湯無山太郎次郎権左衛門ノ簾慶一
| 氏名 | 湯無山 太郎 次郎 権左衛門ノ簾 慶一 |
|---|---|
| ふりがな | ゆむやまたろうじろうごんざえもんのれんけいいち |
| 生年月日 | 10月12日(旧暦) |
| 出生地 | 最上郡(仮宿「湯無山」) |
| 没年月日 | 4月3日(旧暦) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 学匠(簾礼法・微細測量・湯殿儀礼) |
| 活動期間 | 1732年 - 1771年 |
| 主な業績 | 「三十七間簾(さんじゅうななげんすだれ)」規格の制定と普及 |
| 受賞歴 | 「禁裏湯殿簾格」認可(1766年)ほか |
湯無山 太郎 次郎 権左衛門ノ簾 慶一(ゆむやまたろうじろうごんざえもんのれんけいいち、 - )は、の「簾(すだれ)礼法」を体系化した学匠である。〇〇として広く知られる[1]。
概要[編集]
湯無山太郎次郎権左衛門ノ簾慶一は、中期において、生活用具であるはずのを「儀礼の精度装置」として再定義した人物である。彼は、簾の目数(めかず)や結び目の間隔を、作法と結びつけて記録し、各地の湯治場や公的施設へ「携行できる規格」として持ち込んだとされる[1]。
その活動は単なる道具改良ではなく、火事や衛生の問題、そして対人距離の作法にまで及び、当時の知識人たちが「見えないところの秩序」として評価したという。のちに彼の名は、簾をめぐる流行語や規定文書の末尾に添えられるようになり、偽名で模倣する者が続出したと伝えられている。なお、現代の研究では「慶一」の綴りが写本により揺れ、別系統の人物が混同された可能性も指摘されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
湯無山太郎次郎権左衛門ノ簾慶一は、10月12日(旧暦)に最上郡へ生まれたとされる。出生地は「湯無山」と呼ばれる仮宿で、実際には湯が出ないのに湯治客だけが集まる奇譚として語られたという[3]。
慶一は幼少期から、父が持ち帰る帳面の端に小さな格子を描く癖があったとされる。家では雨戸の隙間風を測るために、簾を二重にし、その間に「紙の糸(しのいと)」を張って風向を推定していたとも伝わる。彼はその推定を、のちに“礼法”と呼ぶ体系へ転用したとされる。
青年期[編集]
慶一が頃、湯治場の行事で「湯壺(ゆつぼ)前の挨拶」として簾を出す係を任されると、彼は目数を数え始めた。記録では、最初は37目(みなじ)を基準にしたが、途中で「37は不吉」として別の値(41目)を試し、さらに「湯気の滞留は目の太さで変わる」として、太さを3段階に分類したとされる[4]。
この頃に彼は、付の普請(ふしん)書役である「小梁川(こやながわ)勘助」から微細測量の方法を学び、簾の結び目の“伸び”を、旧暦の月齢と併せて記録するようになった。彼のノートは後年、「月齢簾差(げつれいすだれさ)」として写本に転用される。
活動期[編集]
に、慶一は単身でへ出て、湯殿関連の作法を扱う「御湯(ごゆ)細工の倉」へ通ったとされる。彼はそこで、簾が単なる間仕切りではなく、視線と温度の“緩衝層”になることを説いた。特に彼が推したのが「三十七間簾」であり、これは一間(いっけん)ごとに幅を揃え、簾の垂れを一定角度へ“寄せる”ための結び目配置とされた[5]。
また慶一は、の湯殿に出入りする人々向けに、合図の回数を定めた“二拍子礼(にびょうしれい)”を提案したとされる。噂では、拍子の基準が「息を止める回数がちょうど6回になるまで」と記されていたが、写本の一部ではそれが「息を止める回数が5回半」となっており、真偽をめぐる議論が続いている[6]。
には、彼の体系が「禁裏湯殿簾格」として認可されたとされる。この認可を受けた後、慶一は全国の湯治場へ同規格の“携行板”(厚さ3寸、幅1尺、目数表付き)を配布したという。配布数は「一斉に724枚、うち107枚が回収不能」と妙に具体的であるが、当時の帳簿が根拠とされてきた[7]。
晩年と死去[編集]
晩年の慶一は、視線の作法をめぐる争いに巻き込まれたと伝えられる。彼が推す簾の位置は、礼儀上の“角”が定められるため、商人の寄合や下級武士の集まりでは「勝手に角を奪われた」と感じる者がいたという。
に彼は若い弟子へ主導を譲り、最後の仕事として「二重簾の水切り(すいきり)計算」をまとめた。彼は自筆で「誤差は針2本分まで許す」と書き残したとされる[8]。
4月3日(旧暦)、慶一は江戸の小伝馬町で没したとされる。享年は満66歳ではなく、旧暦の数え方により「66歳または67歳」と揺れる資料がある。
人物[編集]
湯無山太郎次郎権左衛門ノ簾慶一は、几帳面で、癖のある冗談を好んだ人物である。彼は人に会うと最初に挨拶をせず、相手の背丈を「簾の垂れ角」で推定したとされる。弟子の一人は「師は身長ではなく“影の角度”を測って笑った」と回想している[9]。
また、彼は金額に対して異常に厳密であったとされる。簾の注文を受けると、代金を“目数”で割り、さらに端数を“結び目”に換算したという。記録では、合計が13両8分となったとき、分の扱いが「簾糸にするか紙札にするかで議論が起きた」とある[10]。
一方で、慶一は病にも神経質だったらしく、湿度の高い日は「簾の吸い込みが早い」と言って外出を控えたとされる。ただしその判断基準が、風呂の湯量ではなく「湯桶の木目が12本見えるかどうか」だったという点が、後年“珍学匠”扱いの種になった。
業績・作品[編集]
慶一の代表的な業績は、「三十七間簾」の規格化である。これは簾の幅、結び目の間隔、そして出し入れの順序を、湯殿儀礼の流れに組み込んだものである。彼は規格文書の冒頭に「簾は沈黙を配る」と書いたとされ、署名はしばしば“権左衛門ノ簾”の部分だけが先に出るため、写本によって著者名の並びが揺れる[11]。
作品としては『目数帳(めかずちょう)』、『二拍子礼の記(にびょうしれいのき)』、『月齢簾差考(げつれいすだれさこう)』が知られる。特に『月齢簾差考』では、月齢が大きいほど結び目が“締まりやすい”と述べているが、根拠は「本人が7回、別の7回、そして失敗3回をした」のような半実験的な記述である[12]。
また、彼は実用品の出版も行ったとされる。『携行板三面規(けいこうばんさんめんき)』は、厚さ3寸の木板に目数表、結び位置図、そして“誤差許容”欄を載せた携帯型であったとされる。配布のための印刷はの版元「青鳩(あおばと)屋」に委ねられたと記録される。
後世の評価[編集]
湯無山太郎次郎権左衛門ノ簾慶一は、簾礼法の先駆者として評価されたとされる。江戸後期の実務家は、彼の規格が「火の回り道」を遅くし、湯殿の匂いの拡散を抑えるのに役立ったと語ったという[13]。
ただし批判も少なくない。後世の一派では、慶一の体系が“形式のための形式”へ傾いたとして「簾が人を支配した」との指摘があった。特に、二拍子礼が過度に細分化され、行事の参加者が息継ぎのタイミングを過剰に意識した結果、むしろ疲労が増えたという逸話が残っている[14]。
その一方で、儀礼と計測を結びつけた点は、のちの家具寸法学や間仕切り設計に影響したと見なされる。現代の研究では、慶一の著作が写本を通じて増殖し、原型が分からなくなったことが問題とされるが、それでも「規格という物語の力」を示す例として言及されることが多い。
系譜・家族[編集]
慶一の家系は「湯無山家簾(ゆむやまけすだれ)」と呼ばれ、湯治場の帳簿・普請・小道具の管理を担っていたとされる。彼は複数の養子をとったとされるが、その人数は資料によって2人、3人、そして「5人(うち1人は数え損ね)」と揺れている[15]。
妻は名を「おはつ」とする説が多いが、別系統の系譜では「おつね」とされる。子としては「湯無山 長次郎(ちょうじろう)」が有名で、彼は師の携行板を改造し、目数表を“星形の罫線”にしたと伝えられている。改造の評判は高かったとされるが、同時に「星形だと目数が見えにくい」というクレームも出たため、結局は標準罫線へ戻されたとされる[16]。
弟子筋にはの御普請役人につながる者がいたともいい、のちの施設改装の際に、慶一の規格が“礼法”名目で流用された可能性が指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 湯無山慶継『湯無山簾録(写本)』湯無山家簾、1769年。
- ^ 小梁川勘助『微細測量の机上訓(擬)』柏葉書房、1738年。
- ^ 青鳩屋編『禁裏湯殿の記録と附簾』青鳩屋、1767年。
- ^ Margaret A. Thornton『Ritual Devices in Early Modern Japan』Oxford University Press, 2011.
- ^ 川瀬利光『間仕切り規格の歴史』講談図書館、1989年。
- ^ 佐渡山清次『曖昧な目数:写本比較の方法』『日本実務史研究』第12巻第3号, pp. 41-63, 2004.
- ^ 山内徳雲『湯殿儀礼と距離の作法』刀文堂, 1976年。
- ^ 伊賀谷静『月齢と結び目の相関(疑)』『民間科学史年報』Vol. 5, No. 1, pp. 9-28, 1998.
- ^ Ryo Sakamoto『Counting Silence: The Sudare Aesthetics』Kyoto Academic Press, 2016.
- ^ 大澤直樹『江戸の湯と測量のあいだ』平角出版社, 1993年(題名が一部写本と一致しない).
外部リンク
- 湯無山家簾文庫
- 簾礼法資料館(仮)
- 江戸湯殿儀礼アーカイブ
- 月齢簾差研究会
- 青鳩屋 版元ギャラリー