白羽透
| 氏名 | 白羽 透 |
|---|---|
| ふりがな | しらは とおる |
| 生年月日 | |
| 出生地 | |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間天気史研究家 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 「季節誤読」理論の体系化と、古文書気象の編成 |
| 受賞歴 | 第12回、48年の |
白羽 透(しらは とおる、 - )は、の民間天気史研究家である。気象資料の“読み替え”学として広く知られる[1]。
概要[編集]
白羽 透は、に生まれ、戦前から戦後にかけて古記録の天候記述を統計的に“翻訳”する方法を打ち立てた人物である。とりわけ、天気日誌に現れる「曇」「霧」「靄」などの語の意味を、発行機関の都合や用字慣習から逆算して読み替える手法で知られる。
彼の仕事は、いわば「気象」ではなく「記述」を研究対象とした点に特徴があった。結果として、当時の実務気象家が参照していなかった地方史料の層が、系の編纂事業にも波及したとされる。一方で、彼が作成した“透(とおる)式補正表”の恣意性が批判され、後年には「当たるから偉い」「当たらないから要警戒」という二つの陣営を生んだとも指摘されている[2]。
生涯(生い立ち/青年期/活動期/晩年と死去)[編集]
生い立ち[編集]
白羽は7月3日、の旧家に生まれた。家業は小規模な造酒であったが、当時の酒蔵では発酵温度の記録が重視され、白羽は幼い頃から帳簿の文字の癖を観察して育ったとされる。
の問屋が廃業した際、蔵から大量の手控え帳が出てきたことが転機になったという。白羽はその帳面に「霧日八回」「靄二度、但し冬至後」といった注があるのを見て、「天候は自然だけでなく、書く人の言葉でも動く」と早くに気づいたと語られている[3]。
青年期[編集]
、白羽は(当時の旧制)に進学し、同級生とともに町内の湧水の味を毎週記録する“学級気象係”を作った。ここでの調査は、驚くほど細かく「朝の比重 1.003」「昼の塩分ゼロ確認 3回」などの数字まで残っているとされる。
には、の古書店で『暦象要覧』の類書を手に入れ、語彙の対応表を自作した。特に彼は「靄」と「靄なき霧」を別語として扱い、同じ“霧”でも季節の“読まれ方”が違うと主張した。この点は、のちの透(とおる)式補正表の原型とされる。
活動期[編集]
に独学研究を正式化し、に入会した。会報で初めて発表されたのは「地方用字における天候語の位相差」であり、そこで彼は、同じ現象を指す語が平均で約ずれて理解されると推定したとされる。
、白羽は空襲で散逸したといわれる資料の代替として、周辺の寺院に残る読経記録を“夜間の大気状態”の代理指標に転用した。結果として、戦時中の食糧配給と併せた推定が当たったという逸話が広まり、20年代には地方紙でも取り上げられた。
また、白羽はの前身系統の担当者と非公式に交流し、資料編纂の段階で「曇」や「薄日」のラベル付けを見直す提案を行ったとされる。ただし、彼の理論が“実測の気象”より“行政の記録”に強く依存している点が、早い段階から問題視されてもいた[4]。
晩年と死去[編集]
、白羽は研究の総まとめとして『季節誤読と補正表の実務』を刊行した。彼はこの本で、透(とおる)式を「表である以上、表を作った呼吸も含めて読むべき」と記したと伝えられる。
に活動を縮小したのち、若手に対しては「当たる予報より、誤読の回数を数えよ」と説いたともされる。白羽は11月19日、で死去したとされ、死後、机の引き出しから鉛筆でびっしり書かれた「語彙の天気分布」が発見されたという。
人物(性格・逸話)[編集]
白羽は、温厚である一方、語の誤用に対しては異常な几帳面さを示した人物として描かれる。本人は「現象の正しさより、言葉が置かれた地面の方が正確である」と言っていたとされ、宴席でも料理の話題より天気の比喩を選んだという。
逸話として有名なのは、研究室代わりの納屋に温度計を並べ、毎日同時刻に同じガラスを拭いて“誤差の誤差”を消そうとしたことである。さらに、彼は紙の繊維方向まで記録していたと噂され、弟子の一人が「透先生、そこは天気じゃないです」と言うと、「言葉にも繊維がある」と返されたと伝えられる[5]。
ただし、この几帳面さは時に頑固さに転じ、側の編纂担当者が別の語釈を採用した場合には、数か月口を閉ざしたともされる。もっとも、口を閉ざす期間の方が研究メモは増えていたとされ、周囲は「沈黙が印税より安定した」と冗談を言ったという。
業績・作品[編集]
白羽の代表的な業績は、古記録の天候語を「観測」「伝聞」「行政要約」の三層に分けて解析する体系化である。彼はこの枠組みをと名づけ、語彙対応の表に加えて、語が出やすい機関タイプ(寺院・役場・商家・漁師)を細分化した。
作品としては、まずの冊子『霧の継承手続き』が挙げられる。これは霧という語を“継ぐ”側の人間関係まで追う内容で、当時の学会では珍しかったとされる。
次にの『曇日辞典(暫定第3版)』があり、収録語は、語釈の見出しだけでに及ぶと記されている。さらに、の『季節誤読と補正表の実務』、に刊行された『夜間天候の筆圧指数』などが続いた。
特に『夜間天候の筆圧指数』では、記録者が筆を強く押す夜ほど、主観的に「靄」を多用するとする仮説が提示され、疑似的な“身体要因”を気象史に持ち込んだ点が議論を呼んだ。
後世の評価[編集]
白羽の評価は二極化している。支持派は、彼が地方史料を体系化し、気象史研究の地平を広げた点を重視している。実務家の中には、彼の語釈表を用いることで、古資料の年代推定が平均で約改善したとする報告を引用する者もいる[6]。
一方、批判派は、補正が“現象の再現”というより“記述の物語化”に寄っているとして警戒している。特に、白羽が「靄」を“湿度そのもの”ではなく“湿度の語られ方”と定義したことが、恣意的な成分を増やしたとされる。
さらに、支持派が多用する「当たった」という語り口に対して、史料学の立場からは「当たる確率が高いのではなく、外れが統計に混入していないだけではないか」との指摘が出た。要するに、白羽の成果は有用であるが、万能ではない—という結論が、長い時間をかけて形成されたとされる。
系譜・家族[編集]
白羽家は、造酒の記録と帳簿文化を受け継ぐ家系として語られる。白羽の父は、母はであり、父は酒蔵の温度帳を厳密に付ける人物であったとされる。
白羽には二人の姉と一人の弟がいたとされ、姉たちは帳簿の筆跡を揃える係として関与したという(後年、白羽の補正表が“筆跡の癖”を含むのはこの影響ではないか、と推測されたことがある)[7]。
弟のは図書館司書になり、白羽の死後、手稿を整理してに寄贈したと伝えられる。家の墓は郊外の旧寺墓地にあるとされ、墓碑には「語を数えた人」と記されたとされるが、現地確認には至っていないとする証言もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田恵一『地方天候語彙の位相差:白羽透の補正理論をめぐって』気象史協会紀要, 1959.
- ^ 川端咲子『夜間天候の筆圧指数とその応用(第1報)』日本文書気象学会誌, Vol.12 No.3, 1963.
- ^ 朽木俊介『曇日辞典(暫定第3版)の書誌学的検討』図書史研究, 第4巻第2号, 1967.
- ^ F. K. Thornton『Re-Labeling Weather in Edo-Era Records』Proceedings of the International Weather Archive Society, Vol.7, pp.41-62, 1970.
- ^ 佐伯直人『季節誤読と補正表の実務:資料選択の倫理』史料研究, 第19巻第1号, 1974.
- ^ M. A. Thornton『On the Bureaucratic Bias of “Fog” Terms』Journal of Applied Climatography, Vol.3 No.1, pp.9-27, 1972.
- ^ 白羽透『霧の継承手続き』民間天気史叢書, 1939.
- ^ 白羽透『夜間天候の筆圧指数』長岡資料出版, 【昭和】47年(1972年).
- ^ 林田茂『気象史協会賞と受賞者の系譜』【気象史協会】会報, 1981.
- ^ A. Weatherly『Dictionaries of Overcast Days』Harbor Academic Press, 1968.
外部リンク
- 白羽透資料データベース
- 気象史協会 受賞者アーカイブ
- 夜間天候の筆圧指数 検索ポータル
- 透(とおる)式 補正表の写本館
- 長岡市 旧寺墓地史料