目玉焼きはソース派
| 成立地域 | 中世イタリア(ポー川流域を中心に口承) |
|---|---|
| 成立時期 | 14世紀後半 |
| 主要教義 | 半熟の白身をソースで“封じる”べきだとする |
| 対立派閥 | 塩派、のちに醤油派(日本)、ケチャップ派(アメリカ)が加入 |
| 活動形態 | 食卓での朗唱、競技的試食会、記譜された作法 |
| 象徴具 | 片手の銅スプーン(“封印匙”) |
| 影響範囲 | 家庭台所から港湾都市の商流まで |
| 衰退傾向 | 近代以降は娯楽化し、論争は“様式”として残存 |
(めだまやきはそーすは)は、で成立した食文化の対立派閥である[1]。のうち、塩よりもソースを正統とみなす立場として整理されたとされる[2]。
概要[編集]
は、のなかでも「塩は下ごしらえ、ソースは完成」とする規範を掲げた派閥である[3]。派の定義は単純であったが、実際にはソースの粘度、色調、投入のタイミングまで“儀礼”として細分化され、台所が小規模な行政区画のように運用されたとされる[4]。
歴史的には、港湾都市の台所と商人の味見が結びつく局面で広まり、ソースを扱う流通(酢・香辛・糖分)の変動に連動して勢力が増減したと推定されている[5]。このため、単なる好みの差ではなく、供給網と共同体の秩序をめぐる“食の政治”として理解されることが多い[6]。
一方で、教義の具体があまりに口伝的であったことから、各地で「ソース派」を名乗りつつ実態が異なる集団が生じ、結果として論争が長期化したとの指摘がある[7]。
背景[編集]
目玉焼き論争の発火点[編集]
起点とされるのは、14世紀末の近郊で開かれた“余熱競技”である[8]。当時、鶏卵は貴重であり、黄身が割れずに半熟を保てるかが評点の対象であったという[8]。ところが勝敗を左右するのが味ではなく“見栄え”に変わると、塩の白さを好む勢力と、ソースの光沢を好む勢力が競り合ったとされる[8]。
同時期に、船便で運ばれる香辛酢・甘味果汁の配合が一部の家門に集まり、ソース側が「黄身の熱を奪うのではなく抱きしめる」といった比喩を用いるようになった[9]。これに対し塩派は「熱を奪わぬものは塩の粒だけ」と反論し、両派の言葉の応酬が公開の場へ持ち込まれたと推定されている[9]。
なお、文書化の段階で、ソース派は“封印匙”という小道具を記号化し、儀礼の再現性を上げたとされる[10]。この象徴化が、後の急拡大につながったと見る研究者もいる[10]。
商流と儀礼の結婚[編集]
ソース派の成立が“歴史的必然”として説明されるのは、台所の素材がすなわち都市の物流に直結していたためである[11]。例えばの造船期には、酸味料と香辛が保存食の付随品として同時に仕入れられ、結果として「卵に回す余り」が発生したとされる[11]。余りが生じると、家内ではなく共同の試食会が増え、そこで勝ち筋がソースへ収束したと推定される[11]。
さらに、ソース派は投入量に数式的な目安を与えたと記録されている。記譜された作法では「卵1個につきソース3滴、ただし“縁の白泡”が見えたら+1滴」といった条件が列挙されたとされる[12]。この“条件付き滴下”が、守らない者を逸脱者として扱う口実になったとも指摘される[12]。
ただし、これらの数字は後世の編集で整えられた可能性があるとされ、一次資料の偏りがあるという説もある[13]。
経緯[編集]
成立期(14世紀後半〜15世紀前半)[編集]
ソース派は、北イタリアの市場で「味見の席札」を配布する慣行から固有名を得たとされる[14]。席札の色は、ソース派が“焦げ琥珀”と呼ぶ茶色、塩派が“白潮”と呼ぶ薄灰で区別されたという[14]。この色分けは、目玉焼きの見た目に忠実であったため、客の選好が“派閥選別”へ直結したと推定されている[14]。
また、衝突も小規模ながら発生したとされる。具体的には、ある年の市場記録に「封印匙の所持者が2名、無許可のソース投入が4回観測された」との記載があり、これが口論から騒動へ拡大した兆候であると解釈されている[15]。当該記録は“誰が書いたか”が不明であり、要出典となりがちな箇所でもある[15]。
それでも派は増え、食卓の儀礼が家庭内に定着したことで、15世紀前半には「日曜の目玉焼きは封印匙から始まる」といった言い回しが一部の地域で定着したとされる[16]。
拡散期(16世紀〜18世紀):中東経由の異説[編集]
16世紀に入ると、ソース派は地中海交易の噂とともに南下し、いったん領の港町へ“借用された作法”として伝わったと語られることがある[17]。ただし、この伝播は資料により矛盾が多く、「ソース派が持ち込んだのは甘味ではなく辛味の“泡立て”だった」とする説があり、研究者間で意見が割れている[17]。
一方で、対立はより制度的になったとされる。たとえばある年代の台所規約では、「派閥の色札が欠けている場合は勝敗判定を保留し、卵は鍋底へ3度戻す」といった手続が定められたと伝わる[18]。この条文は、味の優劣ではなく“手順の正統性”をめぐる統治であったと解されている[18]。
また、17世紀に入ると、ソース派は香辛酢を“誓約の液”と呼び始め、儀礼が宗教的言語を帯びたとの指摘がある[19]。しかし、それが本当に儀礼の深まりだったのか、編集者が後から宗教語彙に寄せたのかは確定していない[19]。
国際化(19世紀):海を越えた“味の移民”[編集]
19世紀には移民の食文化が加速し、ソース派の作法が「海外キッチンの言語」として翻訳されたとされる[20]。とりわけでは、ソース派の一部が“ケチャップ派”と混合し、赤い光沢を正義として掲げる変種が生じたという[20]。この合流が起きた背景として、港湾労働者の食事が短時間で済むことが重視された点が挙げられている[20]。
一方ででも、同時期に「醤油派」が“同じ問い”を別の文字で解いたとされる。伝承では、和食の醤油文化が強い地域で、目玉焼きが“即席の座敷料理”として振る舞われたことで、黄身に香りを重ねる発想が定着したと語られる[21]。この結果、ソース派は「液体の役割」を説明する必要に迫られ、以後は“封印”という比喩がより強調されたと推定される[21]。
なお、20世紀にかけて論争は娯楽化し、家庭内での小競り合いは「笑える方言」として保持されたとされる[22]。
影響[編集]
ソース派の拡大は、調味料の流通を押し上げたと考えられている。市販品の普及前、ソース材料は家庭ごとに異なり、その差が派閥差に直結していた。そこで市場側が「卵向けソース」を掲げることで、購買が派閥により誘導されるようになったとされる[23]。
また、共同体の意思決定にも影響が及んだとする見方がある。特に港町では、年1回の市場祭で最も完成度の高い目玉焼きを出した家門が“味の自治”を担うという慣行が形成され、ソース派がその選考に食い込んだと伝わる[24]。この祭は、必ずしも戦争の代替ではなかったが、衝突を食卓の勝負へ転換することで治安に寄与した可能性があるとする研究もある[24]。
さらに、論争は言語にも定着した。ソース派の信条は、比喩として「完了とは覆うことである」と要約され、口頭の標語として用いられたとされる[25]。なお、実際にこの標語が全国的に使われたかは確認が難しいものの、後世の料理書に類似表現が繰り返し現れるため、“型”が広く残ったと推定されている[25]。
研究史・評価[編集]
学術的整理と“数滴の学”[編集]
は、食文化研究の分野で「微視的規範の社会学」として扱われることがある。ソース派に関しては、滴下量や手順の条件が多く記録されたことから、計量文化の先駆事例と見なす議論がある[26]。たとえばは、作法の条件分岐を“家庭内アルゴリズム”と呼んだとされる[26]。
ただし、数値が後世の整形の可能性を孕む点については注意が必要である。研究者は、19世紀の英語訳レシピにおいて「3滴」という数が固定化されていることを指摘した[27]。翻訳の都合で“覚えやすさ”が優先された可能性があるとされる[27]。
このように、ソース派の教義は確かに存在したとされる一方で、教義の“形”が時代によって調整されてきた可能性が高いと評価されている[28]。
日本・アメリカでの再解釈[編集]
日本ではの対抗が強く、ソース派が“封印”の比喩を日本語の感覚に合わせて説明し直したと考えられている[29]。一部の地方食文化研究では、「ソース派が“甘みの入口”として語り始めたことで、醤油派との論争が長持ちした」という解釈がある[29]。
一方、アメリカではがソース派の一部を吸収し、「色の統一」を優先する方向へ傾いたとする説が有力である[30]。この変化は、食器の多様化(小皿・ディップトレー)と同時期であったとされるが、因果関係は断定できないとされる[30]。
以上より、目玉焼きは同じ素材でも“社会が読む記号”として変容したと結論づける研究が多い[31]。
批判と論争[編集]
ソース派には、味覚の優劣よりも儀礼の遵守を重んじる姿勢があるとして批判が出たとされる。とくに、ソースの銅スプーンでの“封印”を拒む者に対し、別の派閥が「不完全な卵」と決めつける言説が広がったことが問題視されたという[32]。この問題は、食卓の対立が家庭内の上下関係へ接続した可能性として論じられている[32]。
また、地域差による誤解も多かった。たとえば中世イタリアでは“ソース”が酢と果汁を中心としたが、後世の読者はそれを単なる甘味調味料と捉えることがあったと指摘されている[33]。その結果、誤った想像でソース派が単純化され、論争が“宗教戦争の食版”のように語られてしまうことがあるという[33]。
さらに、現代の擬似的な論争(SNS的な言い争い)において、ソース派と塩派の区別が急速に崩れ、「全部好き派」が勝ちを奪う局面が観測されたと報告されている[34]。この現象については、歴史研究の観点からも“派閥の死”ではなく“派閥の翻訳”と見るべきだとの反論がある[34]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ カルロ・ベッリーニ『黄身の封印:中世台所規範の数滴論』リグリア大学出版, 2009.
- ^ マルグリット・A・ソーントン『Factions of the Morning Pan: A Quantitative History』Oxford Palate Studies, 2016.
- ^ ジャンニ・トレヴィーザ『ポー川流域の卵儀礼と商流』ヴァルドゥッソ出版, 2012.
- ^ ルッカ・ファルネーゼ『色札文化史:焦げ琥珀と白潮』サン・マルコ研究叢書, 2018.
- ^ Elena di Marra『The Sauce Ledger of the Adriatic』Vol.3, Ravenna Academic Press, 2020.
- ^ A. R. Whitcomb『Condiments and Civic Order in Port Cities』The Journal of Domestic Economies, Vol.12 No.4, pp.114-131, 2013.
- ^ ハナ・モレノ『台所行政の前史:儀礼の手続化』筑摩食史研究所, 第1巻第2号, pp.33-57, 2021.
- ^ J. M. Kessler『From Dip Trays to Doctrines: Modern Rewrites of Medieval Cuisine』Cambridge Spoonwright Review, pp.201-219, 2017.
- ^ 山口清之『卵と液体の政治:醤油派の成立条件』東京家政学会, 2011.
- ^ P. Rossi『The Mirrored Spoon: A Study of Culinary Compliance』(題名が一部誤植されている可能性がある), Florence Gastronomy Press, 2007.
外部リンク
- 封印匙研究会アーカイブ
- 目玉焼き論争年表(台所版)
- 中世イタリア食文化資料室
- 港町ソース流通史データバンク
- 醤油派・対照史料コレクション