空中に浮遊した水死体
| 名称 | 空中に浮遊した水死体 |
|---|---|
| 別称 | 空懸死体、湿気上昇遺体、浮屍 |
| 初出 | 1898年ごろ |
| 主な発生地 | 東京湾岸、瀬戸内海沿岸、濃霧地帯 |
| 関係分野 | 気象学、法医学、民俗学 |
| 提唱者 | 松浦清介、E. H. ウィントンら |
| 特徴 | 遺体が水面ではなく空中に一定時間静止して見える |
| 公的扱い | 一部の港湾検疫記録にのみ記載 |
| 研究機関 | 帝都湿気現象研究会 |
空中に浮遊した水死体(くうちゅうにふゆうしたすいしたい)は、やで水死した遺体が、特定の気圧条件と湿度勾配により一時的に空中へ持ち上がって見える現象、またはそれを記録した上の存在である。明治末期から大正期にかけての沿岸部で報告が相次ぎ、後にとの境界領域に位置づけられるようになったとされる[1]。
概要[編集]
空中に浮遊した水死体とは、溺死した遺体が埋葬前の一時期に空中へ浮き上がる、あるいは空中に吊られたように見える現象を指す用語である。一般には怪異譚として扱われるが、からにかけての漁村では、古くから「潮の戻る夜に死者が空へ返る」として語り継がれてきた[2]。
もっとも、現象の実在性については初期から議論があり、の一部は乾燥した風穴、塩分を含む上昇気流、そして検死台の金属骨組みによる錯視が重なったものであると説明している。一方で、の古い日誌には、気圧変化だけでは説明のつかない「遺体の影が先に天井へ触れた」とする記述も残されており、これが後年の論争の火種となった[3]。
発生史[編集]
前史[編集]
この種の記録は末期の海難供養札にさかのぼるとされるが、当時はまだ独立した現象名はなかった。とりわけ年間の沿岸では、嵐の翌朝に浜へ打ち上げられた遺体が、日が差すと霧の中で数尺ほど持ち上がって見えたという記録があり、漁師たちはこれを「潮抜け」と呼んだ[4]。
後に22年、の港湾検疫所で働いていた松浦清介が、冷蔵庫のない時代に起きた検視の混乱を詳細に記録し、遺体が梁の影に沿って浮いているように見えることを「空懸」と表現した。松浦はこれを単なる目の錯覚ではなく、湿度と臭気の相関が引き起こす半物理現象と考え、翌年には『浮遊屍体に関する気相観測覚書』を私家版で印刷したという[5]。
帝都湿気現象研究会の成立[編集]
、の若手研究者と港湾医務官らにより、が設立された。会はの下宿屋の二階を仮会場とし、毎月第二火曜に「遺体浮揚度」「匂いの拡散角」「梁下静止時間」を測定したとされる[6]。
研究会の初代会長となったは、海水で長時間浸かった遺体が腐敗ガスを内部に保持し、周囲の冷気と接触した瞬間にわずかな上昇力を得ると主張した。なお、佐伯は自宅の風呂場で同様の実験を試み、妻から厳重に抗議されたという逸話が残っているが、裏付けは乏しい。
流行と衰退[編集]
初期には、やの新聞が「空に吊られた死者」を競うように報じ、見世物小屋でも再現装置が作られた。特にの魚市場近くで起きたとされる事案では、朝の霧の中に黒い影が十七分四十二秒間浮かび続けたと記録され、研究会の会報は一気に三千部売れた[7]。
しかし、後半に蛍光灯とガラス天井の普及が進むと、錯視を生む条件が減少し、現象報告は激減した。かわって「遺体そのもの」よりも「海上に出る白布」「検視台の影」「霧笛の反響」の方が注目され、空中浮遊説は民俗学へ吸収されていった。
観測方法と分類[編集]
研究会では、現象を「完全浮遊型」「梁接触型」「霧中分解型」の三類に分けていた。完全浮遊型は遺体が床や水面に接触しない状態、梁接触型は天井梁や桟橋の構造材に一部が触れる状態、霧中分解型は輪郭が崩れ、遺体の存在自体が周囲の湿気に溶けるように見える状態と定義された[8]。
観測には竹製の測距棒、気圧計、そして当時としては珍しい乾板写真が用いられたが、乾板はしばしば塩分で白化し、結果として「遺体の周囲に光輪が生じる」と解釈された。これが後の怪談作家に都合よく利用され、現象は実際以上に神秘化されたとされる。
また、1924年の内部報告書では、浮遊がもっとも起こりやすい条件として、湿度87%以上、風速1.8メートル毎秒以下、遺体搬送後23分以内、そして「見物人が三人以上いること」が挙げられている。この最後の条件については、実験の再現性を高めるための心理的要因ではないかと指摘されている。
社会的影響[編集]
空中に浮遊した水死体の噂は、港町の葬送慣習に大きな影響を与えた。たとえばでは、遺体搬送の際に竹籠を二重にし、上部を麻布で覆う「逆潮包み」が標準化され、これにより家族が死者を見失うことへの不安が和らいだとされる[9]。
また、の一部地方支庁では、検死官に対して「湿度が高い日は窓を開けたまま遺体を数分置かないこと」という通達が出された。これが事実上の現象対策になったため、後年の行政文書では空中浮遊現象が「衛生指導上の参考事例」として取り扱われている。
民俗面では、空中へ浮く死者は「まだ海に怒っている」「帰る場所を選べない」などの解釈で語られ、盆の送り火に白い提灯を増やす習慣が一部の地域で広まった。なお、のある島では、浮遊死体を見た者は三日以内に海へ向かって石を三つ投げると災厄が避けられるというが、これは島外の観光パンフレットが勝手に定着させた説ともいわれる。
批判と論争[編集]
現象に対する最大の批判は、再現実験の大半が見学者の疲労、低照度、魚油ランプの煤、そして強い潮臭による錯覚で説明できるというものである。の生理学教室はに、同条件下で魚の骨格模型を吊るしたところ、半数以上の被験者が「人の遺体に見える」と答えたと報告し、空中浮遊説を揶揄した[10]。
一方で研究会側は、模型実験では本物の遺体特有の「重量の消失感」が再現されないと反論した。この「重量の消失感」は測定不能であったため、のちに批判者からは便利な概念に過ぎないとされたが、現場の検死官の間では妙に支持が高かった。
さらに、にの旧海軍倉庫で見つかった記録箱には、浮遊現象が「遺体の問題ではなく、周囲の人間が見たいものを見ていた現象」と書かれた匿名メモが入っていた。真偽は不明であるが、以後、学会ではこの現象を「半実在型水死体幻視」と呼ぶ向きも現れた。
後世への影響[編集]
後期になると、空中に浮遊した水死体は学術対象から外れ、ホラー映画や怪談朗読の定番モチーフとなった。特に公開の短編映画『霧の梁下』では、の小島に浮く遺体が一切映されないまま周辺人物の会話だけで描写され、批評家から「見えないものを見せる装置」として評価された[11]。
また、現代ではの教材として「錯視の危険性」を示す例としてのみ触れられることが多い。ただし、一部の地方博物館では、当時の測距棒や気圧計と並んで、なぜか「浮遊を記録したとされる簿冊」の複製が展示されており、観光客の多くが本気で写真を撮っている。
近年は上で、霧の多い港で撮影された鳥の群れや、吊り広告の影が「空中浮遊死体ではないか」と話題になることがある。これに対し民俗学者は、現象そのものよりも、それを見たと信じた人々の共同体が伝承を維持してきた点に注目すべきだとしている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松浦清介『浮遊屍体に関する気相観測覚書』私家版, 1899.
- ^ 佐伯讓次郎『海難後死体の上昇現象と湿度に就て』帝都湿気現象研究会報 第2巻第1号, 1908, pp. 11-29.
- ^ E. H. Winton, 'On the Apparent Levitation of Drowned Bodies in Harbor Mists', Journal of Maritime Forensics, Vol. 7, No. 3, 1911, pp. 201-233.
- ^ 『横浜港検疫年報 明治二十二年度』横浜港務局編, 1890.
- ^ 小田原房雄『霧中遺体の輪郭消失と群集心理』民俗と衛生 第14巻第2号, 1925, pp. 88-104.
- ^ Margaret L. Havers, 'Salt, Air, and the Upright Corpse: A Study in Dockside Misperception', Proceedings of the Royal Society of Applied Atmospherics, Vol. 19, No. 4, 1928, pp. 77-95.
- ^ 『帝都湿気現象研究会 会報索引 第1-5号』帝都湿気現象研究会, 1932.
- ^ 石渡久造『空懸死体の観測法』東京港衛生叢書 第8巻, 1934, pp. 5-41.
- ^ Robert J. Mallory, 'When the Dead Seem to Rise: Reflections on Floating Corpses in Port Cities', Annals of Comparative Thanatology, Vol. 3, No. 1, 1949, pp. 1-18.
- ^ 『霧の梁下——港町怪異と視覚文化』東湾出版, 1963.
外部リンク
- 帝都湿気現象研究会デジタルアーカイブ
- 港湾怪異史料室
- 関東霧中伝承データベース
- 全国法医学錯視研究ネットワーク
- 浮遊屍体博物誌オンライン