秋山気清の後継者問題
| 対象 | 鐘鳴らし(NHK系公開行事の打楽器担当)の後継 |
|---|---|
| 時期 | 1957年-1969年 |
| 地域 | 東京・大阪・福岡の放送拠点周辺 |
| 中心人物 | 秋山気清、候補者群(山里律、神谷栄介、李成斗ほか) |
| 争点 | 演奏技術の基準、交代手続、出演契約の継承 |
| 関与組織 | 日本放送協会鐘響部、東京藝大打楽器研究室 |
| 結果 | 「共同鐘奏」方式の暫定導入と、監査委員会の常設化 |
秋山気清の後継者問題(あきやま きせい の こうけいしゃ もんだい)は、からにかけての公開行事をめぐり発生した、打楽器奏者と放送枠の継承に関する論争である[1]。
概要[編集]
は、東京藝術大学出身のプロ打楽器奏者である秋山気清が、長年担当した公開行事「ど自慢の鐘」を引退した後、次の「鐘を鳴らす者」をめぐって生じた制度的な不整合と社会的な熱狂の記録である[2]。
この問題は単なる人事ではなく、音色の規格化、舞台転換の秒数、録音許諾の継承といった放送技術の論点が、いつの間にか「正統性」の争いへと変質していった過程に特徴がある[3]。
当時の一次資料では、候補者の指名会議が「四十八分」「確認回数は十三」「返答保留が二度」といった、なぜか時計の針まで書き込まれた形で残されているとされ、研究者の間で「時計裁判」とも呼ばれた[4]。なお、当該会議が実際にそのような秒単位の記録を残したかについては、回想録側に誇張があるとの指摘もある[5]。
背景[編集]
秋山気清は東京藝術大学打楽器科第七期の出身であるとされ、卒業後は「鐘の減衰率」を研究室の標準表に合わせる調律法を磨いたと伝えられている[6]。彼がNHK系の公開行事で鐘を鳴らし始めたのは代半ばで、初期には鐘撞き(しゅもく)を「左から右へ角度十七度」と決める独自の手順が評判となった[7]。
ところが、ど自慢の鐘が人気を得るにつれて、視聴者は音色を「人格の延長」と捉えるようになった。すなわち、鐘の間(ま)、余韻の長さ、舞台裏の所作が、秋山の人柄と同一視されるようになったのである[8]。
一方で放送組織側には、継承のための規程が存在したが、規程は「演奏者の交代」を想定しておらず「同一奏者の連続出演」を前提として書かれていたとされる[9]。このため引退が現実味を帯びた以降、運用と規程のねじれが露出し、結果として「後継者問題」が社会の言葉として定着したと考えられている[10]。
特に大きかったのは、地方会場(東京以外)の鐘が「輸送中の微振動」を受けるため、同じ奏者でも音が変わるという事情である[11]。この変化をどう扱うかが、音色の正統性という争点を呼び込んだとする説が有力である[12]。
東京藝術大学と音色規格化の起点[編集]
問題の学術的な起点として、の打楽器研究室が作成した「減衰率・反射成分・高音残響」の三表が挙げられることが多い[13]。研究室は本来、舞台での再現性向上を目的としていたが、放送局がそれを「視聴者が求める同一性」として採用したことで、規格が一種の権威へ転化したとされる[14]。
なお、この三表は当初「十年で更新」とされていたにもかかわらず、以降の改訂が途絶えたと記される資料がある[15]。一方で、更新停止は秋山の不在時にだけ起きたという反証もあり、資料間の矛盾が後の批判論調につながったと指摘されている[16]。
NHK鐘響部の“前提不在”規程[編集]
放送側では「鐘鳴らしは象徴であり、手続は後から整う」という運用が暗黙にあったとされる[17]。その結果、「奏者交代の際の試験回数」「予備奏者の数」「差し替え時の謝意表現」といった細目が、制度上は空欄のままだったという[18]。
引退直前の、関係者が埋めた空欄のうち一部が、後に「恣意的」であると問題化した。たとえば「試験は七回まで」という文言が、どの録音種別(生放送/録画/回線テスト)に対応するかが明記されていなかった点が、のちの混乱を助長したとされる[19]。
経緯[編集]
秋山気清が引退の意向を固めた、最初の動きとして候補者の予備審査が行われたとされる。候補者には東京会場の“鐘番枠”に加え、大阪・福岡の応援奏者からも選抜がなされ、最終的に三名が「本番候補」として扱われた[20]。
しかし審査は、演奏のうまさだけでは決まらなかった。むしろ、鐘の打面角度、手首の戻し速度、立ち位置の床マークからの距離(当時は「中心から二十八センチ」と書かれることが多い)といった、身体動作まで評価される方向へ傾いた[21]。
この評価の軸をめぐって、候補者の一人である山里律が「同一音色は不可能」と主張し、代わりに“聴き手が違いを許す設計”を提案した[22]。一方で別の候補、神谷栄介は「許すための基準が必要」であるとして、規格表を根拠に“許容範囲の数値化”を強く求めたと記録される[23]。
さらに追い打ちになったのが、放送枠の契約更新がに切れるという事務上の事情である[24]。奏者の交代手続を遅らせるほど、制作側の運用コストが積み上がると見込まれ、結果として選考が“短期決戦”の形に圧縮されたとされる[25]。
その結果として、最終案は「完全な後継者」ではなく、三週ごとのローテーションを含む“共同鐘奏”方式に落ち着いたとされる[26]。ただし、共同鐘奏の開始日については、資料によってとで食い違うとされ、研究者は“鐘番は一度だけ約束を破った”という比喩で説明する場合がある[27]。
選考会議の“奇数偏重”と時計裁判[編集]
選考会議では奇数項目が優先されたと伝えられる。たとえば審査シートは「五項目」「七項目」「九項目」の三種類があり、どの表を採用するかで結論が変わったとされる[28]。
当時の傍聴記録には、関係者が会議室の壁時計を指して「針がずれたら音もずれる」と言ったとされる一文がある[29]。この“鐘の理屈と時計の理屈が結びつく”エピソードが、後に当該問題を“時計裁判”と呼ばせたと考えられている[30]。
なお、壁時計のメーカー名が「Kuroshio(黒潮)」と記される資料があるが、同社がその時期に日本国内で展開していたかは不明であり、あえて誤植を含む回覧があった可能性も指摘されている[31]。
海外奏者をめぐる“音色の国境”論[編集]
議論には海外の奏者の参加が絡んだともされる。たとえば候補者の一人として李成斗(イ・ソンドゥ)という名前が挙げられ、彼が「同じ鐘でも文化的聴取の癖が違う」と述べたとされる[32]。
これに対し、放送側は「視聴者の慣れは統計で補正できる」と応じたとされるが、その“補正”の根拠となる視聴データの取得方法が記されておらず、のちに批判の的となった[33]。
一方で、この国境論が実際にどこまで議論されたかは、会議録の頁番号が突然欠けているため判然としないとする見解もある[34]。ただし欠けた頁の存在が、逆に当時の熱量を示す材料になったとする立場もある[35]。
影響[編集]
秋山気清の後継者問題は、引退後の個人をめぐる争いにとどまらず、日本の放送文化に「象徴の継承」という新しい課題を刻んだと評価されている[36]。とりわけ共同鐘奏方式の導入は、音色の多様性を制度が受け止める最初の試みとして語られた[37]。
その波及として、に制作現場へ導入された「鐘響監査委員会」は、録音の減衰率を定期的に点検し、基準逸脱時には“差し替えではなく再説明”を行うよう求めたとされる[38]。ここでの再説明は、視聴者への謝意文の文体にまで及び、「回線テストの都合である」という表現が統一されたと伝えられている[39]。
さらに、音色をめぐる視聴者の記憶がデータ化されるようになった。報告書では「平均視聴者が差異に気づくまでの再生回数は十二回、ただし初回生放送に限ると三回である」といった数値が出ているとされる[40]。この“三回”は一部の研究者により過大であると疑われたが、少なくとも制作側の議論が数字で動き始めた象徴として引用され続けた[41]。
なお、共同鐘奏が長期化すると「象徴が薄まる」とする不安も広がった。そこで委員会は「毎回同じ所作、ただし音は同じでなくてよい」という方針を採用し、所作だけは厳密に統一する方向へ舵を切ったと記されている[42]。この方針が、のちの“儀礼の設計”という概念に繋がったとされる[43]。
訓練カリキュラムの誕生(鐘響保安課程)[編集]
監査委員会の設立と同時に、鐘鳴らしの訓練が課程化されたとされる。カリキュラムは「基礎二十時間」「公開リハーサル十五回」「地方送出の耐性テスト三回」で構成されたとされ[44]、合格基準には“右手首復帰角度の許容誤差が±2度”のような値が入っていたと報告される[45]。
ただし、復帰角度の±2度が計測器に基づくのか、経験則によるのかは資料で分岐があり、学術誌では“経験値を数式風に書いた”という批判もあった[46]。それでも数値化が普及したことで、後続の放送技術職が「測定できるものは測る」という価値観を持ち込む契機になったと考えられている[47]。
視聴者の“音色記憶”市場化[編集]
もう一つの影響は、視聴者の記憶が一種の商品価値を持つようになった点である。地方局の周辺では、鐘の余韻を録音した「追憶ディスク」が頃から販売され、売上の内訳が「余韻長別(A=1.8秒、B=2.1秒、C=2.5秒)」のように分類されたとされる[48]。
この分類は実際には個別機材の差が大きいはずであるが、「気清の余韻に近いほど人気」といった説明がなされたとされる[49]。結果として“誰が鳴らしたか”だけでなく、“どう鳴ったか”を追う文化が定着し、後の放送音響の商業化に繋がったとの見方がある[50]。
研究史・評価[編集]
研究史では、秋山気清の後継者問題を「放送音響の儀礼化」と捉える立場と、「職能継承の失敗」と捉える立場に分かれる傾向がある[51]。前者は、象徴としての鐘が制度設計に回収されたことを重視し、共同鐘奏を“象徴の分散”として肯定的に評価する[52]。
後者は、そもそも規程が空欄だったことを根拠に、継承失敗の典型として論じる。とくに「交代の試験回数」だけが会議録では妙に細かく、交代の評価基準(誰が採点したか)が不明瞭である点が問題視されている[53]。
また、社会学的には、視聴者が音色に道徳的意味を読み込むようになった経路が分析されてきた。視聴者が鐘を「気清の代替可能な存在」と見なした瞬間、継承は単なる技術問題ではなく“裏切りの恐怖”として立ち上がったとする説がある[54]。
さらに、評価の中で最も繰り返し引用されるのが「共同鐘奏の三週ローテーションが、結果として視聴者の抗議を“分散”させた」という指摘である[55]。この指摘は一部で“都合のよい物語”と批判されたが、委員会報告書が実際に抗議件数を「週次で平均化」して提出しているため、完全な否定には至っていない[56]。
批判と論争[編集]
最大の批判は、後継者の選定が公平性を欠いた可能性がある点である。特に「試験七回まで」という文言が、録音種別に紐づいていなかったため、関係者が解釈で得をしたのではないかと疑われた[57]。
また、視聴者データの扱いについても論争がある。平均視聴者が差異に気づくまでの再生回数が「十二回」とする報告に対して、録音品質(マイク距離・回線遅延)の差を無視していると指摘される[58]。一部の論文では「数字が多いほど事実に見えるが、実験設計が薄い」と要約されている[59]。
さらに、候補者李成斗の位置づけに関しては、参加の経緯が曖昧であるとされる。会議録の頁が欠けているという理由で、存在そのものが疑われることもあったが[60]、同名の奏者が別行事で登場しているという“名寄せ”の手続が後年示されたとされる[61]。
このように、秋山気清の後継者問題は、音響技術と制度設計のあいだにできた空白を、熱狂が埋めてしまった事例として議論され続けている[62]。
“鐘の誤差”は誰の責任か[編集]
共同鐘奏により音色が揺れること自体が免責されるようになった結果、誤差の責任主体が曖昧になったとの批判がある。監査委員会は「所作が同じなら許容」としたが[63]、視聴者は必ずしも所作を聴いていないため、という反論が提示された[64]。
この論点は、のちの放送現場で「象徴に合わせるのか、音に合わせるのか」という問いに変換されていったとされる[65]。
誇張された回想録と“要出典”地帯[編集]
問題の当事者が残した回想録には、当時の会議が“深夜二時に始まり、途中で鐘が鳴って中断された”といった逸話が載っているとされる[66]。もっともこの“鐘が鳴る”場面は録音も監査も残っていないため、要出典を求める声が強いとされる[67]。
一方で、回想録がもつ物語性が、制度を理解するための手がかりになるという見方もある。つまり、事実の真偽よりも、当時の関係者が何を重視していたかを示す資料として読まれる傾向がある[68]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 村瀬玲子「象徴としての鐘:秋山気清以後の聴取行動」『放送社会研究』第12巻第3号, 1969年, pp. 41-63.
- ^ Caldwell, James R. “Spectral Decay and Audience Memory in Japanese Broadcast Rituals”『Journal of Applied Aural Studies』Vol. 7, No. 2, 1972, pp. 91-118.
- ^ 秋野政彦「鐘響監査委員会の成立過程」『放送技術年報』第4巻第1号, 1970年, pp. 15-29.
- ^ 渡辺精一郎「打楽器訓練の数値化と身体技法」『東京藝大紀要 音楽学編』第19巻第2号, 1968年, pp. 77-104.
- ^ 李英淑「国境を越える音色論:李成斗と議事資料の検討」『東アジア放送史論集』第6号, 1981年, pp. 203-226.
- ^ 神谷慎司「共同鐘奏方式の運用とローテーション設計」『メディア・プロセス工学』第9巻第4号, 1975年, pp. 55-76.
- ^ Eldridge, Mara “The Clockcourt Metaphor: Why Scheduling Became Legitimation”『Media Ethics & Procedure』Vol. 3, Issue 1, 1980, pp. 1-23.
- ^ 山里律「回想:七回試験の空欄」『打楽器奏法と現場制度』私家版, 1979年, pp. 9-34.
- ^ 佐久間隆「音響謝意文の文体統一と視聴者心理」『放送文書学研究』第2巻第2号, 1983年, pp. 120-141.
- ^ (誤った書名の)田村誠「秋山気清の後継者問題:完全版」『NHKアーカイブ叢書』第1巻, 1965年, pp. 1-300.
外部リンク
- 鐘響アーカイブ(架空)
- 東京藝大打楽器研究室・デジタル標準表(架空)
- 放送音響監査委員会・資料閲覧室(架空)
- ど自慢鐘余韻データベース(架空)
- 時計裁判メモリアルサイト(架空)