気悪い
| 分類 | 感情表現・対人状態語 |
|---|---|
| 初出 | 1919年頃(大阪府北区の寄席周辺とする説) |
| 成立地域 | 大阪府・兵庫県南部 |
| 主な使用者 | 商家、寄席関係者、学生、会社員 |
| 語義 | 場の緊張、相手との摩擦、説明しにくい不快感 |
| 研究機関 | 国立ことば温度研究所 |
| 標準化 | 1957年の『対人空気語彙指針』で準分類 |
| 派生語 | 気悪さ、気悪げ、気悪化 |
気悪い(きわるい)は、においてやが微妙に噛み合わない状態を指す語である。もとは末期のの口語から派生したとされ、のちにの情緒語として全国に流通したとされる[1]。
概要[編集]
気悪いは、単なる不機嫌や機嫌の悪さとは異なり、の摩擦が周囲のにまで波及した状態を表す語である。とくに、言葉を発するほどでもないが、同席者全員が「少しまずい」と感じる場面に用いられることが多い。
この語は、の小劇場との商家を往復する形で定着したとされ、のちにを経由して近畿一円に広がった。なお、の前身にあたる調査班が1938年に収集した用例のうち、約14.7%が茶請けの出し方に関するものであったとされる[2]。
歴史[編集]
語源と初期使用[編集]
通説では、頃にので上演されていた滑稽芝居の楽屋内で、道具方の藤岡庄之助が「今日はなんや気悪いな」と漏らしたことが始まりとされる。もっとも、同時期の新聞広告に同表現が断片的に現れるため、実際には周辺の呉服商が先に使っていた可能性も指摘されている。
初期の「気悪い」は、相手個人よりも場の湿度、座布団の並び、湯飲みの欠けなど、環境要因を含む広い概念であった。1924年の『上方小言集』には、客が三度続けて咳払いをしただけで「完全に気悪い状態に入る」とあるが、これは後世の研究者から「誇張ではないか」とする意見もある[3]。
昭和期の普及[編集]
初期には、の投書欄や周辺の喫茶店文化を通じて、若年層へ急速に浸透した。1932年には沿線の女学生の間で「気悪いので帰る」という短縮形が流行し、これが周辺の会話記録にも残っている。
戦後になると、統治下の都市再編に伴い、対面機会の多いやで再び重要語となった。とくに1951年の周辺では、開店前の挨拶がうまくいかないだけで「半日分の気悪いが立つ」と商人たちが評したという。これを受けての社会言語学講座では、気悪いを「儀礼的失敗の温度差を示す語」と位置づけた。
全国化と標準化[編集]
以降は、テレビ番組のロケやでの関西出身者増加により、首都圏にも拡散した。ただし、東京では意味がやや弱まり、「なんとなく居心地が悪い」程度に解釈されることが多かった。そのため、が1968年に行った調査では、関西出身者の82%が「気悪い」を即答で理解した一方、首都圏では37%にとどまったとされる[4]。
1974年にはの委託を受けた『近畿口語の心理温度調査』で、気悪いは「怒り」ではなく「関係修復前夜」の語として整理された。この報告書がきっかけで、企業のやでも取り上げられ、1980年代にはの車内放送マニュアルに「過度な謝罪は気悪いを増幅させる」との注記が入ったとされる。
用法[編集]
気悪いは、対象が人物であっても会話であっても、さらには室内の照明や雨上がりのであっても使用される。用法の幅が広いため、辞書編纂者のあいだでは「意味が広すぎて、逆に場を選ぶ語」として扱われた。
代表的な用法は、相手の発言に含まれる遠回しな否定、座席の取り違え、食器の音の大きさなど、微細な不協和音に対してである。なお、の調査によれば、気悪いが発話される前の平均沈黙時間は2.8秒で、これは「気まずい」の1.4秒より明確に長いと報告されている[5]。
一方で、極端に気悪い状況では、語そのものを発話することすらはばかられ、「あ、あかん」「なんやこれ」などの代替表現に置き換えられることが多い。これをの現場では「気悪回避」と呼ぶ者もいる。
社会的影響[編集]
気悪いは、やの場面において、直接的な対立を回避しつつ不快を共有する便利な語として機能した。これにより、では衝突の前に「気悪いから今日はやめとこ」と中断する慣習が発達し、結果として小競り合いの発生率が約11%低下したという推計がある[6]。
また、のテレビドラマでは、気悪いを言える人物が「空気を読めるが、読みすぎて疲れている人」として描かれ、都市部の若者語にも影響を与えた。特にのカフェで観測された会話では、標準語話者がこの語を使うと、周囲の関西出身者が一瞬だけ真顔になる現象が多発し、言語学者のあいだで「一拍の文化圧」と呼ばれた。
批判と論争[編集]
気悪いをめぐっては、感情を曖昧化しすぎるとして批判もある。1979年のシンポジウムでは、ある研究者が「これは不快感の記述ではなく、回避の美学である」と述べ、会場がやや気悪い空気になったと記録されている。
また、の過程で意味が薄まりすぎた結果、本来の「場の摩擦」を失ったまま消費されることも問題視された。これについての報告書は、首都圏メディアにおける使用例の23件中19件が「単なる気分の悪さ」に近いとし、原義保持率は低いと結論づけた[7]。
研究[編集]
気悪いの学術研究は、主に、、の三分野で進められてきた。なかでもは、1961年から1987年にかけて、会話中の湯気、茶碗の位置、視線の逸らし方を含む「気悪い発生条件」を423件記録したことで知られる。
同研究所の1984年版分類表では、気悪いは「A級: 明確な摩擦」「B級: 返事が遅い」「C級: 机の角に肘をぶつける」の三段階に整理されている。ただし、C級については研究者間でも異論が多く、実際には個人差が大きいとして、現在では補助概念にとどまっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 藤岡庄之助『上方小言集』浪速書房, 1924.
- ^ 中村澄子『対人空気語彙の成立』関西言語文化研究会, 1967.
- ^ 国立ことば温度研究所編『気悪いの民族誌』第一出版, 1978.
- ^ 田辺修一「気悪いの用法分布と沈黙時間」『社会言語学紀要』Vol. 12, No. 3, pp. 44-61, 1985.
- ^ Margaret K. Henslow, 'Atmospheric Discord in Urban Japanese', Journal of Imagined Sociolinguistics, Vol. 8, No. 2, pp. 101-129, 1991.
- ^ 山口良平『関西感情語の近代史』みすず図書館, 1998.
- ^ 小山内志郎「『気悪い』の標準語化とその逸脱」『方言研究』第24巻第1号, pp. 5-19, 2004.
- ^ A. Thornton, 'The Semiotics of Awkward Weather: A Kyoto Study', The Review of Invented Philology, Vol. 15, No. 4, pp. 212-238, 2007.
- ^ 兵庫教育大学言語文化学部編『首都圏における関西語感受性調査報告』教育調査社, 2012.
- ^ 近藤雅彦『気悪いの社会史とその周辺』新潮社, 2019.
外部リンク
- 国立ことば温度研究所デジタルアーカイブ
- 関西口語史資料館
- 上方感情語辞典オンライン
- 都市空気学会
- 気悪い文化保存委員会