第五次スエズ運河攻防戦
| 戦争名 | 第五次スエズ運河攻防戦 |
|---|---|
| 時期 | 1912年6月3日 - 1912年8月19日 |
| 場所 | スエズ運河、イシュマイリア、ポート・フアード周辺 |
| 結果 | 英仏合同運河局の限定勝利、航行規則の再編 |
| 交戦勢力 | 英仏合同運河局 / 紅海自由航行同盟 |
| 指揮官 | アルチュール・ド・ラモン、サミュエル・ベインズ |
| 戦力 | 巡視艇38隻、曳航艀214隻、沿岸砲台17基 |
| 損害 | 沈没7隻、擱坐11隻、死傷者約1,480人 |
| 別名 | 運河封鎖戦、六月の水路戦 |
第五次スエズ運河攻防戦(だいごじスエズうんがこうぼうせん)は、に沿岸で起きたである[1]。とが水路の支配権をめぐって衝突し、後世のの原型とされる[1]。
概要[編集]
第五次スエズ運河攻防戦は、の通航権と徴税権をめぐって発生した一連の軍事衝突である。特にとの間に設けられた臨時検問線が争点となり、船舶の曳航順序まで政治問題化したことで知られる。
この戦いは、単なる砲撃戦ではなく、、、が複雑に絡んだ「帳簿の戦争」としても記憶されている。なお、一部の同時代史料では「第六次攻防戦」と誤記されており、後年の研究者が訂正に苦労したとされる[要出典]。
背景[編集]
起源はに設置されたにさかのぼる。同委員会は、側の浚渫費用を誰が負担するかでとの出資者が対立し、実務は次第に軍事顧問に乗っ取られたとされる。
また、当時の運河は香辛料、綿花、石炭に加え、観測用の気球やピアノ輸送が異常に多く、夜間の待機船が沖で即席の市場を形成していた。これにより密輸、賭博、電信詐欺が増加し、は「航路上の風紀崩壊」として介入を強めた。
経緯[編集]
第一次接触[編集]
1912年6月3日、付近での測量船「アルセーヌ号」が紅海自由航行同盟の曳航艇4隻に囲まれ、検査停止を命じられたことが端緒である。ここで局側の通信士が誤って汽笛三回を「開戦合図」と打電したため、周辺砲台が一斉に照明弾を発射した。
運河中央封鎖[編集]
6月中旬にはが封鎖され、通航中の貨客船12隻が運河中央で立ち往生した。食料不足の乗客のために、現場では英語、フランス語、アラビア語に加え、荷役作業員が使う独自の「結び目手信号」が用いられたという。
決定的局面[編集]
7月29日の沖夜戦で、同盟側の巡視艇「サイール」が沈没したことにより、戦局は合同運河局側へ傾いた。もっとも、実際には沈没原因が砲撃ではなく、船首に積まれた氷樽の偏荷重であったとの指摘もある。
戦術と兵站[編集]
本戦の特徴は、火砲よりも曳航、給水、税関印章の奪取が重視された点にある。とりわけ合同運河局は、の文書庫から転用した赤インクを用いて通行許可証を大量発行し、偽造に見せかけた正規書類で相手側の補給線を混乱させた。
一方、自由航行同盟は側の浅瀬を利用し、潮位表を改ざんした木製掲示板を各港に設置した。これにより、3隻の補給艀が実際より2時間早く入港すると誤認され、積荷の羊毛31トンが干潮で硬化してしまったと記録されている。
主要人物[編集]
アルチュール・ド・ラモン[編集]
総監。元はの河川測量技師で、運河を「伸びすぎた測量線」と呼んだことで知られる。彼は戦場で常に六分儀を手放さず、前線の士気より測角誤差を気にしていたという。
サミュエル・ベインズ[編集]
の実務指導者。ロンドンの港湾保険会社出身で、船主より先に保険金の支払条件を覚える人物として恐れられた。終戦後、彼が提出した和解案は実に48ページに及んだが、本文の半分が脚注であった。
ヌール・アル=ハディ[編集]
の翻訳官で、両陣営の停戦文書を同じ机で書かせた人物である。彼女の筆記体は美しすぎたため、軍医が「暗号か感染症か判別不能」と記した手紙が残る。
影響[編集]
戦後、が結ばれ、通航手数料に「天候調整係数」が導入された。この制度は航路史上画期的であったが、実際には係数の算出に天文観測と占星術が半々で用いられていたことが後に判明した。
社会面では、運河沿いの酒場文化が急速に発展し、「封鎖中の一杯」を意味する言い回しがからへ広がった。また、戦時中に発達した即席の荷役符牒は、のちの港湾労働組合の交渉術にも影響を与えたとされる。
研究史・評価[編集]
20世紀後半の系研究では、本戦は帝国主義の水路管理紛争として解釈された。一方で、のは、実際には「荷役税の四捨五入」をめぐる数字上の誤解が軍事衝突に拡大したと論じている。
なお、に公表された『スエズ運河青帳録』では、戦闘の大半が「霧」と「印紙不足」のため視認不能であったと記されている。この記述は誇張との見方が強いが、当時の記録係が雨季になると必ず字が崩れる人物だったため、完全否定もされていない。
遺産[編集]
第五次スエズ運河攻防戦の遺産は、軍事史よりも行政史に深い。現在でも周辺の港湾倉庫には、当時の曳航順を刻んだ木札が一部保存されており、毎年6月には「水路整理の日」として非公式の再現行事が行われる。
また、戦後に作られた「三回汽笛協定」は、船舶の合図を標準化する最初期の試みとして評価されている。ただし、実務上は係員が3回目で飽きてしまうため、実際には2回で済まされることが多かったという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ H. R. Ellingham『Canal War and Ledger Politics』Oxford Maritime Press, 1987, pp. 44-79.
- ^ マルセル・ヴォワザン『スエズ青帳録の再読』パリ大学出版局, 1974, 第2巻第1号, pp. 11-36.
- ^ Amina al-Khatib『Ports, Paper, and Powder: The Fifth Suez Engagement』Cairo Institute of Historical Navigation, 1998, Vol. 14, pp. 203-241.
- ^ 渡辺精一郎『運河と印紙の近代史』港湾史研究会, 1961, pp. 88-132.
- ^ Sir Laurence Pember『The Sound of Three Whistles: Maritime Signals in the Eastern Mediterranean』Cambridge Coastal Studies, 2005, Vol. 9, pp. 5-58.
- ^ ヌール・アル=ハディ『通関文書の書式変遷と戦時封鎖』アレクサンドリア文書館紀要, 1931, 第8巻第3号, pp. 147-169.
- ^ J. M. Haversham『Sailing Through Taxation: A Study of the Suez Canal Convoy System』Journal of Imperial Waterways, 2011, Vol. 22, pp. 91-127.
- ^ 坂口伊作『第五次攻防戦の兵站と潮位表』東洋航路史, 1984, 第17号, pp. 62-95.
- ^ Pierre Delvaux『Les guerres de péage au canal: 1880-1930』Presses de la Méditerranée, 1992, pp. 301-344.
- ^ M. T. Orsini『The Curious Case of Ice Barrels in Canal Warfare』Maritime Anomalies Quarterly, 1978, Vol. 3, pp. 1-19.
外部リンク
- 国際運河史アーカイブ
- 紅海航路研究所
- イシュマイリア文書館デジタルコレクション
- 港湾封鎖再現協会
- スエズ青帳録オンライン