白山大噴火
| 名称 | 白山大噴火 |
|---|---|
| 別名 | 白峰千筋噴火、白山煙幕変 |
| 初出記録 | 1687年(延宝5年) |
| 発生地 | 白山山系周辺 |
| 推定噴煙高度 | 最大18,400m |
| 被害想定 | 村落23、寺社11、牛車約140台 |
| 調査主体 | 内務省臨時火山測量局、白山火口史編纂会 |
| 関連制度 | 白山避難鐘制度 |
| 備考 | 一部記録は雪害と噴火の混同がある |
白山大噴火(はくさんだいふんか)は、周辺で断続的に発生したとされる巨大噴火現象、およびそれを契機に整備された火山観測・避難儀礼・行政連携の総称である。古記録では年間の「白峰空裂記」を嚆矢とし、のちにとの境界行政に深く影響したとされる[1]。
概要[編集]
白山大噴火は、山麓一帯において、噴煙、硫黄臭、降灰、発光現象が連鎖的に起きたとされる一連の災異である。現代では単一の噴火ではなく、末から末にかけて断続した複数の噴火的事象を後世が総称したものとみなす説が有力である[2]。
この現象は、地質学上の事件であると同時に、近世山村社会における共同避難の制度化、寺院による鐘撞きの標準化、ならびにの「火口見張役」設置にまでつながったとされる。なお、期にが実施した再調査では、住民の証言の一部が「火の神の通過」と記録されており、科学と民俗の境界をめぐる典型例として扱われている。
歴史[編集]
白峰空裂記と初期記録[編集]
最古級の記録は、に白峰の寺侍であったが書き残したとされる『白峰空裂記』である。そこでは「午の刻、山頂より白き柱立ち、翌朝にかけて雪と灰が半々に降る」とされるが、同時代の年貢帳には豪雪被害しか見えず、後世の編纂で噴火表現が付加された可能性が指摘されている[3]。
一方で、白山麓のやでは、噴煙のために日中でも灯火が必要になったとする口承が残る。とりわけの古老伝承では、火山灰が「畳二枚ぶん」積もり、村の子どもがそれを相撲土俵にしたという逸話が知られている。
天明期の再活性化[編集]
期には、飢饉と寒冷化の記憶と結びついて白山大噴火が再解釈された。とくにの大異変後、加賀・飛騨・越前の山伏が集まるの講中で、「山が息をし直した」とする説明が広まったとされる。
この時期、は火山灰の飛散方向を読むため、杉板に松脂を塗った「灰受け板」を各村に配備した。板の設置角度はが標準とされ、誤差が以上になると「煙の逃げ道を塞ぐ」として庄屋が叱責されたという[4]。
明治期の再調査と制度化[編集]
、の委嘱を受けたとは、白山一帯の噴気地帯を踏査し、噴火跡を示すとされる石列を記録した。もっとも、その半数近くは炭焼き窯の跡であったと後年の研究で判明している。
ただし、この調査が契機となって、避難鐘、放送代わりの太鼓、村境の赤旗を組み合わせた「白山避難鐘制度」が整備された点は重要である。制度はまでにへ普及し、毎月とに試験撞鐘が実施された。
原因とされる現象[編集]
白山大噴火の原因については、地下マグマの上昇と説明する地質学説のほか、山体内部に蓄積した「雪圧蒸気」が一定周期で噴出したとする説がある。後者は期の民俗地質学者によって体系化され、噴煙の白さが通常の火山灰よりも明るく見える点を根拠とした[5]。
また、の調査では、山麓の温泉地で硫黄分が平年比に上昇し、これが「山の肺が開いた」証拠と受け取られた。これに対し、の火山研究室は「観測点の温度計が囲炉裏の近くに置かれていた可能性」を示して反論したが、住民側は「囲炉裏の熱も山の呼気の一部である」として譲らなかった。
火口伝承[編集]
白山の火口は直下にあるとされるが、実際には「見張りに都合のよい斜面」に都度移動したという伝承がある。これは火口が固定ではなく、噴火のたびに山伏が位置を言い換えたためとも、測量誤差を隠すためとも説明される。いずれにせよ、地元では火口を直接指さすことを禁忌とする慣習が残った。
社会的影響[編集]
白山大噴火は、山岳信仰と行政文書の双方に強い影響を与えた。寺院は灰の飛来を「赦しの札」として集め、灰1升につき護符1枚を頒布したとされるほか、側では避難所に味噌樽を備蓄する規定が作られた[6]。
また、噴火後の復旧工事を担ったは、山道の石畳に赤茶色の安山岩を混ぜることで「再発時に色で警告できる」と主張した。もっとも、この工法は豪雨時に非常に滑りやすく、の春には牛車がまとめて谷へずれ落ちる事故が起きたと記録されている。
避難儀礼の成立[編集]
避難は単なる退避ではなく、集落ごとの整列、持ち物の重量制限、鐘の回数の確認まで含む儀礼として発展した。とくに「片足で三拍、振り返らずに里へ下る」作法は、火山灰で滑りやすい斜面に対応した実用的知恵とされる一方、村芝居の演目に転用されて広く知られるようになった。
研究と調査[編集]
戦後になると、白山大噴火はとの共同調査対象となり、堆積物の層序、伝承の伝播経路、鐘撞き記録の時刻差が照合された。とくにの報告書では、噴火年を示すとされた古文書の紙質が製だったことが判明し、記事は一時「伝承の編集史」として再分類された[7]。
しかし、に入ると、白山麓の水田から微細なガラス質粒子が採取され、再び噴火実在説が勢いを得た。粒子は一部で瓶の欠片と判明したが、研究者の一人は「瓶もまた地質の延長である」と述べ、学会で賛否を呼んだ。
観測点と測量[編集]
、、沿いに設けられた観測点は、標高差による風向変化を測るために設置された。だが、冬季は積雪のため観測箱が完全に埋もれ、結果として「雪の中で静かに爆ぜる」という異常なデータが多数報告された。
学説の対立[編集]
地質学派は地下熱水系説を、民俗学派は山伏儀礼説を、気象学派は日本海側の対流説を主張した。最終的に三者は「白山は説明を拒む」という共同声明を発表したが、この文言が最も学術的であるとしてしばしば引用されている。
批判と論争[編集]
白山大噴火をめぐっては、そもそも「大噴火」と呼ぶほどの単発巨大事象があったのかという批判が根強い。とりわけの『北陸地学評論』は、複数の雪崩、山火事、土砂流出、そして寺院の鐘の誤作動が一つに束ねられた可能性を示した[8]。
一方で地元の保存会は、現象の規模よりも共同体に与えた影響が本質であるとして、名称の正確性を問題にする議論を退けた。なお、保存会会長のは公開講演で「火山が起きなかったとしても、私らは火山に備えていた」と述べ、会場から拍手を受けたという。
文化的影響[編集]
白山大噴火は、災害史としてだけでなく、講談、郷土玩具、避難訓練の掛け声にまで浸透した。昭和中期にはと呼ばれる二面太鼓が作られ、片面は警報、もう片面は帰還の合図として用いられたとされる[9]。
また、の一部小学校では、毎年に「灰の日」の作文指導が行われ、子どもたちは「山が白くなるとき、村は黒く考える」といった独特の標語を暗唱した。これは実際には防災教育の標語を転用したものだが、後に観光用パンフレットが元祖として宣伝したことで、半ば伝説化している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 沢井惣右衛門『白峰空裂記の研究』白山史料刊行会, 1898.
- ^ 平賀宗一郎・D. H. Thornton『白山火口帯踏査報告』内務省地理局, 1882.
- ^ 松田鳳堂『雪圧蒸気説と山岳発火現象』北陸地質学会誌 Vol. 14, No. 2, pp. 33-61, 1921.
- ^ 金沢藩地方史編纂所『白山麓村落避難鐘制度史』加賀文庫, 1936.
- ^ 国立防災研究所白山班『白山大噴火総合調査報告書』調査報告 第7巻第3号, pp. 1-118, 1959.
- ^ A. M. Caldwell『Volcanic Memory and Bell Rituals in Central Japan』Journal of Alpine Studies Vol. 22, No. 1, pp. 77-104, 1968.
- ^ 北陸地学評論編集部『白山大噴火再検討:雪崩・火災・鐘の誤作動』北陸地学評論 第11巻第4号, pp. 205-239, 1974.
- ^ 小松原玄太『火山が起きなかったとしても』白峰文化会館講演録, 1987.
- ^ 金沢大学理学部火山研究室『白山山系微細粒子の再同定』学術紀要 第38巻第2号, pp. 11-46, 1989.
- ^ H. S. Ellington『The White Peak That Rang』Transactions of the Volcanic Folklore Society Vol. 9, pp. 5-19, 2004.
外部リンク
- 白山火口史アーカイブ
- 北陸災異研究フォーラム
- 白峰民俗地質資料館
- 白山避難鐘保存会
- 金沢地方史デジタル文庫