毱飾 帰恋房
| 氏名 | 毱飾 帰恋房 |
|---|---|
| ふりがな | まりかざり きれんぼう |
| 生年月日 | 1867年4月18日 |
| 出生地 | 越後国高田町(現・新潟県上越市周辺) |
| 没年月日 | 1931年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工藝研究家、儀礼設計者、講演家 |
| 活動期間 | 1892年 - 1930年 |
| 主な業績 | 帰恋式の整理、毱飾標準図の作成、地方祭礼再編案の提示 |
| 受賞歴 | 帝都工藝懇話会奨励牌、北陸民俗会特別感謝状 |
毱飾 帰恋房(まりかざり きれんぼう、 - )は、の民俗工藝研究家、装飾儀礼家、並びに地方祭礼の再編成に関わった人物である。毱状の飾り紐を用いる「帰恋式」を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
毱飾 帰恋房は、末期から初期にかけて活動した日本の民俗工藝研究家である。とくに状の装飾具との儀礼を結びつけた「帰恋式」の提唱者として知られる[1]。
彼はを中心に、婚礼飾り、節供飾り、稲作祈願の結び紐などを比較し、独自の分類法を作ったとされる。また、の博覧会出品資料において、毱飾を単なる玩具ではなく「移動可能な祈祷媒体」と定義したことが、後年の評価を左右した[2]。
その名は一見雅な芸名のようであるが、実際には戸籍上の氏名であり、の縮緬商に嫁いだ姉の家で用いられていた家号が由来とする説が有力である。ただし、本人が生前に「帰恋房は肩書である」と語ったとされる記録もあり、研究者の間では人物像の輪郭に揺れがある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
毱飾は、高田町の桶職人の家に生まれたとされる。幼少期から、祝儀用の房紐や糸繰りの残材を集めて球形の飾りを編む癖があり、近隣では「毱の子」と呼ばれていたという。
頃には、寺子屋の補習として和算を学び、同時にから来た巡回見世物の飾り細工師に師事したと伝えられる。この師事先については、当時の講習記録が一部焼失しており、のちに本人が名を借りた可能性も指摘されている[要出典]。
青年期[編集]
、へ出て、の呉服問屋で帳簿係として働いたのち、余技として装飾結びの研究を始めた。ここで彼は、複数の産地で使われる結び目が、婚姻・商取引・年中行事の三系統に分かれることを見出したとされる。
にはの外郭講話会で「毱と房の境界に関する一考察」を発表し、聴衆の半数が難解さのあまり退席した一方、残りの数名が強く関心を示したという。これが彼の事実上のデビューであった。
活動期[編集]
、毱飾はで開催された工藝展覧会において、直径一尺二寸の「帰恋毱」を発表した。内部に紙片を封じ、季節ごとに言葉を替える仕組みで、受け取った者が婚礼・離別・再会のいずれを願うかに応じて飾り方を変えるよう設計されていた。
には『帰恋式標準図帖』を刊行し、の地方祭礼調査に参考資料として採用されたとされる。なお、同書は第3図と第7図の説明が入れ替わっており、研究者からは「誤植ではなく儀礼上の意図」と解釈されることもある。
以後は、、、などを巡回し、講演と実演を組み合わせた「毱飾巡礼講」を行った。講演記録によれば、1回の講演で結紐の種類を平均17種、房の色を9系統、添え札を最大43枚まで示したという。
晩年と死去[編集]
に入ると、毱飾は自身の理論を簡略化し、学校教材向けの小型化に力を入れた。とくに向けの「一夜で作れる帰恋毱」は、紙・糊・麻紐のみで構成され、全国で年間約4,800組が配布されたとされる[3]。
、での講演後に体調を崩し、同年11月2日に64歳で死去した。死因は肺炎とする記録が多いが、晩年まで毱の構造検証を続けたため「糸くずの吸入が原因」とする異説も残る。墓所は内の寺院にあると伝えられるが、実際には弟子が建立した記念石のみが残っているともいう。
人物[編集]
毱飾は、几帳面である一方、妙に縁起を担ぐ性格だったと伝えられる。講義の開始前には必ず赤い房を三度叩き、机の脚を北向きに揃えたうえで話し始めたという。
逸話として有名なのは、の会場で「最上の毱とは、投げられても戻ってくる毱である」と述べ、客席から「それは球ではないか」と笑われた際、平然と「帰ってくるなら球でも恋でもよい」と返した件である。この応酬がのちの「帰恋」の語義づけに採用されたとされる。
また、弟子に対しては厳しかったが、雨の日には講義を短縮し、濡れた房紐を自ら干してやるなど細やかな面もあった。なお、彼が好んだ茶菓子は黒糖饅頭で、講演旅行の際には必ず27個単位で注文した記録が残る。
業績・作品[編集]
毱飾の業績として最も知られるのは、帰恋式の体系化である。これは、毱状装飾を単なる意匠ではなく、贈与・記憶・再会の三機能を持つ儀礼具として整理したもので、地方ごとの差異を図式化した点に特徴がある。
主著とされる『帰恋式標準図帖』のほか、『房紐用度抄』『毱飾民俗問答』『再会の結び目』などがあり、いずれもの旧分類票に記載があるとされる。もっとも、実物が確認されるのは2冊にとどまり、残りは弟子の回想録から存在が推定されている[4]。
彼はまた、祭礼装飾の統一規格を提案し、毱の直径を「礼式用六寸、家庭用三寸八分、子供遊戯用二寸五分」と区分した。これはの地方物産振興案に影響したといわれるが、実務担当者の間では「細かすぎて運用不能」と評された。
後世の評価[編集]
毱飾の評価は、民俗学・工藝史・教育史の三領域で分かれている。民俗学では、地域の結び文化を記述した先駆者として評価される一方、工藝史では分類の恣意性が問題視されることがある。
にで行われた小規模展示を契機に再評価が進み、には女性史研究の文脈から「贈与を可視化する装置」として再読された。また、の『地方工藝再考』特集号では、帰恋毱が「日本近代の感情技術のひとつ」と位置づけられた[5]。
一方で、彼の理論には過剰な体系化が多く、実際の地域慣習を後追いで整えたにすぎないとの批判もある。とくに「毱は移動する神棚である」という有名な命題は、講演のたびに表現が変化しており、今日では本人の比喩感覚を示す言葉として扱われている。
系譜・家族[編集]
毱飾の父は桶職人の毱飾徳右衛門、母はおのぶとされる。兄弟は多く、少なくとも姉が2人、弟が1人いたというが、戸籍簿の欠損により確証はない。
妻はに結婚した毱飾ミツで、金沢の染物商の娘であった。二人の間には長男・清之助と次女・房江がいたとされ、清之助はのちに父の講義録を整理し、房江は毱飾保存会の初代事務員となった。
弟子筋としては、、、らが知られる。とくに小林翠舟は、父の死後に「帰恋式」の学校教材化を進め、全国52校に配布したことで、毱飾の名を戦前の児童文化に残した。
脚注[編集]
[1] 『帰恋式講義録』初版序文に基づく。 [2] 東京府工藝資料室旧蔵目録、毱飾条。 [3] 文部省教材配布統計(1930年度)とされる。 [4] 帝国図書館分類票「MI-47-3」ほか。 [5] 『地方工藝再考』第12巻第4号、pp. 81-104。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 毱飾清之助『帰恋式講義録』帝都工藝書院, 1934.
- ^ 佐伯紫紐『毱と房の民俗学』北辰社, 1959.
- ^ Margaret A. Thornton, "On Portable Rites in Meiji Craft Culture," Journal of Japanese Material Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 113-146, 1978.
- ^ 小林翠舟『教材としての結び目』文溪堂, 1966.
- ^ 平井宗玄「帰恋毱の図像学的検討」『地方工藝史研究』第14巻第3号, pp. 21-39, 1984.
- ^ A. K. Watanami, "Marigold-like Ornaments and Emotional Exchange," The Eastern Folklore Review, Vol. 21, No. 1, pp. 5-28, 1991.
- ^ 国民装飾協会編『祭礼意匠標準案集』青陽出版社, 1908.
- ^ 本多結子『再会を編む――近代日本の房紐文化』河岸書房, 2002.
- ^ 渡辺精一郎『毱飾帰恋房小伝』新潮郷土叢書, 1972.
- ^ 加納花市「房が多すぎる」『工藝と生活』第3巻第9号, pp. 201-219, 1931.
外部リンク
- 毱飾帰恋房記念資料室
- 帰恋式保存協会
- 越後工藝史データベース
- 帝都民俗文化アーカイブ
- 房紐研究オンライン