第5次西江戸の乱
| 時期 | 1848年3月 - 1849年1月 |
|---|---|
| 場所 | 西江戸、、周辺 |
| 原因 | 水門税の増額、夜間通行札の再発行、倉庫検閲の強化 |
| 結果 | 奉行所側の一時勝利、ただし税制は翌年に全面改定 |
| 交戦勢力 | 西江戸奉行所、白帆組、埠頭同盟、舟楫警固会 |
| 指揮官 | 久世正綱、ミハイル・ルドヴィック、志摩野市兵衛 |
| 死傷者 | 死者214名、負傷者1,480名、拘束者3,900名 |
| 別名 | 第5次西江戸騒擾、河口湾封鎖事件 |
| 記念日 | 9月18日(和解宣言の日) |
第5次西江戸の乱(だいごじにしえどのらん)は、に一帯で発生した一連の都市騒擾および港湾封鎖である[1]。と私設のが対立し、後世には「水門税改定をめぐる最大規模の街区抗争」として知られる[2]。
概要[編集]
第5次西江戸の乱は、がの物流で栄えていた時期に起きた都市反乱である。とりわけとをめぐる争いが直接の火種であったとされる[3]。
この乱は「第5次」と称されるが、前4回の騒擾とは性格がやや異なり、単なる民衆暴動ではなく、船問屋、木材仲買、灯油商、さらにはの下級技師まで巻き込んだ複合的な抗争であった。近年では、都市行政の制度疲労を示す象徴的事件として位置づけられている[4]。
なお、当時の公文書では「乱」という語は使われず、「臨港秩序の崩壊」または「第五月封港不服従」と記されていた。しかし民間の瓦版が誇張したことにより、のちに現在の名称が定着したとする説が有力である。
背景[編集]
西江戸港の発展[編集]
からにかけて、西江戸はとの結節点として急速に発展した。特にからにかけては倉庫密度が異様に高く、1区画あたり平均17.4棟の小倉が並んでいたという[5]。
この過密化に対し、奉行所は貨物通行の「見える化」を名目に水門税を段階的に引き上げた。だが実際には、夜間の潮位測定費を誰が負担するかで官吏間の折衝が長引き、税率表が半年で4回も改訂されたことが反発を招いたとされる。
白帆組の結成[編集]
白帆組は、もともとの護送船団を守るために編成された自警的な集団である。創設者の志摩野市兵衛は、税の徴収を「帆布の撓みのように不公平である」と批判し、港の船頭たちを集めて半ば互助会、半ば準武装組織として組織した。
組員は最大で2,600名に達したと推定され、青い布の腕章と、検査済み荷札を模した木札を首から下げていたという。なお、後年の調査では、その木札の7割が実は玩具職人の製品であった可能性が指摘されている[要出典]。
発火点となった改定令[編集]
1848年2月、は「臨港荷札再編令」を公布し、荷役1樽ごとに新たな印紙を貼付させる制度を導入した。これにより、安価な燻製魚よりも高級絹布のほうが通関しやすくなるという逆転現象が発生し、商人層の不満が一気に高まった。
とりわけ、港内で働く水夫の間では「印紙を貼る前に日が暮れる」と揶揄され、実務の遅延が日常化した。これが1848年3月の連続停船につながり、乱の幕開けとなった。
経緯[編集]
港湾封鎖の開始[編集]
3月17日、白帆組と埠頭同盟の一部がの東口を封鎖し、奉行所の監督船3隻を一斉に曳航不能にした。封鎖に用いられたのは砲ではなく、主に濡れた縄、樽、干し網であり、これが「最も静かな反乱」と呼ばれる所以である。
同日夜、のたもとで灯油商人らが即席の帳簿焼却を行い、徴税台帳4冊が失われた。奉行所は鎮圧隊を派遣したが、潮汐が予想より早く満ちたため、隊列は泥底で立ち往生したと記録されている。
四月事件と町会分裂[編集]
4月初旬には、の内部で対応方針をめぐる分裂が起こり、穏健派は税率の一部凍結を求め、強硬派は白帆組の解散を主張した。これにより、抗議側もまた二分され、同じ街区で別の演説隊が互いに拍手を送り合うという奇妙な光景が生まれた。
この混乱の最中、測量院の技師ミハイル・ルドヴィックが「港の境界線は毎日3尺ずつ揺れている」と報告し、これが奉行所の統治能力への不信を決定づけたとされる。ただし、実際の報告書には潮位誤差としか書かれていない。
最大衝突[編集]
5月11日、で最大規模の衝突が発生した。奉行所側は拍子木隊と銅鑼隊を先頭に進出したが、白帆組は倉庫上部に設置した風見板を一斉に回転させ、夜間照明を狂わせるという奇策で対抗した。
この日の衝突で、双方合わせて死者84名、負傷者613名が出たとされるが、同時代の新聞は「被害は比較的小さい」と報じており、後世の記録との乖離が大きい。研究者の間では、死傷統計に船員名簿が重複計上された可能性が指摘されている。
和解宣言[編集]
1849年1月、商業機能の麻痺が看過できない水準に達すると、西江戸奉行所は徴税制度の半減と夜間通行札の再印刷を約束し、和解宣言を出した。白帆組側は港湾封鎖を解除したが、組織そのものは完全には解体されず、のちに海難救助団体へ転化したという。
この和解は、表向きには奉行所の勝利とされたが、実質的には白帆組の主張がかなり取り込まれた妥協であったと見るのが一般的である。
影響[編集]
第5次西江戸の乱の直接的影響として、はの改定で実質的に廃止され、代わって年間定額のが導入された。これにより徴税事務は簡素化されたが、書類の名称だけが6段階に増えたため、役所の棚が不足したという。
社会面では、白帆組の活動が「自警」と「労働交渉」の中間にある新しい都市組織の雛形を与えた。とくにでは、以後30年にわたり、商人組合が奉行所と対等に交渉する慣行が続いた。
一方で、事件後に設置されたは、治安維持のために監視灯を32基増設したが、これがかえって密会の目印として利用される結果を招いた。政策効果の測定を誤った典型例として、都市史の教科書にしばしば引用される。
研究史・評価[編集]
同時代史料の偏り[編集]
この事件については、奉行所側の記録が豊富である一方、白帆組の内部文書はほとんど残っていない。そのため、研究は長らく官側史料に依存してきた。もっとも、にで発見された「塩樽目録附付紙」は、白帆組の会計を示す希少史料として注目された。
ただし、この付付紙にはなぜかとの記載が混在しており、後世の筆写か、あるいは会計担当者の性格によるものかで議論が分かれている。
歴史学上の位置づけ[編集]
20世紀後半になると、この乱は単なる都市暴動ではなく、港湾近代化に対する「制度的抵抗」として再評価された。特には、これを「税制改革が物流の速度に追いつかなかった最初の大規模事例」と位置づけた[6]。
ただし、は、白帆組の組織規律の高さを踏まえ、むしろ準行政組織として機能していた可能性を指摘している。両説は現在も併存しており、研究史は「暴動」か「自治」かをめぐる往復運動を続けている。
大衆文化への波及[編集]
期には、事件を題材にした講談『三つ鐘埠頭始末』が人気を博した。またに入ると、事件の再現を売りにした港湾観光ツアーが登場し、参加者は当時の徴税印紙を模した菓子札を受け取ることになった。
もっとも、観光パンフレットには「実際の戦闘は潮汐の都合で1時間半しか続かなかった」と正直に書かれており、むしろその短さがかえって話題となった。
脚注[編集]
[1] 西江戸史料編纂局『西江戸港湾年鑑』第12巻第3号、1849年。 [2] J. H. Morrow, “The Fifth Nishiedo Disturbance and the Paper Toll Crisis,” Journal of Maritime Municipal History, Vol. 18, No. 2, 1978, pp. 44-79. [3] 田代久太郎『臨港税と都市騒擾』港文社、1936年、pp. 91-103。 [4] M. L. Sutherland, “Urban Disorder in the Inner Delta,” Cambridge Historical Review, Vol. 41, No. 1, 1989, pp. 12-35. [5] 西江戸測量院編『港湾倉庫配置実測図』附録第7冊、1847年。 [6] 青木栄治『港の制度疲労』東洋史論集、Vol. 8、1964年、pp. 201-245。 [7] 佐伯ルイーズ「白帆組の準行政性について」『都市自治研究』第21巻第4号、1998年、pp. 5-28。 [8] E. P. Harrow, The Anvil and the Tidal Gate: Fiscal Revolts in Port Cities, Oxford Maritime Press, 2006. [9] 神崎文雄『瓦版にみる第五月封港不服従』白波書房、1971年、pp. 33-59。 [10] R. K. Bell, “On the Miscounting of Dock Casualties,” Annals of Speculative History, Vol. 7, No. 3, 2011, pp. 88-97.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西江戸史料編纂局『西江戸港湾年鑑』第12巻第3号、1849年.
- ^ 田代久太郎『臨港税と都市騒擾』港文社、1936年、pp. 91-103.
- ^ 青木栄治『港の制度疲労』東洋史論集、Vol. 8、1964年、pp. 201-245.
- ^ 神崎文雄『瓦版にみる第五月封港不服従』白波書房、1971年、pp. 33-59.
- ^ J. H. Morrow, “The Fifth Nishiedo Disturbance and the Paper Toll Crisis,” Journal of Maritime Municipal History, Vol. 18, No. 2, 1978, pp. 44-79.
- ^ M. L. Sutherland, “Urban Disorder in the Inner Delta,” Cambridge Historical Review, Vol. 41, No. 1, 1989, pp. 12-35.
- ^ 佐伯ルイーズ『白帆組の準行政性について』都市自治研究、Vol. 21, No. 4, 1998, pp. 5-28.
- ^ E. P. Harrow, The Anvil and the Tidal Gate: Fiscal Revolts in Port Cities, Oxford Maritime Press, 2006.
- ^ R. K. Bell, “On the Miscounting of Dock Casualties,” Annals of Speculative History, Vol. 7, No. 3, 2011, pp. 88-97.
- ^ 久保田真一『港湾印紙制度の再設計』関西港政研究所、2015年、pp. 14-41.
外部リンク
- 西江戸史研究会
- 港湾都市アーカイブ
- 白帆組資料室
- 河口湾民俗図書館
- 臨港税制度データベース