猫様。
| 氏名 | 猫 様。 |
|---|---|
| ふりがな | ねこ さま |
| 生年月日 | 1889年4月13日 |
| 出生地 | 愛媛県今治市 |
| 没年月日 | 1958年11月22日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 演説家・即興作詞家 |
| 活動期間 | 1912年〜1956年 |
| 主な業績 | 「猫様式」街頭律句の体系化、飼い主礼賛の公共言語化 |
| 受賞歴 | 1937年街頭芸能勲記/1952年全国即興詞章 |
猫 様。(ねこ さま、1889年 - 1958年)は、日本の演説家・即興作詞家である。「猫様。」として広く知られる[1]。
概要[編集]
猫 様。は、日本の演説家・即興作詞家である。「猫様。」として広く知られる[1]。
本名は史料によって揺れるものの、本人は晩年まで名乗りを「猫 様。」として統一し、講演の冒頭で必ず「耳の内側に言葉を置く」と述べたとされる。なお、この“置く”が実際にどの部位を指したのかは、複数の聞き取り記録で矛盾があることが指摘されている[2]。
1920年代後半、猫 様。は全国の巡回演説で、猫に語りかけるような語尾(いわゆる「さ・ま」引き)を普及させた。さらに「一匹の観客に十匹分の呼吸を渡す」という独自理論を用いたため、会場が不気味に静まったという証言が残る[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
猫 様。は1889年に愛媛県今治市で、港湾整備係の家に生まれた。幼少期から“猫に返事をする声”だけがよく通り、近所の人々はそれを「返しの律」と呼んだという[4]。
1902年、13歳のときに家業の記帳台帳を“猫の爪でめくる”癖が問題視され、父からは「紙は痛むが、言葉は痛まぬ」と諭されたとされる[5]。この言葉がのちに、猫 様。の講演で頻出する対句(紙=痛む/言葉=痛まぬ)に発展したと解釈されている。
また、1906年の冬、彼は近所の寺で「猫が眠る方角」を占いに使ったとして、住職から半年間の説教を受けたと伝えられる。ただし当時の寺の記録では、住職が説教ではなく“反省会”を行ったと書かれているため、細部は信頼性が揺らいでいる[6]。
青年期[編集]
青年期、猫 様。は松山市で寄席の手伝いをし、噺家の前座が噛むたびに「あなたの舌は、まだ子猫です」と言って場を和ませたとされる[7]。
彼は「師事し」という言い方を嫌ったが、実質的には柳川 亘治郎(やながわ こうじろう、架空の地方演説家)に雇われ、毎朝4時から“語尾の角度”を測る反復練習を課せられた。記録では、角度は指先と机の縁で計測され、初日から12度ずつ変えたとされる[8]。
1911年、彼は港で見た白い猫の群れに触発され、「同じ鳴き声でも、胸の高さで意味が変わる」と主張し始めた。ここから、猫 様。の後年の“声の高さ=思想”説が形成されたとされる。
活動期[編集]
猫 様。の本格的な活動は1912年から始まる。彼は全国行脚のための旅費として、当時の相場で換算して36貫650文を貯めたが、実際に会計帳簿が見つかったのはのちの1931年である[9]。
1925年、彼は「猫様式街頭律句」を初公開した。これは、演説の合間に観客の目線が“点”から“線”へ移る瞬間を狙い、即興の句を1回だけ挿入する技法である。ある新聞記事では、挿入句が成功した会場数が「全体の58.3%」と細かく報じられているが、同時に記事の筆者が演説を聞けていなかった可能性が指摘されている[10]。
また、1937年に授与された街頭芸能勲記は、形式上は文化功労だが、実務上は“路上の秩序維持”を評価したものだったとされる。猫 様。は演説中に必ず飴玉を7個配り、最後の1個だけを「言い足りない人」に渡したという。これが“罰”か“褒め”かは人により解釈が分かれ、対立が生じた[11]。
人物[編集]
猫 様。は、礼儀を“猫の回り方”として語る人物であった。すなわち、挨拶は直線ではなく円弧で行うべきだと主張し、実演では聴衆の前で半径2.4mの円を描いてから口を開いたとされる[14]。
性格は几帳面で、即興であっても必ず「最初の一語」「二語目の沈黙」「三語目の解像度」を決めていた。彼の友人は、猫 様。が台本を隠していたのではなく、“台本が先に眠っていた”と表現したという[15]。
逸話として、1940年の地方公演では、照明が落ちた瞬間に観客へ向けて「暗さは借り物です」と言い、停電の38秒後に“猫様”の語尾を延ばした。これにより会場が笑いながら落ち着いたとされ、結果的に救助隊の到着が遅れたという噂まで立った[16]。もっとも、この噂の根拠は公文書に残っておらず、後世の脚色として扱われることが多い。
業績・作品[編集]
猫 様。の業績は、街頭の即興を体系化した点にある。彼は「猫様式」を、(1)呼吸のカウント、(2)語尾の角度、(3)句の“置き”の三要素で整理し、地方の青年団にも指導したとされる[17]。
作品としては、短い演説文を集めた『耳の内側に置く辞典』が知られる。初版は1929年に大阪府の小規模出版社から刊行され、ページ数は「全213頁」とされるが、表紙の裏に貼られた訂正文が7枚あるため、実質は220頁相当とする説もある[18]。
また、歌詞集『飴玉の終止符』では、各曲の終わりに必ず句点を置かず、代わりに「(猫が見上げた時の沈黙)」を記す方式が採られた。のちに編集者が「読点を忘れたのでは」と疑ったが、猫 様。は「沈黙は読点より正確」と反論したとされる[19]。
後世の評価[編集]
猫 様。は、戦前の言論文化と戦後の大衆講話の中間に位置すると評価されている。特に、彼の“語尾”を模倣した演説家が複数現れたことから、技法の移植性が高かったとみなされる[20]。
一方で批判も存在する。すなわち、猫 様。の講演が観客の感情を誘導しすぎたとして、地方によっては「猫様。」の呼称が“煽りの合図”として受け取られたとする証言がある[21]。もっとも、当時の自治体の記録では、呼称そのものの禁止は確認できず、禁則は“無断配布”や“路上滞留”に限定されていた可能性が指摘されている[22]。
近年の研究では、猫 様。の“猫”が実際の動物愛を超え、言語運用の比喩として機能していた点が注目される。文学研究者の田邊 里紗子は「猫様。は声の設計図であり、猫は測定器だった」と述べたと伝えられる[23]。
系譜・家族[編集]
猫 様。には、家族の記録が比較的多い。出生地の今治市に残る戸籍抄本では、父を猫倉 清輝、母を猫倉 すみと記すものがある[24]。
弟子筋としては、彼が町内会で教えた若者たちが「耳円同盟」を名乗り、講演前に必ず半径2.4mの円を描く儀礼を継承したとされる。ただし同盟の実体があったかどうかは不明で、戦後に“儀礼だけが先に残った”という趣旨の回想録が見つかっている[25]。
晩年、猫 様。は一人暮らしをしていたとされるが、実際には弟子のうちの3名が交代で看護を行っていたという記述がある。葬儀の席では最後に「猫様。」の語尾だけを三度ずつ唱え、参列者の人数を合わせたと報告されている。人数合わせが厳密に行われたかは不明であるが、当日の席次記録では参列者が127人と記されている[26]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 猫倉 信一『猫様。の声学—語尾の角度から見た即興体系』海鳴書房, 1933. (pp. 14-67)
- ^ 【田邊 里紗子】『大衆講話における比喩装置としての猫』日本言語技術学会誌, 第12巻第3号, 2018. (pp. 201-239)
- ^ 柳川 亘治郎『前座を救う沈黙術—第一夜の記録』青潮文庫, 1922. (pp. 3-41)
- ^ 大西 源太『今治沿岸の言葉遊戯とその周辺』四国民話研究会, 1950. (pp. 88-110)
- ^ 全国演説連盟 編『街頭芸能勲記 記念資料集』官報調整局, 1938. (pp. 1-52)
- ^ Margaret A. Thornton『Public Rhetoric and the Measure of Silence』Oxford University Press, 1969. (pp. 77-101)
- ^ 佐藤 春香『飴玉の終止符—猫様。歌詞集の編集史』批評書房, 2004. (pp. 5-29)
- ^ Katsumi Watanabe『A Note on “Cat-Sama” Linguistics』Journal of Performative Semiotics, Vol. 9, No. 2, 1997. (pp. 33-58)
- ^ 猫 様。『耳の内側に置く辞典』大阪活字局, 1929.(第1版、全213頁として扱うが、貼付訂正7枚を含めた版を別記する)
外部リンク
- 猫様。声学資料館
- 耳円同盟アーカイブ
- 今治語りの系譜データベース
- 街頭芸能勲記コレクション
- 飴玉の終止符研究会