純金の桂馬
| 名称 | 純金の桂馬 |
|---|---|
| 読み | じゅんきんのけいま |
| 英語名 | Solid Gold Knight |
| 分類 | 将棋用意匠駒・工芸品 |
| 成立期 | 明治38年頃 - 大正7年頃 |
| 主産地 | 東京都日本橋、京都市五条、金沢市尾張町 |
| 材質 | K24相当の純金および硬化銀芯 |
| 用途 | 献上、儀礼、観賞、験担ぎ |
| 保存先 | 旧三井倶楽部写し図版、個人蔵、数点不明 |
純金の桂馬(じゅんきんのけいま、英: Solid Gold Knight)は、の駒の一種として扱われることがある上の特殊駒である。主として末期から初期にかけて、献上品、鑑賞用駒、ならびに勝負祈願の縁起物として流通したとされる[1]。
概要[編集]
純金の桂馬は、のを模した純金製の装飾駒であり、実戦用というより、対局の祝賀、勝負運の向上、あるいは富裕層の趣味的蒐集の対象として扱われたとされる。文献上はの工芸商による「特殊献上駒」の一類型として現れ、当初は二枚一組で納められることが多かった[2]。
もっとも、現存品の多くは極端に薄い板状で、重量は見た目ほどではない。これは盗難対策ではなく、将棋盤に置いた際の打音を木駒に近づけるための工夫であったと説明されることがあるが、実際には展示ケースが重すぎて運搬に難があったためとする説もある[3]。なお、の老舗では「金が勝ち筋を曇らせる」として、わざと片面だけ梨地にする流儀が伝えられたという。
起源[編集]
献上駒としての成立[編集]
純金の桂馬の起源は、にの商人・がの優勝記念として、対局者の名を彫った金駒一式を作らせたことにあるとされる。とりわけ桂馬は跳躍の象徴として好まれ、金箔ではなく純金を用いることが「飛び越える運を呼ぶ」と説明された[4]。
この意匠はの金工家により洗練され、馬の耳にあたる部分へ微細な鎚目を入れることで、光を受けると盤上でわずかに揺れて見える効果が与えられた。蘭堂は後年、「桂馬は歩兵よりも先に疲れるが、金であれば疲れを見せぬ」と語ったと伝わるが、出典は不明である。
東京圏への普及[編集]
末期には、の贈答品店が富裕な実業家向けに「勝運一式」と称して販売したことで、純金の桂馬は都市文化の記号となった。とくにの催事では、盤と駒箱を合わせて六十七点の展示が行われ、そのうち桂馬のみを別枠で照明する演出が評判を呼んだ[5]。
一方で、当時の新聞には「金の駒は気が散る」「歩が戻るたび金が鳴る」といった苦情も掲載された。これに対し、販売側は「視覚的な昂揚が勝負を整える」と反論したが、実際には棋士よりも見物客の方が熱心であったと見られている。
製法と意匠[編集]
純金の桂馬の標準仕様は、厚さ0.8ミリから1.3ミリ、縦28ミリ、横24ミリ前後とされ、内部に銀または銅の補強芯を入れる例が多かった。これは純金の柔らかさによる変形を防ぐためであるが、職人の間では「芯を入れると桂馬が素直になりすぎる」とも言われた[6]。
意匠面では、通常のよりも跳躍線が深く刻まれ、裏面に家紋や俳句、さらには初期のものでは応援メッセージが極小文字で彫られることがあった。なかには対局相手の姓名判断に基づき、左右の耳の長さを0.3ミリだけ変えた個体も確認されているという。
また、戦前期の一部製品には、光沢を抑えるために蜜蝋と米ぬかを混ぜた「盤面落ち着かせ油」が塗布されていた。これは後に「食用か工芸用か判別できない」と問題になり、の保存修復班が一年半かけて除去した記録が残る。
流通と所有者[編集]
商家・実業家による需要[編集]
純金の桂馬を最も多く所蔵したのは、・の商家、の繊維業者、ならびにの貿易商であったとされる。彼らは年末年始の挨拶回りで、桐箱に納めた桂馬を「勝ち残りの証」として披露したという。
のある記録では、ある紡績会社の社長が、純金の桂馬を役員会の席札代わりに用い、議案に賛成する者だけが駒を左袖へ移せるという奇妙な慣行を行った。この制度は三か月で廃止されたが、会議の出席率は前年より18パーセント上がったと報告されている。
寺社への奉納[編集]
一部の純金の桂馬はや近辺の文人・棋客によって奉納され、勝負運の成就を祈る対象になった。奉納札には「飛躍」「一手先」などの語が多く、桂馬の跳躍と受験、昇進、縁談を結び付ける俗信が広まった[7]。
ただし、奉納された桂馬のうち少なくとも二点が夜間に持ち出され、翌朝にはなぜか金箔の上から墨で「負けても礼儀」と書き足されていた事件がある。神職はこれを「参拝者の熱意の表れ」としたが、地元では近隣の棋会の仕業とみる向きが強い。
社会的影響[編集]
純金の桂馬は、将棋を単なる競技から「見せる嗜好品」へ変質させた代表例とみなされることがある。大正期の新聞は、対局の勝敗そのものよりも、どの桂馬が最も照明を反射したかを写真付きで報じ、結果として銀細工、漆工、布張りの駒箱まで一体の市場が形成された[8]。
また、の風俗調査では、純金の桂馬を見た少年の34.6パーセントが「将棋は金持ちのものだと思った」と回答したとされ、これが後の普及策に影響したとする説がある。一方で、地方の町道場では「まず歩を大事にせよ」として木地の素朴さを再評価する運動が起こり、結果として純金の桂馬は高級品としての地位を強めた。
なお、昭和戦前期には、景気の悪化を受けて桂馬の裏面だけを金張りにする「半純金式」が流行した。これは節約と体裁の両立として歓迎されたが、盤上でひっくり返るとただの薄板に見えるため、観客の失望を招いたともいわれる。
批判と論争[編集]
純金の桂馬をめぐっては、しばしば「勝負の公平性を損なう」との批判が出された。とくに、系の論説委員は、金の重みが棋士の心理に作用し、桂馬の跳躍感覚を過剰にするため、実戦では「見た目の勝ち筋」に誘導されると主張した[9]。
これに対し支持派は、将棋はもともと精神文化であり、純金の桂馬は「気配を磨く道具」であると反論した。ただし、実際に対局した棋士の回想録には「盤面がまぶしく、相手の王将より先に自分の目が詰んだ」との記述があり、少なくとも視認性に関する問題は存在したと考えられている。
さらに、戦後の再評価の過程で、純金の桂馬の多くが溶解されてや装身具に転用されたことが批判された。保存会はこれを「文化財の自己変形」と呼び、以後は展示時に駒を布で覆い、必要時のみ一手ずつ公開する方式を採った。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺喜兵衛『献上駒と都市趣味』日本工芸研究会, 1911年.
- ^ 小林蘭堂『鎚目と跳躍: 桂馬意匠の実際』京都金工叢書, 第2巻第4号, 1914年.
- ^ 佐伯辰夫「純金駒の流通圏について」『風俗史学』Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 1920年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Gold Chess Pieces and Urban Gift Economies," Journal of East Asian Material Culture, Vol. 3, No. 1, pp. 44-67, 1922.
- ^ 山縣勇三郎『将棋と贈答の近代』中央実業出版社, 1927年.
- ^ 田島白舟「盤面落ち着かせ油の成分に関する一考察」『工芸保存』第11巻第3号, pp. 201-214, 1931年.
- ^ N. K. Haversham, "A Whispering Knight: Prestige and Play in Prewar Japan," Antiquarian Games Review, Vol. 12, No. 4, pp. 301-318, 1938.
- ^ 東京高等商業学校社会調査部『玩具と階層意識』調査報告第19号, 1940年.
- ^ 大村千代『金箔駒の文化史』東洋民俗出版, 1954年.
- ^ 黒田匠三「半純金式桂馬の保存と損耗」『美術修復通信』第6巻第1号, pp. 9-22, 1962年.
外部リンク
- 日本将棋工芸研究所
- 近代献上品アーカイブ
- 金工史料データベース「槌音」
- 東京盤上文化館
- 昭和贈答品資料室