湘南・平塚連続ジャンケン大会殺人事件
| 名称 | 湘南・平塚連続ジャンケン大会殺人事件 |
|---|---|
| 正式名称 | 相模湾沿岸広域対策資料第14号事案 |
| 日付 | 1987年9月18日 - 1988年2月6日 |
| 時間 | 主に夕刻から夜間 |
| 場所 | 神奈川県平塚市、茅ヶ崎市周辺 |
| 緯度/経度 | 35.3345N 139.3507E |
| 概要 | 市内各所で開催された模擬大会を装って被害者が誘導され、複数名が相次いで殺害された事件 |
| 標的 | 地域の青少年団体、商店街運営委員、観光PR関係者 |
| 手段/武器 | 絞殺、焼失、偽装転落、ならびに不審な抽選札による誘導 |
| 犯人 | 単独犯とする説と、運営補助者を含む共犯説がある |
| 容疑 | 殺人、死体遺棄、脅迫、偽計業務妨害 |
| 動機 | 大会運営をめぐる怨恨、景品横流し疑惑、地域ブランドへの復讐とされる |
| 死亡/損害 | 死者5名、重軽傷者11名、関連施設損壊7件 |
湘南・平塚連続ジャンケン大会殺人事件(しょうなん・ひらつかれんぞくじゃんけんたいかいさつじんじけん)は、(62年)にので発生したである[1]。警察庁による正式名称は「第14号事案」であり、通称では「ジャンケン大会事件」とも呼ばれる。
概要[編集]
湘南・平塚連続ジャンケン大会殺人事件は、夏から翌初頭にかけて西部で断続的に発生した事件である。表向きは商店街と青年会議所が主催する地域交流イベントであったが、実際には大会会場を利用した誘導型の連続犯罪として捜査当局に把握された[1]。
事件名に「ジャンケン大会」とあるのは、被害者の多くが地区対抗の予選会や、の海浜公園で行われた余興に参加した直後に被害に遭ったためである。なお、当初は単発の事故として処理されかけたが、被害者の所持品に共通して残された赤色の抽選札、ならびに会場ごとに異常に高い勝率を示す審判記録が発見され、が異例の広域捜査に踏み切ったとされる。
一部資料では、事件の背景に「湘南ブランド再編」をめぐる地元有力者の対立があったとされる一方、別の証言では、犯人は「勝敗がすべてを決める」と信じる独自の儀式体系を持っていたという。もっとも、この後者の説明は供述調書の一部にしか見られず、現在でも要出典の多い箇所として知られている。
背景と経緯[編集]
事件の舞台となったでは、半ばから地域振興策の一環として「市民参加型の勝負イベント」が急増していた。なかでも周辺の商店街連合は、子どもから高齢者まで参加可能な「連続ジャンケン大会」を月例で開催しており、勝者には地元商店の割引券や観光協会の記念品が授与された[2]。
しかし、後年の調査で、大会運営の一部が実質的に抽選と審査を兼ねた「三回勝ち抜け方式」に改変されていたことが判明した。これにより、優勝経験者の顔触れが特定の数名に偏り、景品の流通経路も不自然に固定化していたとされる。警察関係者の回想録では、犯行の下地はこの「勝ち抜けの私物化」によって作られたと指摘されている。
また、事件前年の61年末には、会場設営を請け負っていた有限会社が、資材の納入をめぐりの下請け業者と訴訟寸前の対立を起こしていた。ここで失われたはずの景品箱が、事件当日に空のまま現場付近から回収されたことから、当初は業務上横領事件として扱うべきだとの声も強かった。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
最初の通報は9月18日午後8時14分、北口の商店街事務所に対して行われた。通報者は「大会の勝者が帰ってこない」と述べたとされ、現場に到着した警察官は、路地裏で倒れていた被害者の着衣から大会の参加証と不自然に折りたたまれたじゃんけん表を発見した。
捜査一課は当初、青少年グループのトラブルと見ていたが、2日後に別会場で同様の遺留品が見つかり、連続性が疑われた。ここで使用された「連続ジャンケン」という言葉は、捜査本部の内部メモに記された仮称が新聞報道に流用されたものとされている。
遺留品[編集]
遺留品として特に注目されたのは、赤・青・黄の3色で印字された抽選札、海水で軽く膨らんだ紙製の順位札、そして「最後まで手をひらかないこと」と書かれたガムテープ片である。これらは周辺の倉庫からも断片的に発見され、捜査員の間では同一人物による管理下にあった可能性が高いとされた[3]。
また、被害者の一人が所持していたデジタル腕時計には、発生時刻より約11分早い表示が残っており、後に「犯人が時刻を早送りするために電池を抜き差しした痕跡」とする鑑定が提出された。ただし、この鑑定には異論が多く、実際には単なる液晶故障ではないかとの指摘もある。
被害者[編集]
公式記録では、死者は5名、重軽傷者は11名とされる。被害者の多くはの協力事業に関わった事務局員、夏季イベントの司会者、ならびに若者団体「湘南フラッグス」の補助スタッフであった。
なかでも被害者Aとされる(当時42)は、地域大会の記録係であり、全勝者の名前を手帳に転記していた人物である。彼が最後に残したメモには「勝ち方に偏りがある」とだけ記されていたとされ、後にこの一文が事件解明の手がかりとして何度も引用された。
被害者Bの(当時29)は観光協会の広報担当で、地元テレビの中継準備中に行方不明となった。彼女のバッグからは、通常の参加券とは異なる金属製の裏打ちが施された券片が見つかり、これが「特別招待枠」の存在を示す証拠とされた。なお、被害者の選定に共通する法則は最後まで明確にならず、偶然説と計画説が併記されている。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
初公判は3月14日、で開かれた。被告は大会運営補助員だったとされ、、、、の容疑でされた[4]。
検察側は、被告が「勝者は一人でよい」という独白を重ね、抽選札の配布を通じて被害者を個別に誘導していたと主張した。一方で弁護側は、被告には直接の能力がなく、現場周辺の人間関係を利用した第三者のが混乱を招いたにすぎないと反論した。
第一審[編集]
第一審では、会場警備を担当していた警備会社の巡回日誌が証拠として採用された。日誌には、事件前夜に「ジャンケン用紙の補充が異常に多い」との記載があり、これが被告の計画性を裏付ける資料とみなされた[5]。
ただし、担当裁判官は終始慎重で、被告が直接手を下したと断定できる部分と、運営上の不備が連鎖した部分を分けて判断した。その結果、25年の判決が言い渡されたが、検察側は「事件の社会的影響に比べて軽い」として控訴したとされる。
最終弁論[編集]
控訴審の最終弁論では、被告人質問中に「次の一手は常に見えていた」との発言が飛び出し、傍聴席が騒然とした。もっとも、この発言は記録係によって後日「比喩的表現」であった可能性が示されており、実際の意味は定かでない。
最終的に12月9日、は一部無罪を維持しつつ、主文を懲役23年へ変更した。死刑求刑は見送られたが、地域の被害感情が強かったため、判決後も完成までの扱いをめぐって議論が続いた。
影響と事件後[編集]
事件後、では公的イベントの抽選方式が全面的に見直され、三回勝ち抜け方式は原則として廃止された。また、商店街の景品管理は番号札からICカード式に改められ、地域の祭りでも「手の形を伴う競技」に対する監視が強化されたとされる。
社会的には、「軽い遊戯のはずのものが、組織運営の歪み次第で重大犯罪の舞台となりうる」という警句として語られるようになった。特にの地域防犯教材では、事件の図解が「会場設営・参加受付・景品管理・退場導線」の4区分で示され、毎年の研修会で引き合いに出されることが多い。
なお、事件を契機に生まれたとされる「湘南ルール」では、大会の勝敗は3回戦以内に限定され、審判は2名以上の相互確認を必要とする。もっとも、このルールがどこまで事件直接の反省から導かれたかについては諸説あり、後年の観光振興資料が事後的に美化したとの見方もある。
評価[編集]
本事件は、単なる連続殺人としてだけでなく、の運営構造そのものに潜む脆弱性を暴いた事例として評価されている。犯罪学の分野では、被害者が「参加者」として自発的に集まる場を利用した点から、準公開型誘導犯罪の典型例に分類されることがある[6]。
一方で、事件記録には誇張や脚色も多く、当時のローカル紙に掲載された「ジャンケンに勝つたびに警告が増えていく」という表現は、現在ではほぼ都市伝説として扱われている。とはいえ、事件資料の一部には現場写真の撮影日時と、天候記録が1時間ずれていた箇所があり、これが捜査の混乱を長引かせたとの指摘もある。
総じて、本件は末期の地方都市における「催し物型事件」の象徴とされ、事件研究会や民俗学の周辺分野でもしばしば言及される。もっとも、研究者の間では「本当にあれほど大がかりだったのか」という根本的な疑義も根強く、再検証を求める声が絶えない。
関連事件・類似事件[編集]
関連事件としては、で発生したとされる、の、およびのが挙げられる。いずれも、地域振興事業と競技形式を装った誘導が共通しているとされる[7]。
また、同時期ので起きた商店街倉庫の連続放火は、捜査資料上「本件の周辺事案」として処理された。これについては因果関係を認める説と、単なる別件を後追いで結びつけたにすぎないという説が併存している。
なお、事件資料の末尾には「次回開催予定・1988年春」の紙片が挟まれていたため、未然防止に成功した例ではなく、むしろ同種事件の再発可能性を警告する意味で引用されることが多い。
関連作品[編集]
本事件を題材にした書籍としては、『』、『湘南勝負圏』などが知られる。いずれもノンフィクションを標榜しているが、登場人物の会話が妙に長く、実録よりも群像劇に近いと評される。
映画化作品としては、公開の『』がある。監督のは、会場の照明を実際の事件資料よりも青白く描き、観客の多くが「記録映画かと思ったら心理ホラーだった」と証言したという。
テレビ番組では、の特集「」と、深夜帯のドキュメンタリー『』が知られている。後者は再現VTRのじゃんけん回数が実際の記録より7回多かったため、放送後に抗議が寄せられたが、制作側は「演出上の圧縮」であると説明した。
脚注[編集]
[1] 『相模湾沿岸広域対策資料 第14号』内部資料、1989年。 [2] 平塚市商工振興課『昭和62年度 市民イベント白書』平塚市役所、1988年。 [3] 望月圭『湘南事件簿と沿岸都市の記号化』紀要 第12巻第3号, pp. 41-58, 1996年。 [4] 佐久間智彦『連続催事型犯罪の法理』Vol. 31, No. 4, pp. 88-104, 1992年。 [5] E. Thornton, "Paper Tokens and Public Fear: Civic Games in Late 20th Century Japan," Journal of Maritime Urban Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 201-229, 1998. [6] 村上三郎『準公開型誘導犯罪の研究』第5巻第1号, pp. 12-35, 2001年。 [7] 中野由美『関東沿岸部における催事連鎖事件の比較研究』第9号, pp. 77-96, 2004年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 平塚市商工振興課『昭和62年度 市民イベント白書』平塚市役所, 1988.
- ^ 佐久間智彦『連続催事型犯罪の法理』法学セミナー Vol. 31, No. 4, pp. 88-104, 1992.
- ^ 望月圭『湘南事件簿と沿岸都市の記号化』横浜港湾大学紀要 第12巻第3号, pp. 41-58, 1996.
- ^ E. Thornton, "Paper Tokens and Public Fear: Civic Games in Late 20th Century Japan," Journal of Maritime Urban Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 201-229, 1998.
- ^ 村上三郎『準公開型誘導犯罪の研究』犯罪社会学レビュー 第5巻第1号, pp. 12-35, 2001.
- ^ 中野由美『関東沿岸部における催事連鎖事件の比較研究』地域安全史研究 第9号, pp. 77-96, 2004.
- ^ 高瀬弘之『海浜都市における群衆心理と抽選制度』都市防犯年報 第18号, pp. 5-29, 2006.
- ^ Margaret A. Horne, "The Logic of Winning Streaks in Community Violence," Pacific Legal Studies, Vol. 14, No. 1, pp. 66-90, 2007.
- ^ 今井徳夫『勝敗神話と昭和末期の地方行政』地方史叢書 第22巻, pp. 101-133, 2011.
- ^ 『手の形の向こう側』田村桂一、海鳴社, 1995.
外部リンク
- 神奈川県警察事件資料室
- 湘南事件アーカイブ
- 平塚市郷土防犯研究会
- 沿岸都市犯罪史データベース
- 昭和末期地域催事研究センター