欠島尸曜
| 名称 | 欠島尸曜 |
|---|---|
| 読み | けっとうしよう |
| 英語名 | Kettō Shiyō |
| 成立 | 18世紀末頃とされる |
| 主な地域 | 瀬戸内海沿岸、紀伊半島南部、伊豆諸島の一部 |
| 用途 | 潮位予測、禁漁日設定、航海の吉凶判断 |
| 提唱者 | 庄司玄庵、白石環、久保田礼蔵らとされる |
| 関連機関 | 民俗暦研究会、海上保安資料館西日本分室 |
欠島尸曜(けっとうしよう)は、の沿岸部で発達したとされる、欠けた島影を形に見立てて日ごとの潮位変化を読むための民俗暦法である。とくにの小島漁村で重視されたとされ、のちにの一部研究者に注目された[1]。
概要[編集]
欠島尸曜は、の欠け方と、さらにの位相を対応させることで、漁の可否や沖出しの時刻を決める独自の判断法である。文字どおりには「欠けた島」と「尸のかたち」を読む術を意味し、江戸後期の海民社会で半ば実用、半ば呪術として扱われたとされる[2]。
一般には串本町周辺の古老に由来するとされるが、実際にはの寺院文書、の船頭帳、の測量記録が寄せ集められて体系化されたという説が有力である。なお、初期の写本では「尸曜」を「屍曜」と誤記した例が少なくなく、この誤記がむしろ広まりの契機になったと指摘されている[3]。
成立史[編集]
庄司玄庵による原型[編集]
最初期の記録は4年の「玄庵航海覚書」に見えるとされ、の外海で島が夕暮れに欠けて見える現象を、船乗りの不安を鎮めるための暦図に転用したものが始まりとされる。庄司玄庵はに通じた僧侶で、潮の干満を十二支ではなく七曜に結びつけた点が特異であった。
同書には「二月朔の申刻、尸影は西南に偏し、漁船三艘は網を上げよ」といった記述があり、後世の研究者の間では実測値として驚くほど細かい一方、なぜか島の形状ではなくの出没回数まで併記されていることから、実用書というより呪的手帳に近いとみなされている。
白石環と記号化[編集]
11年ごろになると、の紙問屋に出入りしていた白石環がこれを図式化し、欠けた島影を三日月・鰯雲・舟底の三類型に分けた。彼女は一日を「尸初」「尸中」「尸終」の三区分に整理し、潮位の上昇下降を単位で記録したため、後代の漁師からは「やけに具体的すぎる」と評された。
白石の記号表はの商人たちに受け、実際には天候よりも取引の締め日を決める会計道具として使われたとする史料もある。とくに『白石家沿海符号帳』第三巻には、魚の値段と島の欠け方が同じ頁に並んでおり、海産物市場との結びつきが強かったことがうかがえる。
久保田礼蔵と公的採用[編集]
明治初期には水路局の嘱託であった久保田礼蔵が欠島尸曜を整理し、沿岸の灯台守向け簡易版を作成したとされる。これにより、従来は各村ごとに異なっていた判定基準が「欠島率」「尸傾角」「曜落差」の三指標に統一された。
もっとも、久保田版の実測表には17年だけ異常に空白が多く、これは彼が沖での試験中に、欠島を見誤って満潮の防波堤に上がってしまったためだという逸話が残る。本人は「島が欠けるのではない、見物人の方が欠けるのだ」と述べたとされるが、一次史料は未発見である。
理論[編集]
欠島尸曜の理論は、島影が欠けて見える角度をの字形に対応させ、そこから翌日の潮汐と風向を推定するものである。理論上は、島の左肩が欠ければ北東風、右脚が欠ければ南西潮とされ、観測者が持つの長さによっても補正値が変わる。
この体系が妙に信じられた理由として、島影の輪郭が季節や大気屈折で微妙に変わるため、どの結果も「外れたとは言い切れない」点が挙げられる。また、判定文句が「本日は尸が半歩退くため禁網」といった詩的表現で統一されており、では占いと実務の区別が曖昧になった。
一方で、の導入後も一部漁協で慣例的に使われ、1997年にはの沿岸調査で「欠島尸曜を参照した船団の出漁率が通常より14%低い」という、当たり前のようでいて用途不明な統計が報告されている。
各地への広がり[編集]
欠島尸曜はのほか、、、の一部にも伝わったとされる。地域ごとに解釈が異なり、伊豆では島影よりもの形を重視し、能登では「尸曜の日は嫁入りを避ける」とする婚礼忌避が発達した。
では異国船の入港判断に流用され、通詞たちはこれを「カンネン表」と呼んだが、実際は英字の曜日を混ぜただけの半端な翻訳に終わったらしい。さらにの一部では、欠島ではなく「欠けた津軽富士」を読むという逆転現象まで生じ、研究者のあいだで「地形が先か民俗が先か」が長く争われた。
なお、30年代の観光ブーム期には、土産物店が「尸曜うちわ」「欠島絵葉書」を販売し、学術よりも風景ブランドとして定着した時期がある。ここで流通した絵葉書の一枚には、存在しないはずの島が六つも描かれており、現在ではコレクター市場で高値がつく。
社会的影響[編集]
欠島尸曜は漁業だけでなく、の意思決定にも影響を与えた。とくに「尸曜に会議を開くと長引く」という俗信から、寄合は満潮前に始めることが多く、結果として早朝開催の慣行が生まれたとされる。
また、の一部では欠島尸曜を応用した「婚姻吉凶図」が作られ、相性の悪い者同士を潮の引き方で判定した記録がある。これにより、ある年だけ縁談が極端に減少した村があり、後に原因を調べたところ、担当の庄屋が潮位表を曜日表と取り違えていたことが判明した。
近代以降は迷信として退けられつつも、の研究対象として再評価され、2021年にはで小規模な展示が行われた。展示解説では「島のかけらを読む技術」と説明されたが、来場者の多くはむしろ、木札に残された「尸曜は雨天でも有効」との一文に強い印象を受けたという。
批判と論争[編集]
欠島尸曜には早くから批判も多かった。第一に、同じ島を見ても判定が人により違い、測定者の酒量や視力に左右される点である。第二に、潮汐の表が当たっているように見えるのは、当時の漁期がそもそも経験則に支えられていたためで、欠島尸曜の寄与は限定的だとする見解がある[4]。
一方で、熱心な支持者は「外れた日の記録こそ本流である」と主張し、明らかに失敗した日ほど儀礼が細かくなる傾向を誇った。このため、学者のあいだでは「欠島尸曜は予測法ではなく、失敗の記述法である」とする逆説的定義がしばしば用いられる。
2008年にはの保存会が、欠島尸曜の伝承地をめぐる看板設置を申請したが、県の文化財担当が「島の欠け方に著作権はない」と発言し、軽い論争になった。なお、後に担当者は「発言は比喩である」と釈明している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 庄司玄庵『玄庵航海覚書』紀伊海洋出版社, 1794.
- ^ 白石環『白石家沿海符号帳』第3巻第2号, 摂津民俗研究会, 1812.
- ^ 久保田礼蔵「沿岸潮位観測における欠島尸曜の補正式」『水路学雑誌』Vol. 8, No. 4, pp. 41-67, 1884.
- ^ 佐伯宗一『海民の曜日観念と尸形図』青潮書房, 1931.
- ^ M. A. Thornton,
- ^ The Shadow-Island Calendrics of Western Japan,
- ^ Journal of Maritime Folklore
- ^ Vol. 12, No. 1, pp. 3-29, 1968.
- ^ 藤原紀子「欠島尸曜伝承の地域差」『民俗と潮流』第17巻第2号, pp. 88-104, 1977.
- ^ Takeshi Morimoto,
- ^ A Probabilistic Reading of Kettō Shiyō Tables,
- ^ Bulletin of the Coastal Studies Institute
- ^ Vol. 21, No. 3, pp. 119-146, 1999.
- ^ 中村澄江『島影を読む——欠島尸曜の実践と誤読』港湾文化叢書, 2004.
- ^ 野口一成「明治期水路局資料にみる欠島尸曜」『近代海事史研究』第29巻第1号, pp. 15-39, 2011.
- ^ Elizabeth R. Hume,
- ^ When the Shoreline Turns to Bone,
- ^ Coastal Antiquities Review
- ^ Vol. 5, No. 2, pp. 201-228, 2019.
外部リンク
- 民俗暦研究会アーカイブ
- 海民伝承データベース
- 国立歴史民俗博物館 デジタル展示室
- 瀬戸内沿岸文化保存協議会
- 西日本潮汐史料館