猫野ねこ
| 氏名 | 猫野 ねこ |
|---|---|
| ふりがな | ねこの ねこ |
| 生年月日 | 1912年4月3日 |
| 出生地 | 日本・東京都神田区(当時) |
| 没年月日 | 1987年11月18日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 猫口語学者、文筆家、民俗調査員 |
| 活動期間 | 1934年 - 1982年 |
| 主な業績 | 猫詞運動の提唱、口承資料『野良譚録』の編纂 |
| 受賞歴 | 日本口承文化奨励賞(1966年) |
猫野 ねこ(ねこの ねこ、 - )は、の者、奇譚蒐集家、ならびにを拠点に活動した擬人化文化の記録者である。とりわけ中期のの理論的支柱として広く知られる[1]。
概要[編集]
猫野 ねこは、期に活動した日本の猫口語学者である。自らを「人と猫のあいだに立つ翻訳者」と称し、街角のが用いるとされる語彙体系を記録・整理したことで知られる[2]。
その名は、後年のや都市民俗学の周辺領域にまで影響を与えたとされる。また、本人が残した一連の手稿には、内の路地、の古書店、の公園などを舞台にした詳細な観察記録が含まれており、研究者のあいだでは「半ば資料、半ば文学」と評されている[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、猫野は神田区の印刷業を営む家に生まれる。幼少期より活字の匂いと路地裏の猫に親しみ、8歳のころには近所の番地ごとに「猫の通い道」を記した独自の地図を作成したとされる[4]。
一家はで被災し、猫野自身も一時の親族宅へ疎開した。この経験が、後の「移動する都市の声を聴く」という彼の方法論を形づくったと考えられている。
青年期[編集]
にの聴講生となり、との双方をつまみ食いするように学んだ。のちに系統の民俗調査に触発されたとされるが、本人は「正式な師」はの三毛猫であったと冗談交じりに語ったという[5]。
ごろからの小出版社で校正を手伝いながら、夜間に「猫の会話」を採取する聞き取り調査を始めた。この時期にまとめられたノートは、のちの主著『路地の舌』の原型となった。
活動期[編集]
、猫野は雑誌『』を創刊し、都市の猫が使うとされる言い回しを五十音順に分類した。掲載語数は初版で1,284語、改訂第3版では3,911語に達し、の一部会合で真顔のまま議論の対象となった[6]。
にはとで巡回講演を行い、「猫は鳴くのではなく、版を重ねる」と述べたことで話題になった。講演録の一節には、の町家に棲む老猫が「である調」を好む傾向があると記されているが、この部分は後年、要出典の箇所としてしばしば扱われている。
、口承文化への寄与によりを受賞した。授賞式では、受賞理由として「人間中心主義に偏った辞書編纂への静かな反逆」が挙げられたとされる。なお、会場の周辺に猫が異常集結したという逸話があるが、記録の出典は一致していない。
晩年と死去[編集]
に入ると、猫野はの海沿いに建てた小屋へ移り、口述資料の整理に専念した。晩年は耳が遠くなったが、逆に「猫の沈黙の間合い」がよく分かるようになったと述べていたという[7]。
11月18日、のためで死去した。死後、遺稿の一部はに寄託され、そこには猫の足跡を押した和紙が23枚含まれていたとされる。
人物[編集]
猫野は、概して寡黙で、しかし観察対象に対しては異様に饒舌であったといわれる。初対面の相手には敬語を用いる一方、猫に対しては常に対等な口調を崩さなかったという。
性格は几帳面で、原稿の余白に「三毛、右耳欠損、発言少、しかし賢い」などと細かい注記を残した。弟子の一人によれば、猫野はで砂糖壺が空になると「今日は調査が浅い」と機嫌を損ねたとされる。
また、猫野は雨の日にやけに機嫌がよく、からまで歩いて帰る途中で、必ず5匹以上の猫と遭遇したと主張していた。この数字は本人が一貫していたため、門弟の間では「猫野式の再現条件」と呼ばれた。
業績・作品[編集]
代表作に『』『』『』がある。とくに『路地の舌』は、からにかけて断続的に刊行され、の下町における猫の鳴き分けを、天候・時間帯・魚屋の有無まで含めて分類した点で知られる[8]。
『野良譚録』は、公園、霊園、の裏路地における聞き書きをまとめたもので、記述の中には「猫は銭湯の煙突を方位磁石の代わりに見る」といった奇妙な観察が混じる。編集者の注によれば、同書の第4章だけ異常に詳細なのは、猫野が当時周辺で3か月間ほぼ毎夜通っていたためであるという。
晩年の未完原稿『』は、語義を「腹を満たす語」「縄張りを宣言する語」「人間を試す語」に分類する独自の体系を持っていた。これが後の一部の擬音研究に影響した一方で、語例の半数近くが著者の創作ではないかとの指摘もある。
後世の評価[編集]
猫野の評価は、研究者と愛好家のあいだで大きく分かれる。民俗学の側からは、都市の微細な環境音を拾い上げた記録者として評価される一方、言語学の側からは、資料の再現性に難があるとして慎重な扱いが続いている。
にはで遺稿展が開催され、来場者数は11日間で1万2,480人を記録した。展示室の一角に置かれた「猫野が愛用したとされる鉛筆」は、実際には展示用に後補されたものである可能性が高いとされるが、説明札は最後まで修正されなかった。
また、以降は領域で再評価が進み、猫野の語彙をもとにした演劇、ZINE、音声アプリが散発的に作られた。とくにの展覧会『路地の発声』では、来場者が「にゃ」と発声すると展示照明がわずかに明滅する仕掛けが話題となった。
系譜・家族[編集]
猫野家は神田周辺に代々暮らす小商家で、父・猫野 清次は活版印刷の組版職人、母・猫野 はなは下宿屋の帳場を手伝っていたとされる。兄弟姉妹は3人で、長姉・ときは後にで書店を営んだ。
猫野は生涯独身であったが、晩年まで「助手」と呼ぶ白猫を一匹連れていた。この白猫は『猫詞報』の原稿上でしばしば共同編集者扱いされ、欄外に「同意せず」「この案は却下」といった手書きが残されている[9]。
弟子筋には、、らがいる。いずれも猫野の死後に小規模な研究会を続けたが、解釈の相違からに分裂し、「耳派」「尾派」「無鳴派」に分かれたとされる。
脚注[編集]
[1] 猫野 ねこの人物像と活動年代については、後年の伝記資料に依拠する部分が多い。 [2] 彼自身は「学者」と呼ばれることを嫌い、「観察係」と称したという。 [3] 研究史上、猫野の記述は文学資料として読む立場と民俗資料として読む立場に分かれる。 [4] この地図は現存しないが、複写が1点だけ私人蔵にあるとされる。 [5] ただし、この逸話は門弟による回想録でのみ確認できる。 [6] 掲載語数は版によって異なり、4,000語を超えるとする資料もある。 [7] 末期の口述記録は断片が多く、解釈には慎重さが必要である。 [8] 初版の刊行年は1948年とする文献もある。 [9] 白猫の実在は確認されていないが、複数の草稿に指紋状の墨跡が残る。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯しずか『猫野ねこ小伝―路地裏の記録者』青丘書房, 1994年.
- ^ 三枝理一『猫詞報解題』都市民俗研究会, 2001年.
- ^ 渡辺芳樹「昭和中期における擬人化言説の形成」『民俗と表象』Vol. 12, No. 3, 2008, pp. 41-68.
- ^ Margaret L. Henshaw, “The Linguistics of Alley Cats in Postwar Tokyo,” Journal of Urban Folklore, Vol. 7, No. 2, 2011, pp. 115-149.
- ^ 門脇タツ『白猫編集記―猫野ねこの草稿と周辺』神田文化出版, 1998年.
- ^ 小林智恵「猫口語学の成立と崩壊」『日本言語史叢刊』第18巻第1号, 2016, pp. 9-33.
- ^ Ernest P. Holloway, “From Murmurs to Meows: An Ethnography of Categorical Purring,” Proceedings of the Society for Impossible Studies, Vol. 4, 1979, pp. 201-219.
- ^ 松浦瑛子『路地の舌とその時代』みすず書房, 2019年.
- ^ 高野綾子「神田・上野間における夜間移動動物の観察」『都市観察学報』第6巻第4号, 1992, pp. 77-92.
- ^ 国立国会図書館調査局『猫野ねこ遺稿目録』特別資料室報告, 1988年.
- ^ James R. Wetherby, “A Dictionary That Barked Back: Notes on Neko Studies,” Oxford Review of Pretend Philology, Vol. 2, No. 1, 1967, pp. 3-26.
外部リンク
- 猫野ねこ記念アーカイブ
- 神田路地研究センター
- 猫詞報デジタル版
- 都市擬音学会
- 上野野良文庫