横浜帝国大学
| 区分 | 旧制官立大学(帝国大学系統) |
|---|---|
| 所在地 | (みなとみらい周辺の想定キャンパス域) |
| 創設 | (帝国学術評議会の決定によるとされる) |
| 学部 | 工学部・法政部・医学部・商学部・海事学科(のち増設) |
| 建学の精神 | 港湾文明のための「衛生と統治の両立」 |
| 校章 | 錨と麦穂の意匠(海運資本と食糧管理を象徴したとされる) |
| 運営 | 文部省管轄下の帝国大学事務局(通称・帝大庁) |
横浜帝国大学(よこはまていこくだいがく)は、に設置された旧制の官立高等教育機関である。港湾行政と造船・衛生工学を軸に拡張され、戦前から戦後初期にかけて「都市を研究する大学」として知られた[1]。
概要[編集]
は、港と都市の機能を一体の「生きたシステム」として扱うことを目的に構想された大学である。とくに、貨物流量・潮位・疫学調査を同一の統計枠組みに載せる姿勢が、工学者のあいだで「衛生化された産業地図」と呼ばれた[2]。
創設はとされるが、実務上の準備はそれより前から進められたとされる。つまり、の研究者が「横浜は港である前に“検査台”である」と主張し、港湾職員と大学設置係が共同で草案を作ったことが起源だと説明されてきた[3]。この草案は全27章で、うち19章が“雨水の採取手順”に割かれていたといわれる。
当時のキャンパスは現在の行政区分に照らすとの複数地点に分散していたという設定が多い。ことに「臨海統治実験場」と「市街衛生観測小屋」が最初期の拠点として記録され、後に統合的な学舎へ拡張されたとされる[4]。
歴史[編集]
創設の経緯:帝国学術評議会と“港の採寸台帳”[編集]
横浜帝国大学の設立は、の提案によって進んだとされる。評議会は当初、大学を「人材育成の器」と考えていたが、横浜の港湾統計を見て考えが変わったという。具体的には、ある試算で「船舶の遅延が平均で月当たり14.2時間、結果として港湾倉庫の清掃回数が年308回変動する」ことが示され、学問を“遅延の原因究明”へ寄せる必要があると結論づけられた[5]。
この試算の中心人物として、出身の行政技師・(当時29歳、港湾監督補佐)が挙げられる。渡辺は、台帳を「建築図面と同じ粒度」で扱うべきだと主張し、大学側にも同じ様式で報告書を提出させたとされる。なお、この台帳の様式には“潮の匂い指数”という項目があり、港の衛生を評価するために、鼻の官能評価を数値化したと説明される[6]。
ただし、なぜ鼻の官能評価が制度化されたのかについては異説がある。一方では、当時の疫学研究者が「顕微鏡は見えるが匂いは先に汚染を知らせる」と述べたためだとされ、他方では、単に会議が長引いて昼食後の議論が“匂い話”に流れた結果だとする滑稽な回想も残っている[7]。このような語りは史料編纂の過程で増幅されたと考えられているが、大学の文化を示す逸話として引用され続けてきた。
拡張期:海事学科と衛生工学の“統治アルゴリズム”[編集]
開学後、横浜帝国大学は工学と医学の接続を急速に強めた。とくにでは、造船と港湾の波浪を結びつける研究が活発になり、はに新設されたとされる。新設時の審査書類には「船底の形状から半径方向の腐食速度を推定する」手法が記され、さらに“衛生担当官の承認が腐食抑制材の導入速度を左右する”という、いかにも制度研究めいた一文が付されていた[8]。
衛生工学の分野では、大学の名物が生まれたとされる。名物は「統治アルゴリズム(Rule-by-Reference)」で、住民の通勤導線、港の労働時間、下水の洗浄頻度を参照して感染リスクを見積もる枠組みだった。研究会では、毎朝6時と18時の採水量を必ず記録し、記録は“1滴単位で帳簿に押印”されたという。もっとも、押印が厳密すぎて学生が1日に押印する量が平均で1,240回を超えたため、半年後に押印回数は半分に減らされた、と学生の手記は述べている[9]。
一方で、こうした制度設計は社会にも影響した。港湾で流通する薬品や消毒剤が、大学の推奨仕様書に合わせて規格化され、結果として商社の調達が変わったとされる。とくにの卸売市場では、大学の仕様書に準拠するか否かで取引先が分かれたという証言がある。これにより、大学の研究成果が、学術よりも先に“現場の規格”として社会に降りていったと説明されることが多い[10]。
戦後初期と“臨海大学”化:閉鎖か継承か[編集]
戦後初期、横浜帝国大学は再編の対象になった。大学側は、都市の機能を測る枠組みを手放すことはできないとして、研究機構の形を維持しようとしたとされる。その結果、学部の一部が独立研究所へ移され、大学名も短期間だけ「臨海大学(リンカイダイガク)」の呼称で運用された時期があったという[11]。
この名称変更の理由は、当時の文部系官僚が「帝国」の語を避ける必要があったためだとする説明が広く流通している。しかし、異説として「海の霧の出現率が統計上、帝国期よりも“都合よく”上がったため、縁起を担いだ」という、気味の悪い逸話も残っている[12]。霧の出現率は、観測記録によれば午前中だけで“年平均で0.7%増加”したとされるが、当時の観測条件が統一されていなかった可能性も指摘されている。
さらに、継承された研究は、のちの都市工学や環境衛生の系譜に接続したとする語りがある。横浜帝国大学の卒業生は「市民の健康は港湾の流れに依存する」と繰り返したとされ、その言い回しが行政マニュアルに取り込まれたという。もっとも、行政マニュアルは後に改訂され、「港湾の流れに依存する」という文言は“統計的に説明困難”として削除された、とされる[13]。この“消された一文”が、大学史の中で最も読まれるエピソードになっている。
批判と論争[編集]
横浜帝国大学の研究手法は、実務的である一方、制度寄りであったために批判も受けた。特に、感染リスク推定の前提として「港湾職員の判断速度」が変数に含まれていたことが問題視されたとされる。批判者は、健康を“人の手続き”に寄せることは科学の中立性を損ねると主張した[14]。
他方で擁護側は、当時の社会では制度の遅れが衛生の遅れとして現れるのだから、変数に含めるのは当然だと反論した。実際、大学の内部記録では、消毒剤の導入までの平均日数が“承認段階1で3.1日、段階2で2.4日、段階3で1.7日”に分解され、合計で7.2日になったという[15]。この数字があまりに綺麗だったため、後年には「実測ではなく丸めた可能性」が指摘されている。
また、学生の押印回数が異常に多かった件は、学習負担の観点からも論争になった。学生自治会は「1,240回の押印は、研究ではなく“書類の儀式”に変質する」と抗議し、押印回数を減らす代わりに“鉛筆の芯の消費量”を記録するよう求めたとされる。もっとも、その記録制度が始まると今度は芯の消費量が月当たり平均で19.6本から21.1本へ増えた、と報告書が残っている[16]。このように批判と改革が同時に摩耗していく過程が、大学の皮肉なリアリティを形づくったと評価されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 帝国学術評議会編『帝国学術評議会議事録(第二十六回)』帝国文庫, 1931年.
- ^ 横浜帝国大学史編集委員会『横浜帝国大学要覧(復刻版)』横濱學藝社, 1954年.
- ^ 渡辺精一郎『港の採寸台帳と都市衛生』帝国官報局, 1934年.
- ^ A. Rutherford『Port Sanitation as Governance: A Yokohama Case』Journal of Maritime Policy, Vol.12 No.3, pp.41-88, 1937.
- ^ 谷口信太郎『海事学科設置の経緯と波浪腐食モデル』『工学年報』第5巻第2号, pp.101-146, 1936.
- ^ M. Thornton『Rule-by-Reference and the Myth of Neutral Science』Proceedings of the International Urban Hygiene Society, Vol.2, pp.1-33, 1949.
- ^ 小林恵美『統治アルゴリズムの制度実装:消毒剤承認日数の分解』『行政技術研究』第9巻第1号, pp.7-52, 1952.
- ^ 横浜衛生統計研究会『潮の匂い指数の妥当性(非公式検討)』港湾統計叢書, 1935年.
- ^ S. Baker『Mist Rates and Institutional Names: A Retrospective』Harbor Climate Review, pp.220-248, 1961.
外部リンク
- 横浜帝国大学アーカイブ
- 臨海大学系譜データベース
- 港湾衛生マニュアル倉庫
- 帝大庁議事録検索
- 都市衛生押印資料館