波和原 葛雄
| 人名 | 波和原 葛雄 |
|---|---|
| 各国語表記 | Kuzuo Pawahara |
| 画像 | Pawahara_Kuzuo.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 晩年の肖像(架空) |
| 国略称 | 日本 |
| 職名 | 内閣総理大臣(第35代)、大蔵大臣、外務大臣 |
| 内閣 | 波和原内閣 |
| 就任日 | 1956年(昭和31年)5月14日 |
| 退任日 | 1957年(昭和32年)12月10日 |
| 生年月日 | 1889年(明治22年)4月17日 |
| 没年月日 | 1972年(昭和47年)10月2日 |
| 出生地 | 刈羽郡波止場村 |
| 死没地 | 港区麻布 |
| 出身校 | 旧制・法科 |
| 前職 | 逓信省技師、財政顧問 |
| 所属政党 | 統和自由党 |
| 称号・勲章 | 従一位/大勲位菊花章頸飾(ほか) |
| 配偶者 | 波和原(旧姓:白洲)うね |
| 子女 | 葛音、葛凛、葛澄(いずれも政治家縁) |
| 親族(政治家) | 白洲家(外務系)/波和原家(蔵相系) |
| サイン | 葛雄—統和(筆記体) |
波和原 葛雄(ぱわはら くずお、旧字:波和原 葛雄、[[1889年]]〈[[明治]]22年〉[[4月17日]] - [[1972年]]〈[[昭和]]47年〉[[10月2日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。[[内閣総理大臣]]として第35代を務めた。
概説[編集]
波和原 葛雄(ぱわはら くずお)は、[[1956年]]([[昭和]]31年)に[[内閣総理大臣]]に就任し、短期政権ながら「水路財政」と呼ばれる国家運用モデルをめぐって注目を集めた政治家である。[[位階]]は[[従一位]]を受け、[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]に至った。
経済政策の実務家として知られたが、同時に「外交は換金ではなく延命である」と述べたと伝えられる。その一方で、当時の官僚機構との距離感がしばしば批判対象となり、政界内では“計算の人”と“歌の人”に分かれて語られた。なお、波和原の政治的出発点は、[[新潟県]]沿岸の干拓工事に関わった家の記録から始まったとされる[1]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
波和原は[[1889年]]([[明治]]22年)[[4月17日]]、[[新潟県]]刈羽郡波止場村に生まれた。父・波和原為蔵は村の寄進係として知られ、家には「米俵の数より水路の勘定を数えよ」と記された帳簿が残されていたと伝えられる。
少年時代の葛雄は、冬の夜に港の灯台管理人から航路用の天文暦を学び、[[東京帝国大学]]の天文学科が発行した“潮汐表の指数”を自費で写し取ったとされる。しかし家の事情により天文を志しつつも、最終的には法科へ転じたという。
学生時代[編集]
旧制の時期に[[東京帝国大学]]法科へ入学し、同年の学生運動が沈静化するまでのあいだ、法学部の図書係を務めたとされる。当時の講義ノートは現存しないが、本人が“条文は水門、判例は堤防”と書き残したとされる逸話が残っている。
学生時代には、[[司法省]]系の研究会に出席して行政法を扱い、のちに[[内閣]]の運用に応用されたとされる「省庁間の遅延係数(仮称)」の概念をノートにまとめたとされる。なお、この係数は実際には未発表であったとも指摘されている。
政界入り[編集]
波和原は[[逓信省]]技師を経て、[[財政]]顧問に転じ、[[1923年]]([[大正]]12年)に[[衆議院]]へ出馬するための資金調達委員として一度政界の外縁を歩んだ。その際、統和自由党の前身系譜に属する人物から「あなたは法より運河を読む」と評されたという。
その後、[[衆議院議員総選挙に立候補]]し、初当選を果たした。同年の選挙では、選挙区ごとの演説時間を“分”ではなく“係数”で提示し、聴衆の反応を記録したとされる。
〇〇大臣時代[編集]
以後、[[大蔵大臣]]として「国庫の余剰を“見えない港湾”に回せ」と主張し、道路予算ではなく水門・河川保全の予算比率を引き上げた。次に[[外務大臣]]を務めた際は、通商交渉の席上で「相手国の数字を先に数えるな。まず呼吸を数えろ」と述べたとされる。
この発言が、のちに“呼吸外交”と呼ばれる外交姿勢の原型になったとする説がある。もっとも、当時の記録には該当発言が見当たらないとする指摘もあり、発言の真偽は定かではない。
内閣総理大臣[編集]
波和原は[[内閣総理大臣に就任]]し、[[内閣]]運営では閣僚会議の議題を事前に“3段階”へ分けたという。第1段階を「水門(決める)」、第2段階を「堤防(守る)」、第3段階を「灯台(知らせる)」として、各担当に異なる形式の報告書を求めた。
その結果、短期政権ながら公共投資の配分が劇的に変化し、特に[[新潟県]]の沿岸部では“係数予算”が採用されたと報じられた。当時の新聞は、港湾の整備件数を「年3,148件(達成率91.7%)」のように細かく報じたとされる[2]。ただし実際の統計は別の定義で整理された可能性があるとされている。
また、[[1957年]]([[昭和]]32年)に[[内閣総理大臣]]の座を退任した。退任理由については、政策の一部が与党内で再編を求められたためだと説明された一方で、健康上の理由が噂として残った。
退任後[編集]
退任後は党の参謀役として、若手議員に対し「反対者の顔を覚えるより、反対の理由を覚えよ」と指導したとされる。晩年には、政治家の講義のために地方巡回を行い、年に[[18回]]講演したとする資料がある。
一方で、講演原稿は筆跡が整理されていないことが知られ、編集された形で残った可能性があると指摘される。最終的に[[1972年]]([[昭和]]47年)[[10月2日]]、[[東京都]]港区麻布で没した。
政治姿勢・政策・主張[編集]
波和原は内政では、税制を“徴収”ではなく“水位調整”として扱うべきだと唱えた。具体的には、租税の増減を季節ごとの生産サイクルに合わせる「四季調整原則」を掲げ、施行初年度の財政効果を“±0.6%以内”に抑えることを目標としたとされる。
外交では、相手国の譲歩を引き出す前に、こちらの発言を“再送”できる形で整えよと主張した。これが、交渉の場での発表文書をあらかじめ3種類用意したという“再送文書方式”につながったとされる。
ただし、政策の立案過程は透明性が低いとして[[野党]]から批判されることもあった。特に“係数予算”の算定に、担当局が勝手に補正を行っていたのではないかとの疑義が持ち上がり、当時の国会では「数字は天候を信じるのか」と揶揄されたとされる[3]。
人物[編集]
性格は端正で沈黙が多いと記され、同僚の議員からは「質問がくるまで答えない人」と評された。もっとも、酒席では急に短歌を詠む癖があり、[[新潟県]]の港の灯りを題材にした句が頻繁に引用されたと伝えられる。
語録としては「政策は紙の上ではなく、遅延の中で生きる」がよく知られる。また「国庫は倉庫ではない。倉庫にすると腐る」と述べたとする回想もある。
このほか「敵を説得するより、敵の“次の朝”を想像せよ」との言い回しが、晩年の党内教育の場で使われたとされる。なお、語録の出典は複数が混ざって記録されているため、同一発言かどうかは不明とされている。
評価[編集]
肯定的には、波和原の業績は“数字の体系化”にあったと評価される。特に、予算配分や行政調整の場で、従来の属人的判断から脱しようとした点は実務的だとされる。
一方で否定的には、政策が細部に依存しすぎたために現場の裁量を奪ったという批判がある。国会の委員会では、係数算定の根拠が説明不足であるとして、与党側が資料提出を延期した場面があったとされる。
また、外交姿勢が“文書の設計”に寄り過ぎたという指摘もあり、実際に交渉の現場で言葉が二転三転したと報じられたという。この点については関係者の証言が食い違っており、当時の報道だけでは結論が出ないとされている。
家族・親族(系譜)[編集]
波和原の配偶者は波和原(旧姓:白洲)うねである。白洲家は外務の実務に縁が深く、波和原が[[外務大臣]]を務めた時期には、親族を通じた情報交換があったと噂された。
子女は葛音、葛凛、葛澄の3人とされ、長女・葛音は地方財政の研究職に近い道へ進んだとされる。次女・葛凛は議会運営を得意とし、政界入りの噂がある段階で“演説時間係数”の講義資料を作ったという。
親族には、蔵相系の系譜として“波和原家は祖先から河童(かっぱ)より運河を優先した”と語る古い記録が残っている。ただし、宗教的な比喩であった可能性もあり、史料の解釈には揺れがある。
選挙歴[編集]
波和原は[[衆議院議員総選挙]]に[[1923年]]([[大正]]12年)に立候補し、初当選を果たした。その後、[[1930年]]([[昭和]]5年)には落選したが、翌[[1931年]]([[昭和]]6年)の再選挙で選出され、以後は安定して当選を重ねたとされる。
[[1942年]]([[昭和]]17年)の選挙では供託をめぐる混乱があったとも報じられ、当時の選挙管理手続の文書が紛失した疑いが持たれた。もっとも、その文書の所在は後年に「倉庫の棚番号が誤記されていた」と説明された。
戦後では[[1947年]]([[昭和]]22年)に返り咲き、[[1953年]]([[昭和]]28年)まで衆議院議員として活動した。
栄典[編集]
波和原は在職中に複数の叙勲を受け、最終的に[[大勲位菊花章頸飾]]に至ったとされる。受章の理由としては、経済運用の制度整備と外交文書体系の確立に貢献したことが挙げられる。
受位・受章は以下のように伝えられている。まず[[従一位]]を受け、その後、党内調整や災害対応に関する功労が認められたという説明がなされた。
ただし叙勲の具体的な年次については資料間で差があり、ある回想録では“翌年の追叙”があったとし、別の資料では“同年一括”とされる。
著作/著書[編集]
波和原の著作としては、制度設計を扱う論考『水位調整国家論』が知られる。これは大蔵系の官僚が下敷きにしたとされ、引用箇所には“水門の論理は誤差を飲み込む”といった比喩が散見される。
また、外交姿勢についての『再送文書方式と呼吸外交』があり、交渉文書の整え方を手順化したとされる。さらに議会運営の『沈黙の質疑応答集(全274問)』が出版されたとされるが、初版部数が「1万部(うち献本が1,732部)」のように細かく記されている。
ただし当該書の所蔵状況は不均一で、初版の現物が確認できないという指摘がある。
関連作品[編集]
波和原をモデルにした風刺劇として『係数の夜明け』が上演されたとされる。劇中では、波和原の代名詞とされた“水門・堤防・灯台”が舞台装置として用いられ、観客が毎幕投票で次のセリフを選ぶ形式だったという。
また、戦後期の政界サスペンス『港湾に眠る議事録』では、波和原の“再送文書方式”が犯罪の鍵として描かれたとされる。一方で、作品の脚本家が政治史の専門家ではなかったため、史実との整合性が低いとして批判もあった。
これらの創作は、波和原の“数字と沈黙”という印象を誇張したものと考えられている。
脚注[編集]
参考文献[編集]
波和原の伝記資料は、個人の回想録を中心に編集されたものが多い。特に、波和原の秘書官を務めたとされる人物の手記『波和原葛雄覚書』は、政策部分が詳細である一方、年次の取り違えがあるとも指摘されている。
また、国会会議録の抜粋を再編集した『昭和政経史料(第12集)』が参照されることが多い。なお、引用に際して同一議事の再録が複数版に混ざる可能性があるとされ、編者による校訂方針が注目されている。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
波和原葛雄記念館
統和自由党アーカイブ
国会係数資料室
港湾と灯台の史料庫
昭和政策年表プロジェクト
脚注
- ^ 榊川理一『波和原葛雄覚書:水門・堤防・灯台』青藍書房, 1969年.
- ^ ドロシー・ミナモト『Budget as Tides: A Comparative Study of Pawahara’s Coefficient System』Tokyo University Press, 1971.
- ^ 中島皓太『統和自由党の連立運用と再送文書方式』行政研究社, 1959年.
- ^ リュート・グレイソン『Documents and Breathing: The Myth of “Resent Dispatches” in Postwar Diplomacy』Vol. 3, Oxford Meridian Press, 1963.
- ^ 安藤緑舟『四季調整原則と係数予算の設計思想』財政政策研究所, 1961年.
- ^ 小野寺潮介『国会の沈黙:質疑応答集(274問)の解題』議事録出版, 1966年.
- ^ 高橋白澄『従一位受位者名簿(架空補遺を含む)』勲章研究会, 1970年.
- ^ ウェルナー・ハルツ『New Port Economics in the Showa Era: 3148 Projects Revisited』Vol. 12, Berlin Harbor Archive, 1960.
- ^ 田中砂子『港湾整備の達成率91.7%問題』海事統計年鑑刊行局, 1958年.
- ^ 山城光一『再送文書方式と呼吸外交(改訂版:初出が昭和34年説)』文樹堂, 1968年.
外部リンク
- 波和原葛雄記念館
- 統和自由党アーカイブ
- 国会係数資料室
- 港湾と灯台の史料庫
- 昭和政策年表プロジェクト