前に観測があった」という言い回しが定型化している[4]。
青年期[編集]
那琉はへ出て、周辺の寄席で手伝いをしながら、舞台照明の修理屋に通ったとされる。彼が照明の“ちらつき”を嫌い、調光器を分解しては組み直していたことは同時代の回想に複数見られる。
1933年、那琉は“透ける紙”の実験に没頭し、メーカーの不良品フィルムを買い集めた。買い集めの合計枚数は後年「ちょうど917枚だった」と語られたが、数字の正確性には疑問が残る。ただし、この917という語呂は彼の口癖になり、弟子が舞台道具を失くすたびに数え直させられたという[5]。
活動期[編集]
那琉の活動は1936年、の小劇場で初舞台を踏み、以後は全国巡業へ移行した。彼は“透明化”を単一の技ではなく、舞台空間全体の配列として教えたため、観客の視点誘導が体系化されたとされる。
戦後しばらくして、那琉は舞台技術研究会へ参加し、の下部委員会に招かれたという記録がある。委員会では「透明性=観客の注意配分」として扱われ、救急訓練の映像投影と組み合わせる案が出された[6]。那琉はこの議論を“半透明譜”と名付け、照度(しゃど)を段階的に刻むことで錯覚を制御できると主張した。
晩年と死去[編集]
晩年の那琉は、劇場の舞台裏で若い照明技師へ直接指導することが多くなった。彼は「観客は嘘を見に来るのではない。納得を見に来る」と講釈し、透明化の前に“沈黙の秒数”を稽古させたとされる。
1987年11月3日、那琉はの自宅で体調を崩し、78歳で死去したと伝えられる。死因は公式には公表されておらず、伝記では「調光器の焦げた匂いが原因ではないか」といった滑稽な推測が混じる。もっとも、遺族が“匂い”を否定したため、真偽は定かではないとされる[7]。
人物[編集]
森島那琉は几帳面で、道具の配置をミリ単位で管理したとされる。「ハンカチは右から57歩、左からは58歩」と弟子に言い残した逸話は有名で、舞台のリハーサルでも歩数のばらつきを異常に嫌った。
一方で彼の性格は頑固一辺倒ではなかった。舞台科学の議論では、反対意見の提出者に対し“透明化の反論札”として丁寧なメモを返したという。批判を受けても怒らず、代わりに別の角度で“同じ錯覚”を実証しようとした点が、仲間の信頼につながったとされる[8]。
また那琉は食の好みが変わっていたとされ、旅先で必ず同じ店の“出汁の濃さが3段階のうどん”を注文したらしい。濃さ3が彼の気分を安定させたというが、記録は本人のメモのみで裏取りできないとされる。
業績・作品[編集]
森島那琉の代表的な業績は、幻術体系『半透明譜(はんとうめいふ)』の確立である。彼は透明化を“布”ではなく“時間”の操作として扱い、視線誘導のために沈黙を0.7秒刻むなど、細かなタイミングをレッスン化したとされる[9]。
作品(と呼ぶべき一連の舞台)としては、『霧扉(むとびら)』、『蒼光の仮縫い(あおひかりのかりぬい)』、『縫い目のない骨(ほね)の舞』などが挙げられる。特に『霧扉』では、観客席中央から見た場合のみ“鍵穴が存在する”ように見える仕掛けがあり、観客が左右に移動すると鍵穴が消えるため、笑いと不安が同時に生じたと評された。
那琉はさらに、舞台技術を教育へ応用するための手引書『注意の幾何(きか)』を執筆したとされる。内容は幻術の手順だけでなく、救急講習で使う“誤認の矯正”の手法にも触れている。なお、この書が実在するかどうかは研究者の間で揺れているが、引用形式が整っているため「作った本人が後で回収しなかった」可能性も指摘されている[10]。
後世の評価[編集]
森島那琉の評価は、奇術界と舞台技術分野の両方で特徴的に分かれている。奇術界では「視覚錯覚の倫理を守った稀有な芸人」とされる一方、演劇技術側では「照度調整の職人的誇張が多い」として距離があるとされる。
もっとも、彼が導入した“透明化=注意配分”という考え方は、後の舞台演出の教育カリキュラムへ影響したとされる。たとえばの演劇学校で、入学直後に30秒間だけ“何も起こらない”暗転稽古を行う制度が始まったのは、那琉の記述を参考にしたと説明されることがある[11]。
一方で、那琉の“沈黙の秒数”を過度に厳密化した結果、現場では逆に疲労が増えたという批判もある。数字を崇拝しすぎて、観客の呼吸とズレるという指摘があり、後の指導者は「秒数は目安である」と再調整したとされる。
系譜・家族[編集]
森島那琉の家系については資料が少なく、祖父の名が文書により揺れている。もっとも、共通して挙げられるのは、父の森島琢也が“計測”を仕事にしていたという点である。
那琉は一度結婚し、子として長男の森島廉太(れんた、1940年生)と次女の森島紗乃(さの、1946年生)をもうけたとされる。廉太は一時期、の小劇場で音響を担当したが、のちに測量会社へ転じたという。また紗乃は舞台用の布地メーカーに就職し、透明化用の薄手素材の配合を研究したと語られる[12]。
家族の証言として、那琉が死去の前夜に「次は910枚目だ」とつぶやいたとされる。だが当時の手元のフィルムは数え直されておらず、数字が“呪文”として残っただけではないかとも推測されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 森島那琉『半透明譜の実戦解剖(再編集版)』舞台科学出版社, 1971年.
- ^ 高橋藍子『錯覚教育と舞台技術—透明化の社会実装』東京学藝社, 1982年.
- ^ 佐伯信哉『浅草の照明修理屋と芸人たち』街灯書房, 1968年.
- ^ M. Thornton, “The Geometry of Attention in Japanese Stage Illusions,” Journal of Performing Arts, Vol. 12, No. 3, pp. 44-63, 1976.
- ^ 川端文人『救急訓練における誤認訂正の方法』医学教育出版, 1959年.
- ^ 田代玲子『透明化は芸か、計測か』演劇史研究会, 第5巻第2号, pp. 9-27, 1991.
- ^ 伊藤一郎『舞台科学賞の系譜』文化功労会編, 第8集, pp. 101-119, 1965.
- ^ R. Nakata, “Silence Timing and Spectator Movement,” International Review of Stagecraft, Vol. 4, pp. 201-219, 1980.
- ^ 鈴木章太『数が支配する稽古—秒数・歩数の記憶』幻術文庫, 2003年.
- ^ (タイトルが不自然な文献)『半透明譜の実在性に関する覚書』未知出版社, pp. 1-6, 1974年.
外部リンク
- 半透明譜アーカイブ
- 今治港計測資料館
- 救急訓練と視覚錯覚研究会
- 舞台照明調光研究フォーラム
- 森島家系メモリアル