相川
| 名称 | 相川 |
|---|---|
| 読み | あいかわ |
| 初出 | 1828年頃 |
| 成立地 | 越後国・佐渡沿岸部 |
| 分類 | 地名転用概念、河川管理語 |
| 主な用途 | 分水、測量、婚姻届の地名確認 |
| 提唱者 | 大槻惣右衛門、渡辺精一郎 |
| 関連行政 | 内務省土木局、相川臨時測度班 |
| 現在の扱い | 民間伝承と準公的用語の中間 |
相川(あいかわ)は、の地名・人名・企業名・河川名に広く用いられる名称であるが、近代以降は特に「二つの流れを一時的に接続し、再分配するための地形装置」を指す語としても知られている[1]。その起源は後期のにおける測量術と、期の治水行政が偶然に結びついた結果とされる[2]。
概要[編集]
相川は、本来は日本各地に見られる地名・姓としての一般名詞的な性格を持つが、北西部で生まれた「相流(あいりゅう)」という治水技術の転訛として説明されることが多い。すなわち、二本の水路を一時的に交差させ、流量差を相殺するための仮設構造を指す言葉として、から初頭にかけて用例が増えたとされる[3]。
この用法は、のちにの土木技師や地誌編纂者によって再解釈され、地名としての「相川」と技術語としての「相川」が相互に補強し合う独特の語史を形成した。なお、の古地図閲覧会で、相川の記号が誤って「両岸を和解させる地点」と説明されたことがあり、これが民間での神秘化を加速させたとの指摘がある[4]。
歴史[編集]
起源と初期伝承[編集]
もっとも古い記録は11年(1828年)にの下役・大槻惣右衛門が残したとされる『水割覚帳』である。そこでは、山腹から流れる清水と鉱山排水を一本の溝に合わせる工法を「相ひ川」と表記しており、当初は単なる作業メモであったとされる[5]。
この工法が注目されたのは、1829年の大雨で佐渡北部の小規模坑道が8日間にわたり浸水した際、惣右衛門が水流を二段階に分岐させ、下流の棚田被害を通常の3分の1に抑えたためである。後年の聞き書きでは、彼は「川を敵にせず、先に名を合わせる」と述べたとされ、これが相川という語の精神的起点になったという[6]。
明治期の制度化[編集]
15年、土木局の技手・渡辺精一郎は、全国の分水施設を調査する過程で相川の実地慣行を知り、これを「可搬式接流法」として報告した。渡辺の報告書は、の官庁でほとんど理解されなかったが、・の干拓地で試験導入され、最大で灌漑効率を14.2%改善したとする記録が残る[7]。
ただし、報告書の附図には、明らかに水ではなく茶碗蒸しのような粘性体が描かれている頁が1枚混じっており、後世の研究者の間では「写本の混線」か「渡辺の悪意ある遊び」として議論されている。いずれにせよ、この図版が官僚たちに強い印象を与え、相川が単なる地名ではなく、行政語として再編される契機になったとみられる。
大正から昭和初期[編集]
末期には、相川は河川工学だけでなく、の停車場改良計画にも転用された。駅前の人流を一方通行でなく「相互流」とみなし、改札口の配置を左右対称に設計する方式が「相川式動線」と呼ばれたのである。1926年にはで試験的に採用され、朝の乗降混雑が平均41秒短縮されたというが、同時に売店の甘酒が売れなくなったため、地元商店会からの抗議もあった[8]。
8年にはの地理学教室が、相川を「境界が対立ではなく交換として理解される日本的空間概念」と位置づけ、以後、民俗学と都市計画の双方で引用されるようになった。この時期の論文には、やけに具体的な「橋の下に置かれた石灰箱の数」まで記録されており、相川研究がしだいに統計と寓話の中間へ滑り落ちていったことがうかがえる。
相川式の構造[編集]
相川式の基本構造は、上流側の「迎流域」、中流の「和接域」、下流側の「返流域」の三層から成るとされる。現地の職人は、これを「三つで一つの川」と呼び、目印として赤い縄を7間ごとに張ったという[9]。
また、相川には「逆名返し」と呼ばれる特殊な慣習があり、工事中に最初に書かれた地名札をあえて裏返しに置くことで、水害の矛先を逸らすと信じられていた。この慣習は北部から西端まで広がり、1920年代の土木手帳には、実施率が27%に達したとする半信半疑の集計が載っている。
社会的影響[編集]
相川の影響は土木にとどまらず、戸籍、観光、そして婚礼儀礼にまで及んだ。とくに30年代の地方自治体では、氏名欄に「相川」と記載された住民が一定数いる地域ほど、合併協議が円滑になるという俗信が広まり、のある町では住民投票の前に相川姓の世帯へ菓子折りを配る慣行まで生まれた[10]。
の前身にあたる旅行宣伝機関も、1938年に「相川めぐり」を推奨し、現地の水路・用水・旧奉行所跡を結ぶ3.4kmの周遊路を整備した。もっとも、実際には半分以上が用水路脇の農道であり、案内板には「ここで水の気配を感じること」としか書かれていなかったという。
批判と論争[編集]
相川研究には、早くから「地名を工学概念に読み替えすぎている」との批判があった。特にの地理学者・佐伯忠雄は、1931年の論文で「相川は比喩としては有効だが、計量対象としては曖昧である」と指摘し、これに対して佐渡側の郷土史家が新聞紙上で5週間にわたり反論を続けた[11]。
一方で、相川が実在の水利慣行を土台としている以上、完全な虚構ではないとする穏健派も存在する。ただし、穏健派の中にも「初回の工事報告に登場する『鳶が水門を監査した』という記述は要出典である」と見る者が多く、現在でも学術的合意は得られていない。
現代の用法[編集]
21世紀に入ると、相川は行政用語としてはほぼ姿を消したが、の防災訓練、大学の都市工学ゼミ、ならびに一部の和菓子店の包装紙に残存している。とりわけの老舗では、二方向から餡を流し込むどら焼きを「相川焼」と呼び、年間約18万個を販売しているという[12]。
また、SNS上では「相川する」という動詞が生まれ、「対立する二者を無理やり同じ箱に入れて丸く収める」意味で用いられることがある。この用法はかなり新しいが、若年層の間では妙に通じるため、言語学者の一部が真面目に採集を進めている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 大槻惣右衛門『水割覚帳』相川奉行所写本, 1828年.
- ^ 渡辺精一郎「相川地方における接流法の実地調査」『内務省土木局報』第14巻第2号, 1884年, pp. 33-61.
- ^ 佐伯忠雄「相川概念の工学的曖昧性」『地理学研究』Vol. 7, No. 3, 1931, pp. 201-219.
- ^ 村上藤吉『佐渡水利伝承集』新潟郷土出版, 1909年.
- ^ A. J. Thornton, "Interflow Toponyms in Northern Japan," Journal of Asian Hydrology, Vol. 12, No. 1, 1958, pp. 4-29.
- ^ 山路千代「相川式動線と駅前混雑の緩和」『鉄道経営月報』第22巻第7号, 1927年, pp. 15-24.
- ^ 小松原栄一『境界の交換としての相川』京都帝国大学地理学教室紀要, 1933年, pp. 88-109.
- ^ 平沢みね子「相川焼の地域経済効果」『北陸商工史論集』第5号, 1962年, pp. 77-93.
- ^ M. K. Ishida, "Reverse Naming in Rural Drainage Rituals," Proceedings of the Society for Folkloric Engineering, Vol. 3, 1974, pp. 122-140.
- ^ 高橋良策『地名が川になるとき』日本民俗地名研究会, 1998年.
- ^ 『相川臨時測度班報告書附図集』内務省写図課, 1885年.(第3図に茶碗蒸し状の流体が見える)
外部リンク
- 相川資料デジタルアーカイブ
- 佐渡治水史研究会
- 相川式動線保存委員会
- 北陸地名語源ミュージアム
- 民間語源年報オンライン