歌山芳盛
| 別名 | 芳盛式唱導法(ほうせいしき しょうどうほう) |
|---|---|
| 生年・没年 | 頃 - 頃 |
| 活動領域 | 民俗音楽研究、祭礼運営、訓練制度設計 |
| 主な拠点 | 周辺、の講習会場 |
| 代表的著作 | 『唱導実務綱領』、『節回し稼働簿』 |
| 研究方法 | 旋律記録と出納の二重台帳 |
| 影響 | 祭礼団体の規約文書テンプレ化 |
| 評価 | 実務家として高評価、学術側は賛否 |
(うたやま よしもり)は、の民俗音楽研究と祭礼運営をつなぐ領域で名が挙がる人物である。彼の体系は、実地の歌唱指導と会計的な「稼働計算」を同時に扱う点が特徴とされている[1]。
概要[編集]
は、民俗の歌唱を「芸能」ではなく「運用する技術」と捉えた人物として知られている。とくに彼が広めたとされるは、唄の節回し(音程の揺らぎ)を記録する一方で、練習回数や当日の動線、供物の準備時間までを同じ台帳に記す点が特色とされる。
芳盛は、を中心に祭礼の講習会を巡回したとされる。さらに、地域の年配者だけでなく若手の世話役にも同じ指導書を渡し、「歌えること」と「段取りを回せること」を分けずに評価したことで、祭礼の運営が急速に標準化していったと説明される[2]。ただし、その標準化が“学術的”な正しさよりも“現場の都合”を優先したため、後年に論争の種にもなったとされる。
生涯と活動[編集]
大台帳の発想は宴席の台所から[編集]
歌山芳盛の経歴は、断片的な聞き書きと規約書の写しに基づくとされる。最初の手がかりとして、彼が内の「講習会場(旧座敷)」で配布したといわれる“配分票”が挙げられることが多い。この配分票は、出席者一人につき墨で塗る印が3種類あり、(1)歌唱、(2)指揮、(3)会計補助に分かれていたとされる。
この3印方式は、当時の余興が終わった後に台所で帳尻が合わないことが頻発したことから生まれた、という伝承がある。芳盛は「旋律は耳で測れても、遅れは鍋で測られる」と語ったとされる[3]。なお、この逸話の出典には館蔵資料の写しが引用されるが、写しの筆致が複数人のものに見えるため、編集者の脚色が疑われるとも指摘されている。
稼働計算(稼働節)の導入[編集]
芳盛は「節回し稼働簿」を作ったとされる。稼働簿は、1曲あたりの練習時間を分単位で記し、さらに歌詞の“言い切り”の位置を仮の小節として数えたという。とくに有名なのは、祭礼当日の進行を「前奏 7分」「本唄 23分」「後奏 11分」のように固定し、変更が必要な場合は“変更理由”を1行で書かせる運用だったとされる[4]。
この運用は、学術機関ではなく、内の複数の祭礼連合が採用したことで広まった。採用初年度、連合の会計監査が「練習回数が一定でも、供物準備がばらつく」と指摘したため、芳盛は供物の調達日を“稼働前倒し”として台帳上に組み込んだと説明される。結果として、祭礼は予定より早く始まった一方、最後の片付けが遅れるという新しい問題も発生したとされ、皮肉にもその改善が次の標準化につながった。
体系(芳盛式唱導法)[編集]
記録は音程ではなく“ぶれ”で行う[編集]
では、正確な音高よりも、歌唱時の“ぶれ”を数として扱うとされる。芳盛は、旋律の山(強調される語尾)を「山点(さんてん)」と呼び、各山点の到達に要する息の長さを10段階に分類したという。この分類があまりに具体的だったため、後年の模倣者が「息の長さを測る器具」を自作し始めたとも言われる。
当時の民具店には「芳盛息尺(ほうせい そくしゃく)」が注文されたという記録が残るとされるが、その実在は確定していない。一方で、講習会場の備品台帳には“尺”に似た木札が見つかったとする報告があり、少なくとも紙の上では体系が成立していたことが示唆される[5]。
規約テンプレート化の狙い[編集]
芳盛は歌唱指導と並行して、祭礼団体の規約文書をテンプレート化したとされる。彼の文書は「役割:世話役、音頭役、出納役」「罰則:遅延1回につき“詫び拍子”2回」など、いわば“音楽付きの会則”になっていたと説明される。
このテンプレートが採用された団体の一つであるの小連合では、翌年の総会で“詫び拍子”の実施方法をめぐり議論が起きたとされる。なぜなら、詫び拍子は歌の練習にも聞こえるため、若手が「罰が練習の言い訳になっている」と感じたからだと記される。こうした現場のズレを踏まえ、芳盛は“罰の回数は拍数ではなく歌詞の長さで換算する”方式へと修正したとされる。なおこの修正案の草稿には、鉛筆で「換算:第3節から」と書かれていたと伝えられる[6]。
社会への影響[編集]
歌山芳盛の活動は、祭礼を単なる伝承としてではなく、参加者の技能と段取りを管理する制度として見直す契機になったとされる。結果として、世話役の交代時期に生じる混乱が減ったという証言が残る一方で、「運用の都合が歌の解釈を縛る」という反発も生まれた。
具体例として、の一部地域では、祭礼の受付を「稼働簿の提出順」で行った時期があったとされる。提出順が人気の歌から埋まるため、若手の希望曲が偏ったという記録が残る。ここから、芳盛式は“公平”を目指していたはずが、参加者の関心を統計的に変えてしまう、という事態につながったと説明される[7]。
また、芳盛の名が広く知られることになったきっかけとして、系の一時講習に資料が回った、という筋書きが語られている。実際にその講習が行われたかは資料の真偽が争われているものの、講習会案内に「歌唱を会計として扱う試み」との文言があったとする説があり、ここから“教育の場で祭礼運営を取り込む”という方向性が強まったとされる。
批判と論争[編集]
芳盛式唱導法には、合理化が過ぎるという批判がある。とくに「節回し稼働簿」が、歌の“揺らぎ”を画一化する装置になったのではないか、という指摘が繰り返し行われている。ある研究者は「ぶれを数えるほど、ぶれの意味が薄れる」と論じたとされる[8]。
一方で擁護側は、ぶれを記録すること自体が、口伝の曖昧さを保存する方法だったとする。祭礼は天候や人数で崩れるものであり、固定化ではなく復元可能性を高めるための指標だった、という主張である。
さらに、もっと細かい論争として「罰の詫び拍子は宗教性を帯びる」という懸念が挙げられている。規約に“拍子”が入ると、民俗音楽が儀礼の枠から出にくくなる可能性があるからだとされる。ただし、この批判は“拍子を数えること”と“信仰を扱うこと”を同一視しすぎではないか、という反論もある。実務家の間では、結局は「歌い手の負担をどう配分するか」が争点だったとされる[9]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『唱導実務綱領(増補改訂版)』春秋社, 1912年, pp. 41-63.
- ^ Margaret A. Thornton『Accounting Melodies: Folk Ritual Management in East Asia』Harborlight Press, 1930年, pp. 117-139, Vol. 2, No. 4.
- ^ 高橋礼太『節回し稼働簿と現場記録の倫理』和歌山民俗学会紀要, 1926年, 第3巻第2号, pp. 9-27.
- ^ 伊藤文之助『紀州・会則の音文化』近畿文献館叢書, 1919年, pp. 88-104.
- ^ Klaus Riemann『The Sound of Compliance: Tempo and Punishment in Village Ceremonies』Berlin Academic Review, 1934年, pp. 201-236, Vol. 7, No. 1.
- ^ 佐伯和三『詫び拍子の換算規則(草稿の読解)』座敷史研究, 1931年, 第5巻第6号, pp. 55-71.
- ^ 斎藤周平『ぶれの数理化はなぜ起きたか』日本音声計測協会誌, 1922年, pp. 14-33.
- ^ 田中松吉『民俗を制度にする—歌山芳盛周辺の資料整理—』共文堂, 1937年, pp. 3-20.
- ^ “The Folklore Ledger”編集委員会『Proceedings of the Non-Standard Notation Symposium』LedgerWorks, 1935年, pp. 9-12.(題名が一部不自然とされる)
- ^ 林田昌隆『講習会場の備品台帳と木札の形状』関西史料学研究, 1928年, 第2巻第9号, pp. 77-95.
外部リンク
- 歌山芳盛資料アーカイブ
- 稼働節シミュレータ(仮)
- 紀州祭礼運営規約コレクション
- 民俗音楽台帳研究会サイト
- 詫び拍子講習動画館