綾汰朗
| 名称 | 綾汰朗 |
|---|---|
| 読み | あやたろう |
| 英語表記 | Ayataro |
| 分類 | 文書整形・口承補助の制度名 |
| 成立 | 18世紀末頃とされる |
| 主な活動地域 | 京都、江戸、東京 |
| 関係組織 | 宮内記録局、帝国文案協会 |
| 特徴 | 語尾の揺れを抑え、文面に均質な韻を与える |
| 廃止 | 昭和初期に事実上消滅 |
| 異名 | 文綾役、朗整手 |
綾汰朗(あやたろう、英: Ayataro)は、後期ので成立したとされる、言葉の余白を織物状に整えるための準公的肩書である。のちにの文書整形制度に取り込まれ、の官庁や出版社で広く用いられたとされる[1]。
概要[編集]
綾汰朗は、文書・口上・祝詞などに含まれる語尾の乱れを抑え、読み上げた際に一定の抑揚を持たせるための役割であるとされる。とくにの公家文書との町触れのあいだで用法が異なり、後年には「句読点の前に立つ者」として半ば伝説化した[1]。
この制度は、単なる書記や朗読係ではなく、原稿の改稿、韻律の調整、さらには会議室の空気の沈静化まで担当したとされる。なお、期の官制改正では正式な職名から外れたが、雑誌編集部や地方議会では初期まで実務上の綾汰朗が置かれていたという[2]。
成立の経緯[編集]
綾汰朗の起源については、末年に京都の御用記録方が、同じ文言を三度書き直す手間を省くために編み出したという説が有力である。別説では、寺社奉行所において奉納文の末尾が「〜に候」「〜にて候」と崩れるのを防ぐため、仮名の伸びを整える専門補助が生まれたともいわれる。
特に有名なのは、年間に沿いの書肆で起きた「一行の長さをめぐる争い」である。店主のは、同じ投書が版木ごとに長さを変えたため損紙が月に47枚増えたとして、試験的に朗読修整係を雇った。この係が後の綾汰朗の原型になったとされるが、当時の帳簿には「声色番」「文末ならし」とも記されており、名称は統一されていない[要出典]。
制度の発展[編集]
京都系綾汰朗[編集]
京都系は、形式の美しさを重視する流派で、文書や祭礼の案内に多く用いられた。彼らは一文を七拍で終えることを理想とし、破綻した語順を「糸のほつれ」と呼んで、赤い墨で補正したという。中でもの書庫にあったとされる『綾汰条々』は、現存しないにもかかわらず後世の編集者が何度も引用したことで有名である。
京都系の綾汰朗は、言葉を整える際にの屋根の反りを基準にしたとも伝えられる。実際には建築との関係は薄いが、儀礼的な「見上げる角度」が重視されたため、古文書の行末がやや上向きに記される癖が生まれたとされる。
江戸系綾汰朗[編集]
一方、系は速度を重視し、町奉行所や瓦版の現場で発達した。ここでは綾汰朗は文面の美観よりも、配布後に読み間違いが起きないことが重要視され、1枚の触書につき最大3か所までしか修整を入れない規定があったという。
の紙問屋は、綾汰朗を入れることで改版回数が平均2.6回から1.1回に減ったと記録している。ただし、同店の台帳は火災で焼失しており、残る記録は孫が昭和に書き写した控えのみであるため、数字の正確性には疑義がある。
役割と作法[編集]
綾汰朗に任じられた者は、まず原稿の末尾に「間」を見つけることを求められた。これは句点や改行ではなく、書き手の息継ぎの癖を読む技術であり、熟練者は1分間に18〜24の「余白の穴」を見出したという。
また、会議や口上においては、発言者の語尾が強くなりすぎた場合、綾汰朗が横から小さく咳払いを入れた。これを「綾引き」と呼び、最も腕の良い者は咳払い一つで役人三名を黙らせたとされる。なお、綾引きに失敗すると、文書全体が“ざらついた印象”になり、下役から書き直しを命じられた。
綾汰朗の衣装は、地味な鼠色の羽織に細い青線を入れたものが標準とされたが、期には誇示的な金糸を縫い込む流派も現れた。これに対して保守派は、金糸は「文の骨格を鈍らせる」と批判したという。
社会的影響[編集]
綾汰朗の普及は、単に文書の読みやすさを改善しただけではない。地方の村役場では、綾汰朗の在任があるかないかで住民の訴訟件数が年に14件ほど変動したとされ、行政における「言い切りすぎ防止」の効果が高く評価された。
また、出版界では綾汰朗の存在が編集者の権威を補強し、校正刷りに独特の緊張感を与えた。とくにのある老舗出版社では、綾汰朗が最後の一文を整えるまで印刷機を止める慣習があり、これにより納品は遅れたが返品率は3割低下したという。
批判と論争[編集]
綾汰朗には当初から批判も多かった。なかでもの若手は、綾汰朗が「語りの自然な流れを人為的に固定する」と主張し、過剰な整文は民衆の発話権を奪うと批判した。これに対し、老練な綾汰朗は「流れは川に任せよ、しかし堤は人が作る」と応じたと伝えられる。
一方で、綾汰朗の数え方をめぐっては混乱が続いた。ある年の報告では全国に126名とあるが、同時期の新聞広告ではわずか38名しか確認できない。研究者のあいだでは、兼業者を重複して数えたためではないか、あるいは「綾汰朗」と称して雑用係まで含めたためではないかとされる[2]。
衰退と再評価[編集]
末から初期にかけて、活版印刷の機械化と役所文書の定型化が進むと、綾汰朗の出番は急速に減少した。とくにの官庁街では、定型文のテンプレートが普及したため、綾汰朗が介在する余地は月に2回程度しかなかったという。
それでも戦後しばらくは、新聞社の整理部や地方議会の議事録係に「綾汰朗気質」と呼ばれる実務が残った。これは、原稿を整えるというより、言い過ぎを丸める能力を指し、昭和40年代の編集現場では半ば美徳として語られた。21世紀に入ると、SNS上で文章を角立てずに整える比喩として再流用され、若年層の間で逆説的に再評価された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯寛『綾汰朗制度の成立と変容』文綾出版社, 1987, pp. 41-88.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Ayataro Function in Late Tokugawa Bureaucracy," Journal of East Asian Script Studies, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-229.
- ^ 小野寺澄子『江戸触書と朗整手の実務』日本書房, 2002, pp. 13-67.
- ^ Hiroshi Kanda, "Margins, Breath, and Administrative Poise in Kyoto Records," The Osaka Review of Historical Philology, Vol. 8, No. 2, 2001, pp. 77-104.
- ^ 高橋廉『明治文書改革と綾汰朗の消滅』中央資料出版, 2011, pp. 119-155.
- ^ Emily R. Watanabe, "From Scribe to Softener: Ayataro and the Politics of Tone," Bulletin of Comparative Bureaucratic History, Vol. 5, No. 1, 2016, pp. 9-36.
- ^ 『綾汰朗遺聞集』帝都史料編纂会, 1929, pp. 5-29.
- ^ 鈴木啓介『句読点行政入門』港文館, 1998, pp. 88-97.
- ^ Jean-Luc Morizet, "Le problème des finales en Ayataro," Revue des Études Inutiles, Vol. 4, No. 4, 2008, pp. 144-171.
- ^ 古賀喜平『鴨川書肆帳簿抄』京都文庫, 1791, pp. 2-14.
外部リンク
- 帝都文綾アーカイブ
- 京都御文書研究所
- 日本余白学会
- 綾汰朗保存会
- 東西句読点資料館