第二次二二六事件
| 名称 | 第二次二二六事件 |
|---|---|
| 発生 | 1938年2月26日 |
| 場所 | 新京、奉天、ハルビン周辺 |
| 種別 | 政変・都市占拠事件 |
| 原因 | 塩専売法改正、軍内儀礼の崩壊、冬季配給の混乱 |
| 関与勢力 | 関東軍若年将校団、満州国臨時行政局、塩蔵業者連合 |
| 結果 | 占拠解除、首謀者47名の拘束、再発防止協議会の設置 |
| 影響 | 満州の軍政再編、冬季食料統制の強化 |
第二次二二六事件(だいにじににろくじけん)は、にで起きた、若年将校団と塩蔵業者連合の対立に端を発する政変事件である[1]。後年の研究では、内部の派閥調整を目的とした「儀礼的失敗」が暴走したものとする説が有力である[2]。
背景[編集]
第二次二二六事件は、成立後に整備された塩の流通制度が、の冬季配給制度と噛み合わなくなったことに端を発するとされる。特に末に導入された「三段階塩印制度」は、戸口ごとに異なる印章を付した塩俵を配布するという極めて煩雑な方式であり、現場の将校や商人の双方から不満が出ていた[3]。
また、内部では、若年将校団が重視する「朝礼時の整列幅」と、行政側が求める「倉庫間の動線確保」との間に深刻な齟齬が生じていた。これを解消するため、の軍需局では毎週木曜に「塩俵の縦横比をめぐる協議」が行われていたが、会議記録の一部は後に行方不明となっている[要出典]。
さらに、事件の直接要因としてしばしば挙げられるのが、構内で起きた「第2搬入列車の誤配」である。これは本来向けであった塩蔵魚缶が、誤っての軍楽隊宿舎へ送られたもので、これが将校団の間で「統制の崩壊」と受け止められたことが、後の蜂起の心理的下地になったとされる[4]。
経緯[編集]
新京市街の占拠[編集]
未明、若年将校団の一部12名がと周辺の通路を封鎖し、塩俵の検印台を臨時司令所として使用した。彼らは「清潔な配給と正しい整列」を要求し、また市内の電車を一時停止させて車両ごとに積載された塩袋の重量を再計測させた。計測の結果、1両あたり平均で17.4キログラムの誤差が確認され、これが「政務の乱れ」を象徴する数字として広く流布した。
一方で、事件の推進役とされる中尉は、占拠前夜にで開かれた非公式会合で、塩俵に代わる「霜柱式配給印」の導入を提案したと記録されている。もっとも、同会合に同席した者の証言は一致せず、実際には豆腐の試食会だった可能性も指摘されている[5]。
奉天・ハルビンへの波及[編集]
事件はただちにとへ波及したが、両都市での動きは性格を異にした。奉天では関係者が倉庫の施錠方式をめぐって将校団に協力し、ハルビンでは逆に鉄道員組合が「塩俵の積み上げ高さは人の身長を超えてはならない」とする独自規則を示して中立を保った。
特筆すべきは、沿いの検問所で起きた「白旗事件」である。ここでは、降伏の意思を示す白旗ではなく、塩俵の目印として使用される白布が掲げられたため、双方が一時的に停戦した。後にこの白布はに収蔵されたが、展示ラベルには「婚礼用の布」と誤記されていたことがある。
終息と拘束[編集]
事件は3日目にの介入を受けて収束した。拘束者は首謀者47名、補助要員83名、塩蔵業者連合の会計担当2名の計132名とされるが、名簿には重複記載が多く、実際の人数は120名前後であった可能性が高い[6]。
その後、臨時行政局は「再発防止協議会」を設置し、塩俵の印章を従来の3種から9種へ増やすという、事件の趣旨をやや取り違えた改革を実施した。これにより現場の混乱はむしろ増大したが、統計上は「配給精度の向上」として報告された。
影響[編集]
第二次二二六事件の影響は、軍政の再編よりもむしろ日常生活の細部に及んだとされる。事件後、では塩の配給袋に必ず赤い糸を1本結ぶ慣行が導入され、これは「統制の見える化」と呼ばれた。また、駅弁業者の間では塩鮭の切り身を奇数枚にすることが忌避され、偶数枚に切ることで政変を避けるという俗信が広まった[7]。
政治面では、政府が軍部との関係を見直す契機となり、各省庁に「冬季倉庫監査官」が常置された。もっとも、この職は書類上は監査を担うが、実際には倉庫内の湯気の量を毎朝測定するのみで、1年後には「最も静かな官職」として知られるようになった。
文化面では、事件を題材とする講談や歌謡がやの下町で流行した。特に「塩俵節」は、2番の歌詞だけが妙に具体的で、当時の検印台の位置関係をそのまま歌っていたため、後世の研究者が史料価値を認めている。
研究史・評価[編集]
研究史においては、戦後しばらくの間、この事件は「配給制度の技術的失敗」として扱われることが多かった。しかし以降、出身の歴史家・によって、軍内部の儀礼文化と塩の象徴性に着目した研究が進み、単なる暴動ではなく「儀式的クーデター未遂」とする理解が広まった[8]。
一方で、に公刊された『新京冬季行政と塩印章』では、事件の多くが後世の行政文書の整理段階で増幅された可能性が示されている。特に「将校団が市電を52分間停止させた」という有名な記述については、実際には停電が52分続いただけではないかとの指摘がある[要出典]。
現在では、第二次二二六事件は史における「制度の過剰精密化が暴発した例」と位置づけられている。もっとも、事件の象徴として最も有名なのは政治スローガンではなく、倉庫から押収された高さ1.8メートルの塩俵の塔であり、これは後にの玄関装飾として再利用された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 宮原秀策『新京冬季行政と塩印章』東亜史学会, 1994, pp. 113-146.
- ^ 田所義彦『満州国における配給儀礼の形成』中央史料出版社, 1987, Vol. 12, No. 3, pp. 41-79.
- ^ Harold P. Winthrop, "Salt, Drill, and Coup: A Study of Manchurian Winter Logistics", Journal of Northeast Asian History, 1968, Vol. 7, No. 2, pp. 201-233.
- ^ 佐伯みどり『新京中央駅の貨客混合と政治象徴』満州文化研究所, 2001, pp. 9-38.
- ^ I. N. Karamov, "The Second Ni-Ni-Roku Incident and Ritual Administration", Slavic and Continental Review, 1979, Vol. 18, No. 1, pp. 88-119.
- ^ 長谷川澄夫『塩俵三段階印制度の研究』北東アジア行政叢書, 1971, 第4巻第2号, pp. 55-92.
- ^ Margaret L. Chen, "White Flags and White Cloths in the New Capital", Proceedings of the Manchurian Studies Association, 2008, Vol. 21, No. 4, pp. 7-29.
- ^ 藤井康弘『奉天・ハルビン間における冬季統制の比較史』関東アジア史刊行会, 2015, pp. 201-244.
- ^ Evelyn K. Sato, "Administrative Overprecision and the Failure of Order", East Asian Political Antiquities, 2020, Vol. 3, No. 1, pp. 1-26.
- ^ 鈴木真吾『塩俵節と都市民衆の記憶』民俗と政変, 1999, 第9巻第1号, pp. 66-81.
外部リンク
- 新京史料アーカイブ
- 東亜政変研究センター
- 満州冬季行政デジタル文庫
- 塩印章コレクション協会
- 北東アジア史論壇