江戸っ子の前戯、手マンでぃ
| 分野 | 民俗娯楽・身体技法・若衆文化 |
|---|---|
| 成立時期 | 期以降に口承化されたとされる |
| 主な舞台 | (特に周辺) |
| 伝承形態 | 稽古帖(写本)と師弟口伝 |
| 象徴動作 | 手のリズム・圧・角度の微調整 |
| 関連概念 | 、 |
| 扱われ方 | 公然ではなく「講談の前座」と同じく内輪で語られたとされる |
(えどっこのぜんぎ、てまんでぃ)は、の俗流教養として伝承されたとされる「手の動作」に関する呪句的な作法である[1]。特にの若衆組織では、非公開の稽古帖により規範化されたとされている[2]。
概要[編集]
は、身体的接触を伴う遊戯的所作を、音律に見立てて体系化した「呪句」だとされる[3]。
語の由来としては、「前戯」を“前座の準備”と捉え、「手マンでぃ」を“手の拍(マン)で稼ぐ(でぃ)”という語呂合わせから派生したとする説がある[4]。もっとも、成立過程は資料の性質上、要約され過ぎて伝わり、実態は複数の流派が混ざっていると推定されている。
研究者の間では、作法というよりも「交わりの合図」「相手の緊張をほどく段取り」を主眼に置く点が特色であったとされる[5]。なお、後年の風俗改良家は、これを“衛生教育の一種”として語り直そうとしたが、元の文脈からは逸脱していたと指摘されている[6]。
語源と用語[編集]
「江戸っ子」と呼称の役割[編集]
「江戸っ子」は単なる出身ではなく、江戸の路地文化における“軽口と段取りの両立”を意味する刻印として用いられたとされる[7]。稽古帖では、使用者の身分ではなく、手順を守る姿勢(遅れない、余計に触れない、合図を誤らない)を江戸っ子の条件とした記述が見られると報告されている[8]。
このため、同じ所作でも地方訛りの手順を混ぜると「江戸っ子ではない」と笑われるという、儀礼的な境界があったとされる[9]。もっとも、実際の写本は判読不能な箇所が多く、写した人の癖が反映されている可能性もあるという[10]。
「手マンでぃ」の音韻的解釈[編集]
「手マンでぃ」は、当時の寄席語に近いリズムを持つ擬音語で、手の動きを“拍”として数え上げるための呼び名だったとされる[11]。具体的には、親指・人差し指・中指の三点を“舞台の三つ道具”に見立て、手の角度を「十六段階」へ区切ると記す稽古帖が伝わっている[12]。
ただし、ここでいう段階が何を基準に数えたかは書き手によって異なるとされ、後世の校訂者が「肌感覚の差を吸収するための換算」と説明したという記録がある[13]。この校訂者の名はの読書家として挙げられるが、当時の戸籍記録と一致しないとする異説もある[14]。
歴史[編集]
成立:若衆講と「前座作法」の合流[編集]
期、の商家が主催した若衆講では、江戸の時間感覚(遅刻厳禁、段取り優先)を身体で覚えさせる教育が行われたとされる[15]。そこで“前座”という概念が強調され、前段階の所作を定型化する必要があったため、口承の合図体系が整理されていったと推定されている。
その整理の際に、別系統の「手慰め(てなぐさみ)」の言い回しが混ざり、「江戸っ子の前戯」としてまとめられ、さらに音律の付与によって「手マンでぃ」が冠された、という物語的経緯が語られている[16]。なお、この合流を主導した人物として、文書に署名したとされるなる人物が挙げられるが、署名自体の筆跡一致は確認されていないという[17]。
普及:稽古帖の“検閲”と写本産業[編集]
年間には、稽古帖の写本がの用紙問屋を経由して広がったとされ、検閲の抜け道として「動作を説明せず、拍の数だけ示す」形式が流行したという[18]。実際、ある写本では「全行程は三十七歩、返しは四拍、終わりは二十三回の息合わせ」とのみ記されていたと報告されている[19]。
もっとも、これが“どの動作を指すか”は写し手ごとに補われ、結果として流派差が肥大化したとされる[20]。そのため、後年には流派間の口論が起き、の広小路で「拍の誤差は品格の誤差」と叫ぶ講釈師までいたと伝わる[21]。この逸話は後世に脚色された可能性が高いとされるが、当時の寄席帳の売れ筋と一致する点があり、完全否定は難しいとする学説もある[22]。
近代化:衛生啓蒙家と“言い換え”の波[編集]
明治以降、都市衛生の啓蒙が強まると、手マンでぃは“身体接触の前に行う整え”として言い換えられたとされる[23]。の衛生嘱託が講演で「礼法は感染の入口を塞ぐ」と説明し、その結果として“誤解を招く言い換え”が増えたという[24]。
ただし、衛生啓蒙家の記述には「講演のために語を薄めた」という注記があったともされ、元の口承を復元した復刻版では、重要語が意図的に欠落していると指摘されている[25]。このため、現在残る文献は“普及のために改造された版”が多く、原形の推定には確率論的な推定法(写本間比較と地名の頻度分析)が用いられるようになったとされる[26]。
社会的影響[編集]
の若衆文化では、手マンでぃの所作が「場の空気を整える技術」とみなされ、相互の距離感を測る尺度として機能したとされる[27]。具体的には、作法の習熟度が“酒席での段取り”に直結すると考えられ、飲み仲間の選抜に使われたという伝承もある[28]。
また、稽古帖の普及に伴って、問屋・写本屋・講釈師の連携が進み、「内輪の流通」が成立したとされる[29]。その結果、の商人街では、用紙・墨・指導者の紹介がセットになった“稽古パッケージ”が半ば公然と売られた時期があったとされる[30]。
さらに、後年の文学者が江戸の“軽薄さ”を描く際に、手マンでぃが比喩として援用されることが増えたという指摘がある[31]。ただし、文学側の比喩は実際の口承手順を踏襲せず、音韻の雰囲気だけを借りた可能性が高いとされる[32]。要するに、手マンでぃは実技である前に“江戸らしさの編集素材”になっていったと推測されている。
批判と論争[編集]
批判側は、手マンでぃが口承の曖昧さゆえに“誤解の自由度”が高く、やる側・教える側の倫理が問題化しやすかったと主張したとされる[33]。特に、近代の検閲官が「拍の数を覚える教育は危険」と書き残したとする説があり、そこから“教育と逸脱の境界”が論点化したとされる[34]。
一方で擁護側は、相手の合図を優先し、手順は常に中断可能な設計であったと反論したという[35]。ただし、どの資料が擁護側の主張の根拠になっているかについては、写本の所在が追跡困難とされ、要出典の指摘が頻出する[36]。
また、笑いの要素として語られることが多いにもかかわらず、実務者の間では「拍の誤差」や「圧の癖」など、身体差の調整が大問題として扱われていたとされる[37]。この論争は、江戸の“段取り至上主義”が、身体の個体差をどこまで許容するかという、より大きな社会観の対立に接続していたとみる見方もある[38]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松本惣左『江戸若衆講の記憶:写本と拍の体系』青蛙書房, 1902.
- ^ Margaret A. Thornton『Rhythm and Regulation in Urban Edo Folklore』University of Nagasaki Press, Vol.12 No.3, 1937, pp. 44-71.
- ^ 田中彦三郎『寄席語彙の音韻構造:手マンでぃ考証』明文館, 1918.
- ^ 榊原直人『衛生啓蒙と身体作法の言い換え』東京衛生協会紀要, 第5巻第2号, 1926, pp. 10-33.
- ^ E. K. Whitman『Foreplay as Social Technology: A Comparative Folklore Study』Journal of Urban Rituals, Vol.8 Issue 1, 1951, pp. 201-223.
- ^ 小野寺佐七『検閲の抜け道と稽古帖の記号化』江戸史料研究会, 第3巻, 1940, pp. 77-98.
- ^ 森田左兵衛『町触れにみる“段取り”の倫理(復刻)』東日本古文書館, 1979.
- ^ 篠崎琴乃『地名頻度分析による口承復元の試み:江戸稽古帖の確率モデル』統計民俗学会論文集, Vol.21 No.4, 2003, pp. 1-29.
- ^ 江戸文化研究会『江戸っ子の俗流教養:誤解される呪句たち』汐文社, 2011.
- ^ 坂井誠『日本の前座作法史』中央出版社, 1964.
外部リンク
- 江戸稽古帖アーカイブ
- 若衆講写本ギャラリー
- 拍数翻字データベース
- 東京衛生啓蒙人物事典
- 寄席語彙音韻研究所