激臭マンドリル
| 名称 | 激臭マンドリル |
|---|---|
| 別名 | G-M試料、海風性マンドリル |
| 分野 | 臭気工学、衛生史、民俗発酵学 |
| 起源 | 1887年ごろ |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、A. H. Whitcombe |
| 主な産地 | 神奈川県三浦半島、長崎県五島列島 |
| 用途 | 害獣忌避、倉庫検査、嗅覚訓練 |
| 危険性 | 高濃度では失神例が報告された |
| 関連機関 | 内務省衛生局 臭気試験班 |
激臭マンドリル(げきしゅうマンドリル、英: Gekishu Mandrill)は、沿岸で採取された揮発性樹脂を基礎に、末ので体系化された臭気調整概念である。強烈な刺激臭を放つ特殊な発酵混合物として知られている[1]。
概要[編集]
激臭マンドリルは、もともとの港湾倉庫で発生した「検疫をすり抜ける異臭物」の総称であったが、のちに学術用語として再定義されたものである。一般には単なる悪臭混合物と思われがちであるが、実際には海藻由来の粘質成分、魚油、乾燥柑橘皮、および微量の硫黄化合物を一定比率で攪拌したものを指すとされる[2]。
名称の「マンドリル」は、の比較生理学講座において、当初は霊長類の鼻孔形状を模した試験器具に由来したと説明されたが、後年の記録では、試料そのものの「顔をしかめさせる力」を比喩した俗称であったとする説が有力である。なお、の告示では「強烈ナル刺激臭ニ依リ倉庫労務者ノ注意ヲ喚起スル試薬」として扱われた[3]。
臭気の強さは「G-M指数」で表され、標準試料1立方尺あたりの鼻腔反応回数を段階で評価する仕組みであった。実地試験ではの漁村で平均、冬季の密閉倉庫ではを記録したとされ、当時の衛生誌には「窓を閉めてもなお潮風を呼ぶ」と記されている。
歴史[編集]
港湾検疫からの発生[編集]
起源は、での輸入藻類検査において、保税倉庫の隅に置かれた樽の中身が異常発酵した事件に求められる。この樽は本来、昆布に似た乾燥海草を詰めたものであったが、時の高温と、樽内に混入した糖蜜が反応し、強い刺激臭を放つ半流動物へ変質したとされる。現場に立ち会った税関技師のは、後に「鼻腔が先に退避した」と回想したという[4]。
これを受けては、臭気の発生条件を記録する目的で試料を保存し、翌に「マンドリル仮試料」と仮称した。仮称の由来は、試験器具の把手が霊長類の鼻梁を模した曲線を持っていたためであるが、報告書の余白には「顔面を赤くするほどの臭気」とも書かれており、これが後の命名に影響したとみられている。
学術化と全国展開[編集]
、と英国人技師は、の臨時試験室において配合比を固定し、激臭マンドリルを「再現可能な臭気物質」として標準化した。ここで採用された比率は、魚油、乾燥柚子皮、海藻粘液、硫黄混和灰、その他であり、わずかの温度差で臭気の立ち上がりが変わるとされた[5]。
には主導で地方試験が行われ、の各港に「臭気観測箱」が設置された。これにより、倉庫内の害虫や野犬が一定距離を保つ現象が確認され、衛生行政の一部で忌避剤として採用された。ただし、同時に労働者の昼食がほぼ全滅するという副作用も報告され、以後は屋外使用が原則とされた。
大衆化と衰退[編集]
初期には、地方の見世物小屋や理科教材としても流通し、の興行師が「一嗅で三日間忘れられぬ」として宣伝したことから知名度が急上昇した。最盛期のには、全国で年間約本の試験用小瓶が出荷され、学校向けの嗅覚教育セットにも同梱されたという[6]。
しかし、以降は戦時下の物資統制により魚油と柑橘皮の調達が困難となり、代替配合は臭気の方向性を失って失敗した。戦後は「臭気工学」の名目で一部研究が続いたものの、の通達で強刺激性試料の一般頒布が制限され、激臭マンドリルは半ば伝説化した。なお、現在でもの一部漁師のあいだでは、暴風前夜に小瓶を戸口へ置くと潮の機嫌が分かるとして語り継がれている。
配合と製法[編集]
標準的な製法では、初日に乾燥海藻を真水で戻し、二日目に魚油と柑橘皮を低温で合わせ、三日目に硫黄混和灰を少量ずつ投入するとされる。温度はが推奨され、これを超えると「鼻を突き抜けるより先に、部屋の壁が先に諦める」と記したの工場日誌が残っている[7]。
配合には地域差があり、式は甘味が強く、式は潮気が前面に出るとされる。また、の薬種商が考案した「抑臭封入法」では、薄い和紙を三層に巻くことで初期拡散を30秒遅らせる工夫が行われたが、試験官の一人が封印を解いた瞬間に筆記を中断したため、詳細な評価記録は欠落している。
この分野では、臭気の強さよりも持続性が重視された。最上等品は以上、倉庫の梁に残臭を保持するとされ、古い帳簿では「翌朝、帳簿まで臭う」と書かれた事例がある。
社会的影響[編集]
激臭マンドリルは、害獣忌避のみならず、都市衛生の感覚を変えた点で評価される。特に後期のでは、下水の悪臭と区別するために、臭気を「生活臭」「危険臭」「激臭」の三段階に分ける臨時分類が導入された[8]。
また、では新入生に対する嗅覚耐性試験として用いられ、合格者には「鼻梁講習修了」の朱印が与えられた。これが後の港湾労務者の安全教育に転用されたことから、激臭マンドリルは単なる珍品ではなく、近代日本の労働衛生史に位置づけられることもある。
一方で、近隣住民からの苦情は極めて多く、のでは「魚の死体に柚子を詰めたような迷惑物」と形容され、研究継続の是非が議論された。議事録によれば、最終的に「公共の福祉に資する範囲でのみ許容する」とされたが、具体的な範囲は誰も決めなかったため、運用は各自治体に委ねられた。
批判と論争[編集]
最も大きな論争は、激臭マンドリルが「科学的臭気試料」であるのか、それとも「見世物的な悪趣味」であるのかという点であった。とりわけのは、教育目的を逸脱した展示会について「衛生の名を借りた鼻の暴力」と批判し、これに対して研究側は「鼻にこそ教育が必要である」と反論した[9]。
また、試料の保存容器に用いられたの内側コーティングが、時間経過で微妙に甘い香りを生じさせることが判明し、純粋な悪臭とは言えないのではないかという指摘もある。これについては、後年の再検査で「臭いは甘さと同じく、記憶の側に宿る」とする詩的回答が付され、学術的には解決しなかった。
なお、の民間調査では、激臭マンドリルを実際に嗅いだと申告した人のが「海辺の祖母の納屋を思い出した」と回答しており、臭気が記憶喚起装置として機能した可能性が指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『港湾臭気試験概論』内務省衛生局資料課, 1899年.
- ^ A. H. Whitcombe, “On the Standardization of Offensive Marine Odors,” Journal of Coastal Sanitation, Vol. 4, No. 2, pp. 113-129, 1901.
- ^ 三浦房之助『横浜港検疫異臭記』神奈川県衛生試験所報告, 第12巻第3号, pp. 44-58, 1889年.
- ^ 菊池雪丸『嗅覚興行の実際』浅草演芸出版社, 1932年.
- ^ 河合静枝「激臭マンドリルの保存温度と拡散遅延」『日本衛生化学雑誌』第18巻第1号, pp. 7-21, 1924年.
- ^ Margaret L. Sutherland, “A Comparative Study of Reeking Agents in East Asian Ports,” Transactions of the Royal Institute of Odor Studies, Vol. 11, pp. 201-244, 1908.
- ^ 佐伯道夫『鼻梁講習の教育史』港湾労務研究会, 1961年.
- ^ 北川玲子「激臭マンドリルの社会受容と地域苦情」『地方行政史研究』第6巻第4号, pp. 88-97, 1978年.
- ^ Frank P. Hollis, “The Moral Question of Educational Stench,” Cambridge Review of Applied Hygiene, Vol. 2, No. 1, pp. 1-18, 1934.
- ^ 高瀬陽一『臭いは記憶に残るか』風媒社, 1980年.
- ^ 小田原薫「鼻腔反応回数の測定法に関する一考察」『実験衛生』第9巻第2号, pp. 55-63, 1926年.
外部リンク
- 内務省衛生史アーカイブ
- 横浜港湾資料館デジタルコレクション
- 臭気工学研究会
- 三浦半島民俗発酵伝承会
- 日本嗅覚史学会