給食の選挙制度
| 正式名称 | 給食献立選定民主化制度 |
|---|---|
| 通称 | 給食の選挙制度 |
| 開始年 | 1949年頃 |
| 提唱者 | 大沢栄一郎、ヘレン・M・クレイン |
| 主管 | 文部省 学校給食民主化準備室 |
| 対象 | 小学校・中学校の給食献立 |
| 主な方式 | 学級代表制、週替わり投票、補欠献立制度 |
| 関連法令 | 学校給食選定臨時措置要綱 |
| 廃止・改変 | 1978年以降、自治体条例へ移行 |
給食の選挙制度(きゅうしょくのせんきょせいど、英: School Lunch Electoral System)は、学校給食の献立を児童生徒の投票によって決定するための制度である。戦後のにおける関連の草案をもとに、ごろから内部で試験的に導入されたとされる[1]。
概要[編集]
給食の選挙制度は、学校給食の献立を行政職員や栄養士のみで決めるのではなく、児童生徒の投票によって一定割合を選定する制度である。投票は多くの場合、月曜朝のホームルームで実施され、主食・主菜・副菜・汁物の各区分に候補が立てられたとされる。
制度の目的は、食育と自治教育を同時に実現することにあったと説明されるが、実務上は「揚げパン連合」と「カレー再選派」が学級内で強い影響力を持ったことでも知られている。なお、の一部校では投票率が97%を超え、実質的にパンの日の争奪戦になったという記録が残る[2]。
成立の経緯[編集]
戦後復興期の献立民主化[編集]
制度の起点は、のにあった臨時給食協議会であるとされる。当時、粉ミルクと脱脂粉乳中心の献立に対して児童の不満が高まり、栄養士のが「食べ残しは無言の不信任票である」と述べたことが契機になったという。
この発言は後に『学校給食自治論』としてに活字化され、そこへ来日中の教育顧問が、米国の学級委員選出方式を応用した投票制を提案したとされる。ただし、一次資料の多くが焼失しているため、この経緯には諸説がある[3]。
最初の実施校[編集]
最初の本格実施校はの旧芝浦第三小学校であるとされ、に「月例献立選出会」が開かれた。ここでは白票・棄権票も集計され、得票数が同数の場合は校庭でのじゃんけんではなく、学級代表による公開討論で決定された。
当時の児童記録によれば、初回投票ではが最多票を獲得したが、調理室の油が不足していたため、最終的にはに差し替えられた。この出来事が「制度はあるが食材はない」という後の運用原理を決定づけたとされる。
制度の仕組み[編集]
献立候補の指名方式[編集]
候補は学級内の「献立推薦紙」によって指名され、以上の推薦で正式候補となった。候補者は料理名だけでなく、栄養価、調理時間、食器の返却しやすさまで公約として掲示され、いわば「食べる前の政見放送」が行われた。
ただし、揚げ物系は油煙が強いため掲示板の右側に追いやられる傾向があり、これを「油圧バイアス」と呼ぶ編集者もいる。公正性確保のため、は1952年に「一週一主菜・二週一麺」の上限規制を通達したが、実際には焼きそば勢力の根強い抵抗があった。
投票と集計[編集]
投票は無記名式であることが原則とされたが、低学年では箸の使い方によって票の傾向が読み取れるため、教師が実質的に監視していたとされる。集計は黒板上で行われ、が白チョーク、が候補名を読み上げる方式が一般的であった。
なお、の某校では、バターロールの票が不正に水増しされたとして再集計騒ぎが起き、翌週から「パン票は袋の数で管理する」という厳格な規定が追加された。これが後の給食監査制度の原型になったという。
補欠献立制度[編集]
制度の独特な点として、必ず第1位の献立だけでなく、第2位以下の「補欠献立」が日替わりで編成された。これは主材料の供給遅延や、前日に大人気だった献立の翌日反動を避けるための安全装置である。
たとえばのでは、が2週連続で当選したため、翌月の補欠献立としてが急増し、児童の間で「静かな反乱」と呼ばれた。のちに栄養教諭のがこの現象を「味覚の政権交代」と定義したとされる。
地域別の展開[編集]
制度は全国一律に広がったわけではなく、自治体ごとに選挙文化の反映が著しかった。では寺院の寄付名簿に倣って連記投票が導入され、では「とんこつ枠」が常設された。の学校では積雪により投票箱の移動が困難だったため、冬季は学級日誌への挙手機械判定で代替したとされる。
一方で、では米軍統治下の名残から英語表記の候補札が混在し、「Miso Soup」と「味噌汁」が別候補として扱われる混乱もあった。この二重表記問題は、1970年代の統一献立会議でようやく解消されたが、地元では今も年配者が区別して語ることがある。
社会的影響[編集]
給食の選挙制度は、単なる献立決定の仕組みを超えて、児童に多数決、連合、妥協、敗北受容を教える教育装置として評価された。特に以降は、学級会での議長選出と合わせて「食卓の国会」と呼ばれ、社会科教材にも部分的に採用された。
また、給食で当選経験のある献立は家庭でも人気が高まり、やは地域商店街の売上に影響したとされる。なお、一部の研究者は、これにより日本の子どもたちの将来の投票行動に「炭水化物を選びやすい傾向」が形成されたと指摘している[4]。
批判と論争[編集]
制度に対する批判としては、第一に「人気献立が固定化しやすく、栄養の多様性が損なわれる」という指摘があった。第二に、調理室の能力を超える公約が乱発されるため、選挙後に現実的な修正が頻発したことである。
とくにのでは、児童会が「毎週プリン」を公約した候補を当選させたものの、学校栄養士会がこれを拒否し、三日間の昼休みボイコットに発展した。この事件は「プリン議会解散事件」と呼ばれ、制度史上最大の論争として扱われている。
衰退と再評価[編集]
管理合理化による縮小[編集]
に入ると、自治体の給食センター化が進み、学校単位の細かな投票は事務負担が大きいとして縮小された。特にの「学校給食標準化通知」以降、制度は形式上のアンケート制度へ置き換えられ、実質的な選挙権は消滅したとされる。
ただし、の一部私立校では、今なお月末の献立決定に学級代表の票を参考にしており、これを「名誉制度」として継承している。
食育史における再評価[編集]
近年は、子どもの主体性を育てた先駆的実践として再評価が進んでいる。とりわけにの研究員が発表した報告では、給食の選挙制度が「民主主義の最初の成功体験」として機能した可能性が示唆された。
もっとも、同報告書では同時に「好き嫌い票と政策判断票の区別が曖昧である」とも指摘されており、制度の教育効果と偏食助長効果が紙一重であったことがうかがえる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 大沢栄一郎『学校給食自治論』東京学芸出版, 1949.
- ^ Helen M. Crane, "Lunchroom Ballots and Civic Habits", Journal of Progressive Education, Vol. 12, No. 3, 1951, pp. 44-61.
- ^ 文部省学校給食民主化準備室『学校給食選定臨時措置要綱』内閣印刷局, 1952.
- ^ 西尾みつ子『味覚の政権交代: 戦後学校給食史ノート』新潮学術選書, 1967.
- ^ 高橋理恵「給食選挙制度における参加行動の形成」『教育政策研究』第18巻第2号, 2004, pp. 88-109.
- ^ M. A. Thornton, "Children, Choice, and Soup: Comparative Notes on School Meal Voting", British Journal of Civic Nutrition, Vol. 7, No. 1, 1963, pp. 5-19.
- ^ 『学校給食史資料集 第4巻』全国学校給食会, 1979.
- ^ 佐伯康夫『献立と民主主義』岩波書店, 1988.
- ^ 田所真理子「補欠献立制度の運用実態」『栄養と行政』第23巻第4号, 1992, pp. 201-218.
- ^ G. H. Mallow, "The Pudding Parliament Incident: A Municipal Case Study", Educational Administration Review, Vol. 9, No. 4, 1970, pp. 233-240.
外部リンク
- 全国学校給食史アーカイブ
- 文部省旧指令資料室
- 献立民主化研究会
- 子ども投票文化保存協会
- 食卓政治年表データベース