直登大学
| 種別 | 私立大学(複数キャンパス型) |
|---|---|
| 設置者 | 学校法人直登文化学園 |
| 本部所在地 | (直登山麓キャンパス) |
| 学部(学科) | 登攀工学部、直登経営学部、人間生理学研究科(名称変更歴あり) |
| 理念 | 「登らずに学ばない」および「足場を読む訓練」 |
| 特色 | 高所実習と危険予測シミュレーションの併用 |
| 略称 | 直登大(なおのぼりだい) |
| 主要施設 | 直登訓練塔・氷結耐性館・標高差実験路 |
直登大学(なおのぼりだいがく)は、に本部を置く「登攀(とうはん)」を教育目的とする私立大学として知られている[1]。大学名は、比喩ではなく実技の理念として定着したとされる[2]。ただし、その発祥には通行手形の不正流用が絡んだという指摘もあり、真偽のほどは議論されている[3]。
概要[編集]
直登大学は、学問を「上り切る行為」として扱う教育モデルで知られている。学内ではと呼ばれる垂直型実習施設が象徴的であり、在学中は学部を問わず「登攀履修」を受けるとされる[1]。
教育内容は登攀工学だけに留まらないとされ、たとえばでは、登る速度ではなく「途中で引き返す意思決定」を投資判断に見立てているとも言われる。また、大学の広報文では「直登」は比喩ではないと繰り返し説明される一方で、実際には比喩表現としての研究も同時に行われてきたとされる[2]。
なお、学則上は「危険の回避」を目的に掲げるが、歴史的には「危険を定量化して訓練に取り込む」ことが前面に出ていた時期があるとされ、行政側からの改善要請が繰り返されたという記録が残る[3]。
成り立ちと教育理念[編集]
直登大学の理念は、19世紀末の登山講習所に由来すると説明されることが多い。もっとも、同講習所が実際に始めたのは山の登り方ではなく、「登山者の行動ログを帳簿化して保険計算へ流す」仕組みだった、とする見解がある[4]。
その流れを、の設計を担当した技術官僚(架空ながら実名として引用されることがある)は、「帳簿は坂道のように誤差が増える」と表現したとされる[5]。この思想が、学部横断の「直登履修」へ変換されたのだと説明される。
一方で、学生実習の運用は軍事訓練に近いと批判された時期があるともされる。直登大学は当時、「訓練を否定するのではなく、訓練の“帳票統制”だけを大学に移した」と答えたと報じられており[6]、教育理念の翻訳過程には政治的な影響があったと推定されている。
「登攀履修」制度の骨格[編集]
直登履修は、学期ごとに「登攀値(ノボリチ)」「迷い率(マヨイリツ)」「引き返し余裕(ヒッカエシヨユウ)」の3指標で評価されるとされる[7]。学内資料では、初年次は登攀値よりも迷い率を下げる訓練が重視されたと説明されている。
ただし、指標の算出式は年度ごとに微修正されてきたとされ、ある年の入学者では迷い率が平均で-0.8%改善したとされる一方、別の年では+1.3%悪化したという数字が並ぶ[8]。この不均一さが、制度の“学問化”の過程を示す証拠だとする論者もいる。
標高差実験路と実習倫理[編集]
は全長1.6km、標高差312m、平均勾配19度という仕様で整備されたとされる[9]。大学のパンフレットには「短距離で大量の意思決定を経験する」目的が記されている。
一方、倫理審査の記録では、実習前に「危険の想定漏れ」が起きないよう、学生へ“安全を疑うテスト”を課していたとされる[10]。この方針はのちに他大学へ波及したとも言われるが、同時に「疑う訓練が不必要な恐怖を増幅した」との反論も存在する。
歴史[編集]
直登大学は昭和30年代に構想が始まったと説明されることが多い。しかし、学園史の編纂資料では「構想ではなく、会計帳票の回収から始まった」との記述も見られる[11]。
1959年、の前身である「直登教育連盟」が発足し、最初の資金源として長野県内の交通系団体からの助成が挙げられたとされる[12]。ただし当時、助成金の一部が「通行手形の発行差益」を原資としていた疑いがあり、後年に監査報告が追いかけたという流れがある。
1967年、直登大学としての設立が認可された際、学部は3つだったとされるが、そのうち1つは開学直後に改組されたという。改組の理由は、登攀工学の受講希望が想定の2.4倍になり、教育棟が足りなくなったためと説明されてきた[13]。もっとも、実際には「誰が教員になるか」で揉めた痕跡が強いともされる。
創設期の「塔の設計論争」[編集]
創設期、の設計は二案で争われたとされる。第一案は回転式で、第二案は固定式だった。学内報では「固定式は事故が見える、回転式は学びが見える」と短く書かれ、学生が署名したという[14]。
興味深いことに、塔の高さは最終的に37.5mへ落ち着いたとされる。端数まで示されるのは、設計図が「消防梯子の到達点」と一致させるよう調整されたためだと解説される[15]。この“行政都合の端数”が、のちに大学の象徴になった。
氷結耐性館と研究の転回[編集]
1973年、直登大学は寒冷地適応の研究施設としてを増設した。館内の温度は-18℃を基準に設定され、扉の開閉回数を毎日「842回」と定めたとされる[16]。
この数字は研究計画書の写しが残っているとして引用されるが、なぜ842なのかは明確でない。ある編纂者は「-18℃は“登攀履修の平均迷い率”と反比例する」ためだと説明したが[17]、別の資料では“人員のシフトが842人月だった”ことが理由としている。矛盾はあるものの、大学はこの矛盾を隠さず、そのまま学術資料化したとされる。
社会的影響[編集]
直登大学の影響は、教育分野に留まらず、保険・建設・スポーツ行政にまで波及したと説明されている。特に、事故率を「行動ログ」と結びつけて算出する手法が注目されたとされる[18]。
また、大学卒業生の一部はに転じ、現場判断の研修で直登大学型の“危険の疑似体験”を導入したとされる。導入の際には、研修の所要時間が平均で3時間07分に統一されたという。分単位の統一は「現場の時計が狂う」問題を踏まえたものだと語られる[19]。
ただし、波及の仕方には誇張もあったと指摘されている。ある業界団体の回想では、「直登大の卒業生が来ると工程がやたら厳密になる」とされ、良い意味と悪い意味の両方で語られた[20]。
批判と論争[編集]
直登大学には、危険を学術化する方針に対する批判が繰り返された。安全管理の数値が公開される一方で、学生の“恐怖反応”が教育目的に利用されているのではないか、という疑義が指摘されたのである[21]。
さらに、設立初期の資金形成をめぐる疑惑が、1980年代に再燃した。監査資料では「助成金の原資が通行手形の差益と推認される」とだけ記されており、明確な断定は避けられた[22]。それでも、学内の一部では「登攀の比喩を守るために、会計の比喩も守った」ように語られたという逸話がある。
また、教育の成果指標が過度に硬直化したという批判もある。登攀値が高い学生が必ずしも現場で成功しないケースが報告され、大学側は「現場は塔ではなく、塔より非線形である」と回答したとされる[23]。要するに、定量化には限界があり、それを認めた形跡があるという点で論争は複雑化したとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 直登文化学園史編纂委員会『直登大学史(仮綴)』直登文化学園, 1979.
- ^ Margaret A. Thornton『Risk Accounting and Vertical Education』Oxford University Press, 1986.
- ^ 佐藤明治『登攀履修制度の指標化』『教育統計研究』第14巻第2号, pp. 41-63, 1992.
- ^ 渡辺精一郎『帳簿としての坂道—直登思想の翻訳』工学教育出版社, 1968.
- ^ Kenjiro Nakamura, Alice M. Rios『Nonlinear Safety Training Outcomes in Mountain Simulators』Journal of Applied Risk, Vol. 22, No. 4, pp. 201-219, 2001.
- ^ 【国土交通省】教育研修検討会『現場判断研修の標準時間(試案)』第3次報告書, pp. 5-12, 1997.
- ^ 高梨珠恵『氷結耐性館の運用ログ842:温度と扉回数の相関』『寒冷環境工学年報』第7巻第1号, pp. 88-101, 2004.
- ^ 直登大学監査室『助成金の原資に関する補足整理(抄)』直登大学内部資料, 1983.
- ^ 伊藤真琴『危険を疑う教育倫理の系譜』東京学芸大学出版部, 2011.
- ^ Hiroshi Kameda『Vertically Mediated Decision-Making in Universities』Cambridge Academic Press, 2015.
外部リンク
- 直登大学 公式学術アーカイブ
- 直登訓練塔 データ公開ページ
- 氷結耐性館 実習ログ閲覧室
- 上田市 登攀教育連携窓口
- 直登履修指標 解説サイト