淫因村
| 所在地 | 長野県北部・千曲川支流域とされる |
|---|---|
| 成立 | 江戸末期の山林開拓期と伝承される |
| 廃村 | 1968年頃 |
| 別名 | 因淫村、イニン集落 |
| 人口 | 最大時147人(推定) |
| 主要産業 | 炭焼き、桑栽培、口承儀礼の記録業 |
| 著名な研究者 | 北川真次郎、Margaret L. Haskins |
| 保存指定 | 村史資料48点が県立文書館に収蔵 |
淫因村(いんいんむら)は、北部の山間にあったとされる、因習研究の対象として知られる旧集落である。のちにとの境界に位置する事例として引用され、中期には学術用語としても流通した[1]。
概要[編集]
淫因村は、の山間部に存在したとされる架空の旧集落であり、表向きは通常の山村であったが、住民の婚姻・相続・屋号継承の体系が極端に複雑であったことから、後世の研究者によって特異な「因縁社会」の典型例として語られるようになった。
村名の由来については、谷筋に多いの古訛「いん」が転じたとする説と、明治初期に村の戸籍整理を担当した出張官吏が誤って記した「淫」の字が定着したとする説があり、現在は後者が民俗学界で優勢である。ただし、村内の古老が「最初からその字で呼んでいた」と証言したという記録も残る[2]。
成立と地理[編集]
地形と集落構造[編集]
集落は標高約760メートルの棚田状斜面にあり、中心部から三つの小道が放射状に伸びていた。家屋は最大で41棟とされ、そのうち同一屋号の分家が17戸を占め、外部者からは「一つの村が三つに重なって見える」と記述された。
村名の定着[編集]
の郡区町村編制以後、字名整理の過程で「淫因」の表記が公文書に現れた。地租改正の際、測量士のが「印刷誤記ではないか」と照会したが、郡役所が「既に住民が印を押している」として修正を退けたため、そのまま固定されたとされる。
周辺地域との関係[編集]
村はとを結ぶ旧駄賃路の脇にあり、荷駄の休憩地として一定の往来があった。もっとも、冬季は峠が閉ざされるため、村は半ば独立した社会圏を形成し、婚姻圏も半径12キロメートル以内にほぼ限定されていた。
歴史[編集]
前史[編集]
伝承上、開村は年間に越中から移った炭焼き一家によるものとされる。彼らは谷底の湿地を避け、尾根筋に仮小屋を作って焼畑を始めたが、翌年から同じ姓の者が急増したため、家ごとに「上」「中」「下」「曲り」といった接頭語で区別する慣行が生まれたという。
記録化の時代[編集]
30年代、県立師範学校の卒業生だったが、教育実習の名目で村に滞在し、のちに『淫因村旧俗記』をまとめた。そこでは、年に一度の「因継ぎの夜」に、村役が回覧板ではなく竹札を順送りにし、配偶者候補の家同士が半紙一枚分の距離を保って座る習俗が記された。
研究ブーム[編集]
、米国の文化人類学者がの招きで来日し、淫因村を「小規模共同体における相互監視の極限例」として紹介した。彼女の報告書は英語圏で予想外に注目され、では、村の婚姻台帳をもとにした「親族関係の三次元模式図」が展示され、来場者が見入ったという。
衰退と廃村[編集]
に入るとへのアクセス改善との波により、若年層が一斉に都市へ流出した。最後まで残ったのは5世帯で、秋、村営の共同井戸が落石で埋没したことを契機に集団移転が決まり、行政上は翌年まで地図に残ったが、実質的な廃村はその時点とされる。
制度と習俗[編集]
淫因村で最も有名なのは、通称「三重相承」と呼ばれる相続慣行である。これは土地だけでなく、炭窯の火種、婚礼道具、家訓札の三点を同時に継承する制度で、欠けた場合は隣家から「因補い」を受けることになっていた。
また、毎年旧暦11月の満月夜に行われる「裏名読み」の儀礼では、戸主が家族の実名を一度だけ逆順で読み上げる。読まれた者は翌朝まで誰とも目を合わせてはならず、違反すると一年間、屋号の末尾に「仮」が付くと信じられていた。これは初期の学校教員が「児童の注意集中に有効」として村外の研修会で紹介したが、逆に都市部では不評であった[3]。
村の行事は全体として過剰に整っており、祭礼、婚礼、葬礼のいずれにも必ず「三度繰り返し」が含まれた。研究者はこれを偶然の習俗ではなく、山間の限られた資源をめぐる緊張を緩和するための社会装置とみなしているが、一方で村人自身は「昔からそうだった」の一言で片づける傾向が強かった。
社会的影響[編集]
民俗学への影響[編集]
淫因村の調査記録は、系譜の後継研究において「山村の規範が過密化した例」として引用された。とくに後半には、大学の演習で村の戸籍図が教材に使われ、学生が親族関係の枝分かれを誤って「樹形図の暴走」と呼んだ逸話が残っている。
行政への影響[編集]
県はに「山間小集落生活実態調査」を実施し、村の事例をもとに、集落名の表記揺れが戸籍・税務・消防に与える影響を検討した。これが後の簡易地名確認票の原型になったとされるが、実際には淫因村の書類だけ妙に多く、担当者がスタンプを買い足したという話もある。
観光化の試み[編集]
廃村後、旧道入口には「淫因の里」と刻まれた石標が建てられ、から年1回の「民俗学散歩」が企画された。もっとも、参加者の半数近くが「名称の印象が強すぎる」と言い、パンフレットの配布部数は初年度312部、翌年は221部に減少した。
批判と論争[編集]
淫因村研究には、早くから「村の特殊性が強調されすぎている」との批判があった。とくにのでは、北川真次郎の記録に後年の聞き書きが混入している可能性が指摘され、会場が一時ざわついたとされる。
また、村名の「淫」の字については、行政文書が面白半分に残した誤記ではないかという意見と、逆に住民側が外部者を煙に巻くためにあえて放置したのだという意見が対立した。なお、に残る原簿の一部には、墨のにじみで読めない箇所があり、研究者のあいだでは「そこに本当の村名があるのではないか」と半ば本気で議論されている。
遺構と資料[編集]
現在、旧村域には石垣と井戸枠の一部、ならびに炭窯跡が5基確認されている。地元保存会が1980年代に行った測量では、屋敷地の境界線が妙に直角を避けており、これは狭い斜面で家ごとの視線をずらすための工夫と解釈されている。
資料としては、に婚姻台帳の写し19冊、に北川の自筆ノート2冊、に「三重相承」復元模型が所蔵される。模型は実物よりもやや派手で、実際の村人から「こんなに立派ではない」と苦情が出たという。