狩塚
| 分野 | 民俗学・地域史・狩猟文化 |
|---|---|
| 所在地 | からにかけての山間部(とされる) |
| 形態 | 石積み塚・簡易祠・標柱を含む小規模複合物(とされる) |
| 関連行事 | 初猟・歳暮・弔いの「打ち札」儀礼(とされる) |
| 登場史料 | 地方役所の狩猟届出と注記(とされる) |
| 研究団体 | 地域文書保全の任意団体(とされる) |
| 別称 | 「狩り塚」「取り塚」等(とされる) |
狩塚(かりづか)は、各地で見られるとされる「狩猟の節目」を祀る小規模な地域施設である。狩猟文化の変遷とともに意味が揺れ、近世には行政文書にも断続的に現れるとされる[1]。なお、語源をめぐっては複数の説がある[2]。
概要[編集]
狩塚は、狩猟期の到来と終息、あるいは獲物の安全祈願などを目的として築かれたとされる小規模施設である。多くは人の背丈ほどの石積みと、そこに結びつく短い口伝(「打ち札を奉げよ」等)によって成立していると説明される[1]。
一方で、後世になるほど狩塚は「単なる祠」ではなく、地域の統治装置のようにも働いたとされる。たとえば、村落共同体が狩猟の可否を巡って紛争を抱えた際、狩塚の札が「合意の記号」として運用されたという指摘がある[3]。ただし、狩塚が本当に狩猟施設であったか、信仰の名を借りた別の仕組みであったかについては議論がある[2]。
名称と語源[編集]
「狩り塚」が「狩塚」と縮まった経緯(とされる)[編集]
民俗語彙の整理を主題とするの研究会では、口語の省略が「狩り塚」から「狩塚」へ進んだと説明されている[4]。具体的には、文書化の段階で「狩り」が「カリ」とだけ表記され、塚の漢字が続くことで定着したという見立てがある[4]。
また、郵便規程の改訂期に行政文書の文字数が削られたため、長い「狩り塚」表記が短縮されたという逸話もある。この話はの内部資料に基づく、とされつつも典拠がぼやけており、ある編集者は「ロジックは整っているが証拠が薄い」と記している[5]。
語源のもう一つの説:「計り塚」起源(とされる)[編集]
一部では狩塚は「計り塚(はかりづか)」の変形だとされる。狩猟の分配をめぐって、肉や皮の量を「計る」行為が中心になった時代があり、その象徴として塚が機能した、という筋書きである[6]。
ただし、この説では「狩」の字の選択理由が弱くなる。そこで、研究者のは「刃物検査の記録が多い地域では、狩猟の語が会計の語を吸収した」と主張したとされるが、当該主張はのちに短い反論も添えられている[6]。
歴史[編集]
起源:天守ではなく「埋め札」から始まった(とされる)[編集]
狩塚の成立は、近世初頭の狩猟統制の緩い運用から生まれたとする説がある。つまり、の初期に「初猟日」をめぐる地域間の混乱が続き、里人が口伝だけで日付を決めるのに限界が来たため、石で刻んだ「埋め札」が考案された、という筋書きである[7]。
この埋め札は、毎年10月の第2土曜日の夜にだけ更新されたとされる(ただし年により「第2土曜が縁起の悪い日」とされ、翌週へ延期された例も記録されているとされる)[7]。さらに、札には必ず「3本の矢尻(模造)と炭粉10粒」を混ぜた袋が入れられた、といった細部が語られる。根拠は薄いが、当時の儀礼がそれほど精密だったと想像させる記述として引用される[8]。
近代化:狩塚が「届出の補助書類」になった(とされる)[編集]
明治期以降、狩猟に関する届出制度が整うにつれ、狩塚は形式的な「提出物」へ接近したとされる。たとえば、の一部郡では、狩猟免状の申請時に「狩塚の札に触れた証」として、指先の煤(すす)を小箱に封入する慣行があった、と記される[9]。
この慣行は、行政側が衛生上の問題を指摘したことで一度廃れたとされるが、翌年には「煤ではなく木屑3匁(もしくは1.2グラム)に変更」として復活した、とされる[9]。このあたりは、自治体の記録と口伝がねじれており、「本当にあったのか」を疑わせる種類のリアリティとして紹介されがちである[3]。
戦後:安全祈願から「保険の代替」へ(とされる)[編集]
戦後の混乱期には、狩猟者の事故が地域の生活に直結するため、狩塚が実質的に「保険」に近い役割を負ったと説明される。すなわち、事故が起きた場合に家族が受け取る「埋葬の費用の目安」を、狩塚の会計簿(と呼ばれた板状台帳)で管理したという[10]。
ある回顧談では、救恤金の目安額が「一件あたり銀3円7銭、ただし搬送がなら銀4円2銭」と細かく書かれている[10]。この金額の算定根拠は不明であるにもかかわらず、なぜか当時の住民が「数字があると安心する」と語ったという形で残っている。ここが、歴史が信仰と家計の間に滑り込んだ瞬間だとされる[11]。
社会における機能[編集]
狩塚は、単なる儀礼の場に留まらず、地域の意思決定を「目に見える形式」に変換した装置だと考えられている。狩猟の出入りが多い季節ほど、口論は増え、誰の矛が先に認められるかが問題となるが、狩塚の札があることで「少なくとも儀礼上は合意だった」ことにされた、とされる[12]。
また、狩塚は教育の場としても働いたとされる。若者は狩塚に向かい、刃物の研ぎ角を学ぶ代わりに「矢尻の向き」を覚えさせられたという報告がある[13]。この教育は衛生や技術の理由として説明されることもあるが、実際には「責任の所在を曖昧にし、共同体の不満を狩塚へ寄せる」効果があったのではないか、という批判も併記される[2]。
さらに、狩塚の周囲では“寄進”が緩やかに制度化されたとされる。たとえば、供え物は毎年同じ重さではなく、「その年に最もよく獲れる獣の種類を一つ選び、その獣の“数え方”で供えた」という奇妙な運用があったとされる[14]。このルールは統計的に整合するようで整合しないため、後年の研究者を悩ませた、とされる[14]。
批判と論争[編集]
狩塚は地域に根づいたとされる一方で、近代の行政観点からは「迷信」「不明瞭な会計」「安全衛生上の非合理」といった批判に晒されたとされる。特に煤の封入や、供え物の成分をめぐる運用は、衛生の面で問題視されたという記録がある[9]。
一方で、批判側の資料にはしばしば政治的な匂いがあったともされる。ある地方紙では、狩塚が自治体の干渉を受ける前は「地域独自の正義」が働いていたが、制度化が進むと「都合のよい人だけが儀礼を握った」と論じたという[15]。この論調はセンセーショナルだが、少なくとも当時の権力構造を反映している可能性がある、とも評される。
なお、狩塚の起源を「狩り」ではなく「監査(かんさ)」に関連づける説がある。すなわち、会計監査の担当者が不正防止として石塚を導入し、それが語りの中で狩猟へ転用されたのだ、という筋書きである[16]。この説は荒唐無稽とされることが多いが、逆に言えば荒唐無稽さが当時の記述の曖昧さと似ているため、数人の編集者の間で「一度読んでみろ」と回されている[16]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中清治『狩猟儀礼と石積みの系譜』青葉書房, 1987.
- ^ 【東北文書研究会】『打ち札の地域史料学:埋め札から届出へ』東北出版局, 1994.
- ^ Margaret A. Thornton『Ritual Accounting in Rural Japan』Oxford University Press, 2001.
- ^ 佐伯信弘『計り塚説の再検討(第2報)』季刊民俗史研究, Vol.12 No.3, pp.41-58, 2009.
- ^ 【北海道】郷土史料編纂室『狩猟免状と指先の煤:注記の読み方』札幌印刷協同組合, 1976.
- ^ Hiroshi Yamazaki『From Shrine to Compliance: Local Mechanisms of Acceptance』Journal of Japanese Regional Studies, Vol.27 No.1, pp.103-129, 2016.
- ^ 村松恵理『戦後山村における救恤慣行と会計板』日本社会史叢書, 第5巻第2号, pp.77-96, 2012.
- ^ K. Fletcher『Small Stones, Large Systems: The Symbolic Governance of Hunting Communities』Cambridge Scholarly Works, pp.210-234, 2008.
- ^ 山根正彦『行政文書と迷信のあいだ:要出典がつく注記』法律民俗学会編, 2019.
- ^ 逓信省編集部『郵便規程の文字数削減と運用』(題名は誤記として扱われることがある)官報調査資料, Vol.3, pp.1-19, 1889.
外部リンク
- 狩猟民俗アーカイブ
- 東北文書保全データバンク
- 北海道山間部口伝コレクション
- 地域儀礼会計研究会サイト
- 地方紙アーカイブ(戦後篇)