殺人が村こ
| 名称 | 殺人が村こ |
|---|---|
| 読み | さつじんがむらこ |
| 分類 | 農村共同体の刑罰儀礼 |
| 成立 | 1804年頃とする説が有力 |
| 主な地域 | 信濃国北部・飛騨国境の山村 |
| 主唱者 | 長谷部清右衛門、北川松庵 |
| 消滅 | 明治12年の郡制整備後 |
| 関連法 | 村寄合定書、御救規約 |
| 特徴 | 罪状の読み上げと共同生活の再編を同時に行う |
殺人が村こ(さつじんがむらこ)は、後期の農村記録に由来するとされる、の共同体で行われた刑罰・儀礼・自治を一体化した制度である。のちにとの境界領域で再評価され、奇妙な名義にもかかわらず地方自治の原型として語られることがある[1]。
概要[編集]
殺人が村こは、北部から境にかけて散在した山村に見られた、村内の重大事件を共同体の再編儀礼へ接続する制度である。名称だけを見ると物騒であるが、実際には「殺人」を禁忌として村外へ追いやるのではなく、むしろ村の秩序を更新する語として用いた点に特徴がある。
この制度は、飢饉期の盗伐・密猟・婚姻紛争を処理するために生まれたとされ、による『山中問答録』と、年間の周辺文書に断片が残る。もっとも、史料の大半は後世の写本であり、語の語源については「殺生を忌む村のこと」から転じたとする説と、「さつじんがむら」という地名に接尾辞の「こ」が付いたとする説が対立している[2]。
歴史[編集]
成立の背景[編集]
成立期は元年から初年にかけてとされる。豪雪と年貢の滞納が重なり、方面から流入した杣夫集団が村の掟を緩めたことが契機になったとされる。とくにの「三夜盗伐事件」では、村役が犯人を捕縛する代わりに、犯行の経路を村道の再測量に使ったという奇妙な記録がある[3]。
この時期、の長谷部清右衛門は、犯罪者を即座に処罰せず、寄合で役割を再配分する方式を提案した。彼は「一人を断てば村は痩せるが、一人を囲えば村は太る」と述べたとされるが、同時代の文書では彼の筆跡がやや怪しく、後世の脚色を疑う研究者も多い。
村こ制の確立[編集]
8年頃には、制度は「村こ七箇条」として整えられた。七箇条には、第一に罪人の座を土間中央に置くこと、第二に発言は三度まで、第三に夜明け前の再配分を必ず行うこと、などが含まれていた。これにより、処罰は一度で終わらず、三日間にわたり味噌・薪・水路の作業が強制的に入れ替えられた。
特筆すべきは、村内で起きた事件を「村外の出来事」に変換するための口上である。口上役は、事件のたびに「これは村の中心にあるが、村のものではない」と唱え、被害者家族と加害者家族を別々の納屋に配置した。なお、この口上は現代の社会心理学でいう「責任の局在化」に近いとされるが、出典はほぼ民俗学者の後付けである。
明治期の再解釈[編集]
に入ると、の戸長役場は村こ制を「旧弊な集団懲戒」とみなして廃止を進めた。しかし、に下高井郡で行われた聞き取りでは、村こ制が実は治安維持よりも相続調停に使われていたことが分かり、研究者の間で評価が揺れた。
の若手講師・三輪義信は、これを「農村における準司法的共同体の完成形」と論じた一方で、同僚の人類学者は「名称が不吉すぎて報告書に書きづらい」と記している。三輪は後に、村こ制の再現実験をの講義室で行い、机を三つ壊したことでも知られる。
制度の仕組み[編集]
七箇条と座の配置[編集]
村こ制の核心は、処罰と再統合を同じ空間で行う点にあった。座は「罪座」「見座」「草座」に分かれ、罪座に座る者は発言の前に必ず水を一口飲まねばならなかった。これは怒気の抑制とされたが、実際には冬季の乾燥対策だった可能性がある。
また、村役は事件の重大さに応じて鍋の蓋の枚数を変えた。軽微な争いでは一枚、窃盗では二枚、殺傷に至ると三枚重ねであり、蓋の重さは約1.8kgであったという。なぜ鍋が法秩序に関与したのかは不明であるが、後世の編集者は「蓋こそ共同体の重みの象徴」とまとめている。
口上と夜回り[編集]
夜回りの担当者は、松明を持って村境を三周し、事件の発生地点を境界の外に「押し出す」役割を担った。これはの穢れ観と、山仕事の地図読みが混交したものと考えられている。夜回りの最後には、関係者全員が方面の方角に向かって黙礼し、翌朝に再び寄合を開く。
この慣習は一見すると宗教儀礼であるが、実務的には、夜の間に山中へ逃亡する者を減らす監視制度でもあった。村ごとに松明の芯の太さが異なり、ある村では径が4分、別の村では6分であったという細かな記録が残る。
社会的影響[編集]
村こ制は、の山村における争いの激化を一時的に抑えたとされる。とくに期の飢饉では、食糧配分の調整機構として機能し、村内での私刑を減らしたという。ただし、被疑者の労働負担が過剰になり、実質的には「三日間の共同懲役」に近かったとの指摘もある。
一方で、制度の曖昧さは恣意的運用も生んだ。庄屋家の縁者が村こ座に入れられなかった一件や、罪状に応じた味噌の配給量が家格で変わった一件が伝えられており、後代の批判的研究では「公正に見える不平等」と評されることがある。
批判と論争[編集]
村こ制をめぐる最大の論争は、そもそもそれが実在したのかという点にある。のは、残存史料の紙質と墨色の不一致を根拠に「明治中期の民俗趣味による創作」と断じた。一方での郷土史家・小笠原文吾は、現地の古い土蔵から「村こ札」と呼ばれる木札38枚を発見し、制度の断片的実在を主張した。
また、名称の不吉さが行政文書から隠蔽を招いたとの説もある。実際、の県史編纂会議では、議事録の一部が「むらのこと」と書き換えられており、後年の研究者が読み違えた可能性がある。もっとも、このあたりから史料が急に都合よく揃うため、要出典とされることも多い。
後世への継承[編集]
後期になると、村こ制は実務制度としてではなく、共同体倫理の比喩として引用されるようになった。とりわけの地域振興シンポジウムで、ある民俗学者が「現代の自治会にも、村こ的な再配分が必要である」と発言し、会場が静まり返ったという。
その後、との境界部では、観光資源として「村こ行事」を復元する催しが始まったが、初回は参加者の半数が鍋蓋の枚数を間違え、再現度が著しく低かった。現在では、学術展示と地域イベントの中間のような扱いで保存されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷部清右衛門『山中問答録』飛騨郷土史刊行会, 1831.
- ^ 三輪義信「村こ制の準司法性」『帝国大学法学部紀要』Vol. 12, No. 3, pp. 41-78, 1891.
- ^ 河村静子「山村儀礼と文書偽作」『民俗学雑誌』第8巻第2号, pp. 15-39, 1934.
- ^ 小笠原文吾『信濃北部の村こ札』岐阜歴史資料館, 1962.
- ^ Harold P. Wainwright,
- ^ The Village Code of Satsujingamurako
- ^ Journal of Comparative Rural History
- ^ Vol. 4, No. 1, pp. 88-117, 1972.
- ^ 佐伯直人「農村共同体における罪座の形成」『日本社会史研究』第21巻第4号, pp. 201-233, 1988.
- ^ Martha L. Ellison, "Boundary Rituals and Collective Sanction in the Japanese Highlands", University of Cambridge Press, 1995.
- ^ 北川松庵『山村夜回り考』信州民俗叢書, 1809.
- ^ 田中久蔵「鍋蓋三枚の法」『山地文化評論』第3巻第1号, pp. 9-26, 2001.
- ^ 大澤京子『村こ制度の終末と再演』東京文献社, 2014.
外部リンク
- 信州民俗アーカイブ
- 山村制度研究センター
- 飛騨郷土資料デジタル館
- 村こ行事保存会
- 地方史料総覧ネット