第十次聖杯戦争
| 正式名称 | 第十次聖杯戦争 |
|---|---|
| 別名 | 第十回杯戦、ジュネーヴ協定式聖杯戦 |
| 分野 | 儀礼魔術、召喚競技、都市伝承 |
| 制度化 | 1928年 |
| 主催 | 国際聖杯管理委員会 |
| 開催地 | スイス・ジュネーヴ、後に東京湾岸特別区域 |
| 参加陣営 | 7陣営制(補欠1) |
| 特徴 | 十回目にのみ適用される逆位相契約 |
第十次聖杯戦争(だいじゅうじせいはいせんそう、英: The Tenth Holy Grail War)は、の顕現をめぐって複数のがを召喚し、限定区域内で相互に競合する儀礼的戦闘の総称である。にので制度化されたとされる[1]。
概要[編集]
第十次聖杯戦争は、に到達する権利をめぐり、とが一対一に近い形式で争う競技体系である。第三次以降に散発的な変質が続いた結果、十回目のみ「敗者の記録が次回大会のルールを決める」という特則が設けられたとされる[2]。
制度上はの条約補遺を起点とするが、実務的にはの再編会議で現在の形が整えられたとする説が有力である。なお、当時の議事録にはとの合同印が押されていたとされるが、現物は未確認である[要出典]。
成立史[編集]
ジュネーヴ協定以前[編集]
起源は、の秘教結社「白金の匙団」が行っていた遺灰召喚実験に求められる。ここで用いられた「杯型触媒」が後の聖杯概念の原型になったとされ、の実験報告書には、被験者3名のうち2名が同一の古戦場を夢見たと記されている[3]。
この報告はの周辺で拡散し、にはで「聖遺物競技」として半ば公開形式の模擬戦が始まった。もっとも、当初は勝敗よりも結界の維持率が重視され、観客が多すぎると召喚陣が崩れるという、実に近代的な問題が発生していた。
第十回での制度固定[編集]
においては、これまで曖昧だった勝者決定法が「最後に残った陣営ではなく、最も多くの記録修正を受けた陣営を暫定優勝とみなす」という奇妙な規定に置き換えられた。これは第九次大会でが誤って全記録をの倉庫に搬送した事故を受けたものとされる[4]。
この事故以後、聖杯戦争は単なる魔術儀礼ではなく、記録管理・都市計画・保険査定を含む複合行政案件となった。特に港区の海岸線では、毎年10月に「結界点検週間」が設けられ、近隣住民が避難訓練と同時にサーヴァントの足音を聞き分ける訓練を受けていたという。
開催方式[編集]
第十次聖杯戦争は、原則として7陣営制であるが、補欠1陣営が常に待機する。補欠は最終夜にしか召喚許可が下りず、これを「夜明け前の第八席」と呼ぶ慣行がある。
各陣営にはに相当する3回分の強制命令権が付与されるが、第十次では「一度だけ無効を宣言できる逆令呪」が導入された。これにより、命令が命令でなくなる瞬間が発生し、戦闘よりも会議の方が長引くことが多かったとされる。実際、の中間報告では、戦闘48分に対し調停会議が11時間26分続いた記録が残る[5]。
また、召喚には型触媒のほか、管轄の没収品から転用された骨董品が使われることが多かった。とりわけで差し押さえられた金属製の杯が人気で、触媒としての効力より「由来が重そうに見える」ことが重視されたという。
主要陣営[編集]
アストルフ家の陣営[編集]
アストルフ家は鎌倉市に本拠を置く旧家で、第十次では父子2代にわたり参加した珍しい例である。家督を継いだは、英霊選定において「戦闘力よりも公文書への適応力」を重視し、文官系の英霊ばかり召喚したことで知られる。
特に第3夜に顕現した級の英霊は、戦場で剣を抜く前に議事進行表を要求し、敵陣営が一斉に困惑したという逸話がある。
東雲研究会の陣営[編集]
附属超常現象研究会を母体とする東雲研究会は、理論派として名高い。代表のは生まれで、サーヴァントを「人類史上最大の引用装置」と定義した論文で博士号を得た。
ただし彼女の陣営は、召喚成功率が高い一方で、毎回『契約書の印刷ミス』により能力の一部が反転する癖があった。第十次では弓兵が召喚されたはずが、実際には弓を保管する担当者だけが現れたと伝えられている。
港南教区の陣営[編集]
の外郭団体を名乗る港南教区陣営は、宗教的象徴の保全を名目に参戦した。彼らは聖杯を「記念礼拝用の大杯」と誤認していた節があり、交戦中にもかかわらず毎朝6時に鐘を鳴らしていた。
この鐘の音は召喚陣を安定させる効果があったらしく、敵対陣営からは「戦うより先に聖歌隊を止めるべきだった」と回顧されている。
社会的影響[編集]
第十次聖杯戦争は、魔術界よりもむしろ都市行政に強い影響を与えた。たとえばでは、結界帯に住む住民へ配布される避難マップが「高潮」「工事」「サーヴァント接近」の3色で印刷されるようになった[6]。
また、各社は第十次以後、火災保険の特約に「英雄級召喚による家具損壊」を追加した。これにより、応接間の被害額だけで1件あたり平均42万8000円に達する事例が報告され、特にアンティーク椅子の補償が高騰したという。
一方で、文化面では映画・ゲーム・舞台の題材として大量に消費され、後半には「聖杯戦争もの」と総称されるジャンルが成立した。ただし、第十次を直接描いた作品は少なく、その理由については「記録が複雑すぎて脚本家が役所の様式に負けるから」と説明されることが多い。
批判と論争[編集]
第十次聖杯戦争には、制度の不透明さをめぐる批判が絶えなかった。特に問題視されたのは、優勝陣営の認定が戦績ではなく「文書提出の完全性」に左右される場合があった点で、の夕刊はこれを「戦争というより稟議」と評した[7]。
また、召喚対象の選定において特定地域の英霊が優遇されたのではないかという指摘もある。系英霊の採用率がより18%高かったという統計が出回ったが、これは単に記録担当が在住だったためではないかともいわれる。
なお、最も有名な論争は、最終夜に現れた「聖杯そのものを名乗る英霊」がルール上有効かどうかをめぐるものである。委員会はこれを「概念上は適格、しかし実務上はやや迷惑」として準優勝扱いにしたが、この判断は今なお異論がある。
記録と遺構[編集]
第十次聖杯戦争の遺構は、の湾岸倉庫群やの地下排水路に断片的に残るとされる。とくに「第十会場A区画」と呼ばれる場所には、夜間になると床面の結界線が蛍光緑に発光する現象が確認されたというが、後にこれは特殊塗料の剥離と判明した[要出典]。
公的には、の特別閉架に「聖杯戦争関連資料群」が存在するとされるが、閲覧にはの紹介状と、なぜか調停員2名の署名が必要である。写本の一部には「第十次の勝者は誰でもよかったが、帳簿の都合でアストルフ家にした」と読める注記があり、研究者を困惑させている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 東雲真琴『第十次聖杯戦争における逆令呪の運用』東京超常大学出版会, 1976.
- ^ Auguste Astorf, "Protocol of the Tenth Grail Cycle", Journal of Ceremonial Thaumaturgy, Vol. 14, No. 2, pp. 33-58, 1931.
- ^ 松浦健司『聖杯戦争史研究』岩波都市文化研究叢書, 1988.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Geneva Addendum and Its Misfiled Copies", Proceedings of the Royal Occult Society, Vol. 22, pp. 101-149, 1949.
- ^ 『国際聖杯管理委員会 第十回年次報告書』国際聖杯管理委員会出版局, 1965.
- ^ 島崎玲子『結界都市の行政学』勁草書房, 2002.
- ^ Pierre d'Aubrac, "Les serviteurs et la paperasse", Revue des Études Hermétiques, Vol. 8, No. 1, pp. 5-29, 1957.
- ^ 遠野雅也『東京湾岸特別区域の形成と聖遺物保管』中央公論新社, 1999.
- ^ Hiroshi Kanda, "When the Grail Became a Ledger", The Journal of Unverified Archives, Vol. 3, pp. 77-93, 1981.
- ^ 『第十次聖杯戦争資料集 成文館版』成文館, 2011.
外部リンク
- 国際聖杯管理委員会アーカイブ
- 東京超常史料デジタルライブラリ
- ジュネーヴ魔術史研究所
- 湾岸結界観測ネット
- 聖杯戦争年表館