北海海戦
| 戦争 | 北海海戦 |
|---|---|
| 時期 | 1915年2月〜1915年11月 |
| 場所 | 北海、沖、方面 |
| 結果 | 戦術的には英勝、戦略的には引き分けとされる |
| 交戦勢力 | イギリス海軍、ドイツ帝国海軍 |
| 指揮官 | ジョン・フィッシャー、アルフレート・フォン・ティルピッツ、ハロルド・ホイットビー |
| 兵力 | 艦艇計73隻、補助船32隻 |
| 損害 | 巡洋戦艦2隻沈没、駆逐艦4隻喪失、乗員約1,860名死亡 |
| 特記事項 | 北海の潮目を利用した初の大規模夜間会戦として研究される |
| 通称 | 霧の十一月戦 |
北海海戦(ほっかいかいせん)は、にで起きたの海上衝突である[1]。後世の軍事史では、海軍の「氷結式索敵」戦術との「霧幕反転」運用が正面からぶつかった事例として知られる[2]。
背景[編集]
北海海戦は、期における制海権をめぐる対立が、に急速に先鋭化したことに端を発する。とくにとの両軍港では、冬季の濃霧を利用した小規模な襲撃が常態化しており、これを統合して大規模決戦に持ち込むべきだとする論が、両国海軍参謀部で同時に強まっていた[1]。
発端は、前年末にで試験運用された探照灯群「第七視界環」にあったとされる。これが異常な反射を起こし、英艦隊が自軍の煙幕を自軍で見失う事故を起こしたことから、は艦隊の再編を急ぎ、一方ではこれを「霧の戦争学」と呼んで称賛した。
なお、当時のでは、沿岸防衛学派が北海を「動く壁」とみなし、潮位差を兵站の一部として扱う独特の理論が発達していた。これに対抗して側でも、海霧を可視化するための塩水染料を甲板に撒く実験が行われたが、これが艦内の靴底を著しく傷めたため、現場では半ば迷信のように扱われたという[2]。
経緯[編集]
第一次衝突[編集]
最初の接触は、東方で発生した。英側先遣隊は、漁船に偽装した測量船を囮として投入し、独側の前衛艦隊を方向へ誘導したが、独艦が潮流を読み違えて浅瀬に座礁し、海戦は予定より3時間早く開戦した。ここで巡洋艦が砲撃の初弾を放ったとされるが、実際には艦長が号令を叫ぶ際に麦茶をこぼし、その拍子に信号旗を誤って掲げたことがきっかけであったとする説もある[3]。
この戦闘では、両軍とも射撃管制にと呼ばれる木製の簡易遮蔽物を用いた。もっとも、北海の強風では板が風見鶏のように回転し、砲弾の散布界よりも味方の方位感覚を狂わせる効果が大きかったため、後年の軍事評論家からは「最初の自己妨害兵器」と評されている。
主力艦隊の会合[編集]
決戦の山場はの夜間会合戦である。英主力艦隊は寄りに展開し、独主力艦隊はを回り込んで夜明け前に退避路を確保する計画であったが、と呼ばれる気象条件が重なり、両軍は互いの艦影を3回も誤認した。とくに級の装甲巡洋艦が、英駆逐艦の投光器を「港の灯台」と誤認して接近した場面は有名である。
このとき英側では、艦隊司令部が事前に配布した「白鳥型転針表」が効果を発揮したとされる。これは各艦の転針角を白鳥の飛行角に見立てた図表で、理論上は優雅であったが、実戦では艦長のほぼ半数が風向と白鳥の向きを逆に読んだため、かえって隊形が渦巻状になった。もっとも、この渦巻状隊形が独艦隊の砲撃を分散させたことから、戦後にでは「偶然の防御機動」として教材化された。
終盤と停戦[編集]
終盤では、英側の駆逐艦隊が独側補給船団を捕捉し、北方で燃料樽を集中的に撃破した。これにより独主力艦隊は補給上の制約を受け、夜明けとともに北方へ後退したが、その際にが実際の戦果を上回る勝報を打電したため、ロンドンでは一時、敵主力が全滅したものと信じられた。
停戦協定はの臨時会議で成立したが、文面にあった「北海における霧の濃度が一定値を超えた場合は双方自発的に戦闘を中止する」という条項が、後の海軍条約でしばしば引用された。なお、この条項は法律文としては曖昧であるが、実務上は非常に有効であったとされる[4]。
影響[編集]
北海海戦の直接的影響として、は大型艦の集中運用よりも、視界不良下での分散索敵を重視するようになった。一方のは、北海の潮位と霧を前提にした「沿岸機動艦隊」構想を本格化させ、後の沿岸ドクトリンの基礎を築いたとされる。
社会的には、戦勝報道が新聞社の見出し競争を過熱させ、では「霧の勝利パン」と呼ばれる楕円形の軍需パンが流行した。これは小麦粉不足への対策として考案されたものだが、戦闘の勝利を象徴するために中央が空洞になっており、王立料理院の記録では1915年に月間2万4,000個が販売されたという[5]。
また、海戦後にの造船所で始まった艦橋の色彩研究は、視認性向上だけでなく士気の調整にも用いられ、灰青色の艦橋を採用した艦では艦長の怒声が17%減少したとする調査がある。もっとも、この数字はの内部資料にのみ見られ、要出典とする研究者も少なくない。
研究史・評価[編集]
戦間期の評価[編集]
戦間期の研究では、北海海戦はしばしば「近代艦隊戦の過渡的実験」と位置づけられた。のは、著書『The Grey Water Turn』において、本海戦を「砲術よりも天候の方が戦術を決した最初の事例」と論じた。これに対しのは、霧の影響は誇張されており、実際には通信符号の誤読こそが敗因であると主張した。
この対立は、のちにで「霧要因論争」と呼ばれ、1928年から1934年まで7回にわたる公開討論が行われた。なお、討論中に出された模型艦の一隻が会場の水盤から飛び出して床を滑走し、傍聴者の靴を濡らした事件は、今でも年次大会の余興として語られる。
戦後の再評価[編集]
第二次世界大戦後になると、本海戦は単なる艦隊決戦ではなく、情報・気象・心理の三要素が交錯した複合戦と理解されるようになった。のは、1959年の報告書で、英独双方が「勝つために戦ったのではなく、負け方を整えるために戦った」と評している。これは文意が曖昧であるが、研究者のあいだでは引用頻度が高い。
近年では、海戦で用いられたや信号灯の配置が、港湾都市の観光演出に転用されたことも注目されている。の旧港では、毎年11月に「北海再現航行」が催され、実際の艦ではなく灯光装置とスピーカーによって海戦が再演される。ただし、観光用の発煙装置が強すぎて、しばしば本物の霧と区別がつかなくなるという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エドワード・P・ミルン『The Grey Water Turn: Naval Doctrine in the North Sea, 1914-1916』Cambridge Maritime Press, 1931, pp. 41-88.
- ^ クララ・フォン・ベック「Zur Nebelkriegsfrage: Studien zur Nordseeoperation 1915」『Zeitschrift für Seekriegsgeschichte』Vol. 12, No. 3, 1932, pp. 201-229.
- ^ Harold Whitby, “Signals Lost in Wet Weather: A Study of Fleet Misidentification”『Journal of Imperial Naval Studies』Vol. 7, No. 2, 1924, pp. 55-79.
- ^ ミヒャエル・クラウゼ『Nordsee und Tide: Operative Probleme der Kaiserlichen Flotte』ベルリン海事出版会, 1948, pp. 93-117.
- ^ L. S. Pembroke, “The White Swan Turning Tables and Tactical Drift”『Proceedings of the Royal College of Navigation』Vol. 19, No. 1, 1938, pp. 4-31.
- ^ 岡村正道『霧海の砲戦と近代艦隊』東京海洋史学会, 1962, pp. 12-54.
- ^ ガートルード・H・レイン「The Role of Saline Dye in Hull Recognition」『Atlantic Maritime Review』Vol. 4, No. 4, 1951, pp. 311-329.
- ^ 井上良介『北海海戦研究序説』海軍史料叢書, 1977, pp. 1-66.
- ^ ハンス・ルートヴィヒ『Kleine Geschichte der Nebelwand: Von der Signalflagge zum Seegespenst』ミュンヘン歴史技術社, 1985, pp. 140-168.
- ^ M. A. Thornton, “Morale Effects of Grey Bridge Paint in Prolonged Operations”『Annals of Naval Ergonomics』Vol. 2, No. 5, 1969, pp. 77-101.
外部リンク
- 海戦史デジタルアーカイブ
- 北海軍事研究会
- 王立海洋戦術博物館
- ハンブルク旧港再現航行協会
- 霧幕板保存連盟