第4次極南侵攻戦争
| 発生時期 | 1948年 - 1951年 |
|---|---|
| 主戦場 | 南極半島、ウェッデル海、サウスシェトランド諸島 |
| 原因 | 観測権益、氷床採掘権、補給航路の封鎖 |
| 結果 | 白紙協定の再確認と極地非武装監視区の設置 |
| 交戦勢力 | 極南連合臨時艦隊、南緯七〇度防衛会議ほか |
| 指揮官 | 桐生征二、Margaret A. Thornton、ルッツ・フェルナー |
| 戦力 | 艦船31隻、砕氷機12基、測風気球84基 |
| 被害 | 死者412名、行方不明67名、氷上貨物損失約18,400トン |
第4次極南侵攻戦争(だいよじきょくなんしんこうせんそう、英: Fourth Polar Southern Invasion War)は、からにかけて、周辺の補給線と観測権益をめぐって発生したとされる国際紛争である。一般には後の「越境測候船団事件」を発端とする一連の軍事行動として知られている[1]。
概要[編集]
第4次極南侵攻戦争は、後の極地再編期に、の沿岸測候点をめぐって起きたとされる戦争である。名称に「第4次」とあるのは、実際には三度の前史的衝突と一度の「未遂上陸」が事後的に数え上げられたためで、当時のでは「第四相会戦」とも表記された[2]。
この戦争は、氷床下の炭化水素ではなく、むしろ「風向データ」「永久氷の通行税」「測候旗の掲揚順」をめぐって拡大した点に特色がある。とくに沿岸で運用されていた可動式気象哨戒艦《ノルデン30》の拿捕事件が、各国の外務省を巻き込む外交危機へと発展したとされる。
用語の成立[編集]
「極南侵攻」という語は、にで発行された『極地通商公報』の見出しに由来するとされる。当初は単なる輸送妨害を指す俗称であったが、の軍事評論誌がこれを採用し、以後は正式な戦役名のように定着した[3]。なお、一次史料の一部では「侵攻」ではなく「押し出し」と記されている。
戦略上の特徴[編集]
本戦争の最大の特徴は、砲撃よりも「測量の先取り」が重視された点である。両陣営は、幅3メートル未満の氷棚に対しても占領証明杭を打ち込み、式の座標札を競って残したため、戦後の現地調査では杭が23本も同一地点に束ねられて発見されたという[4]。
歴史[編集]
前史: 白紙協定から測候封鎖まで[編集]
起源はのにさかのぼる。同協定は南極圏における軍事施設の建設を禁じたとされるが、条文の第6補則に「観測小屋は兵站施設に含まれない」との但し書きがあり、これを拡大解釈した各国が、次々と小型基地を設営したのである。とくに系の民間気象会社との遠洋漁業連盟が、補給船の動線をめぐって小競り合いを繰り返した。
開戦[編集]
8月17日、の冬季補給港で、氷上レールの使用許可をめぐる口論が発砲騒ぎに発展したことが開戦とされる。もっとも、最初の「発砲」は信号弾2発であり、死傷者は出なかった。翌日、桐生征二率いる極南連合臨時艦隊が、観測船3隻を連ねて北上し、敵対勢力の放送局を一時沈黙させた[5]。
転機となった冬季補給崩壊[編集]
冬、戦局を決定づけたのは氷害ではなく、缶詰規格の不統一であった。英国系船団がスープ缶を直径8.2センチで統一していたのに対し、南緯七〇度防衛会議側は直径8.5センチを採用しており、保管棚に2,300缶分の隙間が生じたのである。この隙間に湿気が溜まり、ジャム缶が次々と凍結破裂したことが、士気低下の直接原因とする証言が残る。
主要勢力[編集]
極南連合臨時艦隊[編集]
極南連合臨時艦隊は、、、の三極地研究委員会が共同出資して編成した準軍事組織である。司令長官の桐生征二は元の測量官で、砲術よりも潮位表に詳しい人物として知られた。隊内では砕氷機関車が5両運用され、うち1両は暖房装置の不良で常に紅茶の湯気を噴いていた。
南緯七〇度防衛会議[編集]
南緯七〇度防衛会議は、に事務局を置く極地補給調整団体として発足したが、実質的には英国系保険会社と観測機器メーカーの連合体であったとされる。議長ルッツ・フェルナーはドイツ語圏出身で、会議録の余白に氷結率の計算式を書き込む癖があった。彼の命令により、沿岸基地には赤い灯火ではなく緑の灯火が用いられ、これが夜間誤認を増幅させたという[6]。
主な戦闘[編集]
ノルデン30拿捕事件[編集]
9月、観測艦《ノルデン30》がウェッデル海で拿捕され、船内の風速計18基と標本箱47箱が押収された。問題は船体ではなく、甲板に掲げられていた「観測優先」の標語板が、相手側には「占領宣言」と読めたことである。以後、双方は標語の文言を1文字ずつ拡大解釈し、外交文書が異常に長文化した。
氷棚の48時間停戦[編集]
2月、厚さ42センチの氷棚上で48時間の停戦が成立したが、これは両軍が同じ風向予報を参照したために前進できなくなった結果である。停戦中、兵士たちは中立地帯に仮設された売店で熱いココアを買い、そこで敵味方の間に「羊羹交換会」が生まれたと伝えられる。これは後のの草案に影響した。
測風気球会戦[編集]
戦争末期の3月、両陣営は砲火の代わりに測風気球を84基打ち上げた。高度2,400メートルまで上昇した気球は上空の寒気層で凍結し、その半数が海上に落下したが、残る一部は偏西風に乗って沿岸まで漂着した。チリ海軍はこれを「空から来た外交文書」と呼び、3日間にわたり保管したという。
社会的影響[編集]
第4次極南侵攻戦争は、軍事的には小規模であったが、極地行政の制度化を促した点で大きいとされる。戦後、の専門委員会は、南極圏における「観測物資の武器転用」を禁じる勧告を出し、以後の基地では缶詰の側面に中立章句を印刷する慣行が広まった[7]。
また、この戦争を契機として、とでは「極地市民防災講座」が開設され、一般市民に対しても氷上避難結索法が教えられた。もっとも、実際に避難索を使う機会はほとんどなく、講座の人気はもっぱら「極地スープの試食会」に支えられていた。
文化への波及[編集]
戦後まもなく、映画『南緯七十度の午後』()や、歌謡曲『氷棚で会おう』が流行した。とくに後者は、歌詞中の「測候旗を振れ」という一節が教育現場で問題視され、が歌唱指導要領の注記を追加したとされる。
行政制度への影響[編集]
にはが設置され、基地間の缶詰規格・燃料規格・紅茶濃度の統一が進められた。なお、紅茶濃度の標準値は「3分抽出、ただし南極半島南岸では4分」とされ、後年の行政文書においてしばしば例外規定の象徴として引用されている。
批判と論争[編集]
第4次極南侵攻戦争の実在性については、早くから疑義が呈されていた。特に後半の歴史家ヴァレリー・H・モートンは、参戦各国の公文書に戦闘記録よりも天候記録が多いことを理由に、「戦争というより大型の測候会議であった可能性がある」と指摘した[8]。
一方で、退役砕氷艦《シレーネ》の艦長日誌には、艦内で銃弾ではなく氷柱が配給された記述があり、これを支持する研究者もいる。ただし、同日誌には「17時に敵軍と握手、18時に同じ食堂で再会」とも書かれており、信憑性にはなお議論がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 桐生征二『極南作戦記録集 第一巻』極地出版局, 1962, pp. 41-118.
- ^ Margaret A. Thornton, “Logistics and Ice Frontiers in the Fourth Polar Southern Invasion War,” Journal of Polar Affairs, Vol. 8, No. 2, 1974, pp. 201-239.
- ^ ルッツ・フェルナー『南緯七〇度会議録』モントリオール極地資料社, 1955, pp. 12-96.
- ^ 佐伯道夫『白紙協定とその余白』中央極地研究会, 1981, pp. 7-55.
- ^ Helen R. Wadsworth, “The Norden 30 Incident Reconsidered,” Antarctic Historical Review, Vol. 14, No. 1, 1988, pp. 33-68.
- ^ 『極地通商公報』第47号、ブエノスアイレス極南通信社, 1949, pp. 1-14.
- ^ 田中綾子『氷棚上の行政学』北方書房, 1993, pp. 88-131.
- ^ Pierre Lemaire, “On the Standardization of Tea Concentration in Polar Bases,” Revue des Études Froides, Vol. 3, No. 4, 2002, pp. 5-19.
- ^ 中村精一『第4次極南侵攻戦争の真実と虚構』東京極地叢書, 2007, pp. 144-208.
- ^ G. B. Holloway, “When Balloons Became Diplomacy,” The Arctic and Antarctic Gazetteer, Vol. 21, No. 3, 2011, pp. 77-102.
外部リンク
- 国際極地史料館
- 南極半島戦史データベース
- 極地補給監理庁アーカイブ
- ウェッデル海年報
- 白紙協定研究センター