芹 ゆう子
| 氏名 | 芹 ゆう子 |
|---|---|
| ふりがな | せり ゆうこ |
| 生年月日 | 1931年4月18日 |
| 出生地 | 東京都下谷区 |
| 没年月日 | 1994年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗舞踊研究家、舞台演出家、記譜法考案者 |
| 活動期間 | 1953年 - 1993年 |
| 主な業績 | 芹式所作譜の確立、都市祭礼の再構成、浅草周辺の口承芸能調査 |
| 受賞歴 | 日本舞台民俗学会特別賞、芸能記録功労章 |
芹 ゆう子(せり ゆうこ、1931年 - 1994年)は、日本の民俗舞踊研究家、舞台演出家である。とりわけ「芹式所作譜」の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
芹 ゆう子は、日本の民俗舞踊研究家、舞台演出家である。戦後東京都の下町芸能を体系化し、身体動作を音符と漢字を併用して記述する「芹式所作譜」を提唱した人物として知られる[1]。
彼女の研究は、浅草の見世物小屋、上野の野外演芸、墨田川沿いの盆踊りを横断的に扱った点に特色があり、のちに日本民俗学会や文化庁の資料整理にも影響したとされる。ただし、本人が終生「私は学者ではなく、譜面の番人である」と述べたという逸話が残る[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1931年、芹は東京都下谷区の紙問屋の家に生まれる。幼少期より家業の帳面を手伝う一方、近隣の三社祭の囃子に強い関心を示し、8歳のころには露店の足拍子を模写して父を驚かせたと伝えられる[1]。
1945年の空襲で家屋を失ったのち、一家は埼玉県浦和町へ疎開した。芹はそこで寺の庫裏に残されていた古い舞踊記録と出会い、以後、踊りを「消えていく順番のある言語」として捉えるようになったという。
青年期[編集]
戦後の1949年、芹は日本女子大学に進学したとされるが、在籍記録には揺れがあり、夜間聴講生だったという説もある。大学では折口信夫系の民俗学に強い影響を受け、特に祭礼で使われる足運びの地域差に関心を深めた[2]。
1953年、東京芸術劇場の前身となる実験公演組織の記録係として採用され、舞台袖で役者の所作を秒単位で書き留める仕事を始める。この時期に、動作を「角度」「重心」「沈黙時間」に分解して記述する独自の方法を着想したとされる。
活動期[編集]
1961年、芹は民俗芸能研究所の嘱託として岩手県遠野、新潟県佐渡、沖縄県那覇を巡回し、口承芸能の動作比較調査を行った。現地ではノートを一冊ごとに色分けし、赤は「跳躍」、青は「視線」、黄は「沈黙」に割り当てたという[3]。
1968年に発表した『都市祭礼の骨格』では、祭りを「音の出る都市計画」と定義し、新宿の歩行者天国における群衆の流れまで分析対象に含めた。この論文は一部の都市計画家から珍書として扱われた一方、若い演出家には強い影響を与えた。
1974年、芹は「芹式所作譜」を完成させた。これは、手の振りを五線譜上の記号で表し、足さばきを漢数字、視線の方向を矢印、間合いを余白で示す方式である。1976年には国立劇場で公開講座が開かれ、受講者は毎回126名に限定されたが、初回のみ定員を38名超過したという。
人物[編集]
芹は几帳面で寡黙な人物として語られることが多いが、実際には研究会のあとに必ず甘酒を3杯飲み、机上の紙を方位磁針で整える癖があったという。弟子たちはこの習慣を「北を向かないと所作が崩れる」と呼び、半ば儀式のように扱った[2]。
また、芹は衣装に強いこだわりを持ち、季節に関わらず鼠色の羽織を着用した。本人は「色は身体の余白である」と説明したが、実際には若いころに染物屋で起きた事故で鮮色を嫌うようになったともいわれる。
逸話として有名なのは、1969年の講演で停電が起きた際、芹が暗闇のまま30分間、拍子木だけで聴衆に「都市の裏返しの踊り」を再現させた話である。記録によれば、参加者の7割がその後2日間、階段の上り下りを無意識に同じ歩幅で行ったという。
業績・作品[編集]
芹式所作譜[編集]
芹の最大の業績は、舞踊や祭礼の動きを視覚的に保存する「芹式所作譜」の考案である。これは音楽記号、漢字偏旁、縦書きの余白を組み合わせた独自記法で、1分間の踊りを平均14行で記述できたとされる[3]。
国立国会図書館には、その写本が12冊分散して保存されているとされ、うち2冊は虫損のため読めないが、逆にそれが「読めない部分も伝承である」と高く評価された。
主な著作[編集]
代表作に『都市祭礼の骨格』、『足拍子の地理学』、『下町の沈黙と太鼓』などがある。いずれも学術書と随筆の中間に位置し、本文中に突然「浅草六区の鳩は拍を知っている」といった断定が混ざるのが特徴である[4]。
また、晩年の未刊行原稿『夜の盆踊り配列図』は、1997年に弟子の手で補訂出版され、地方の公民館で思いのほか売れた。特に巻末の「踊り出さない夜の扱い」という章は、自治体職員の間で秘伝書のように読まれたとされる。
後世の評価[編集]
芹の業績は、1970年代後半から1990年代にかけて再評価が進んだ。とりわけ早稲田大学や東京大学の芸能史研究会では、彼女の記譜法が口承文化の保存に新しい視点を与えたとされる[5]。
一方で、芹式所作譜は記号が複雑すぎるとして普及に失敗した面もある。1990年代末には「5行の所作を読むのに3時間かかる」と批判されたが、逆にその非効率さが実演の再解釈を促したとの指摘もある。
近年では、東京都現代美術館で開催された関連展示において、芹のノートが「都市の身体を測るための未完の地図」と紹介され、若いダンサーや映像作家の間で再び名前が挙がるようになった。もっとも、展示の終盤に置かれた実物大の拍子木は、来館者の半数近くが用途を理解できなかったという。
系譜・家族[編集]
芹家は江戸後期から続く紙問屋の家系とされ、祖父の芹彦三郎は浅草で帳場を切り盛りしていたという。父・芹義平は戦前に日本橋で和紙流通に従事し、母・芹としは近隣の子どもに手習いを教えていた[6]。
夫は舞台美術家の相沢俊一とされるが、婚姻記録には一部不整合があり、研究者の間では事実婚説も根強い。子どもはなく、弟子筋を「家族より先に譜面を読む者たち」と呼んでいたという。
なお、芹の遠縁には太鼓職人や提灯絵師が多く、本人の所作研究に暗黙の協力をしたとされる。孫世代にあたる人物が2020年代に地方祭礼の復元で注目されたというが、系図の整合性は十分に確認されていない[要出典]。
脚注[編集]
[1] 芹ゆう子記念研究会編『芹式所作譜入門』芹記録社、1998年。
[2] 佐伯澄子「下町芸能と戦後身体論」『舞台民俗学紀要』第12巻第3号、1979年、pp. 41-68。
[3] Morita, H. “Notation of Urban Folk Motion: The Seri Method.” Journal of Japanese Performance Studies, Vol. 8, No. 2, 1981, pp. 103-129.
[4] 渡会真一『踊りの誤差学』文化保存出版、2004年。
[5] Nakamura, Elise. “Reconstructing Silence: Yuko Seri and the City Ritual Archive.” East Asian Arts Review, Vol. 15, No. 4, 2011, pp. 22-49.
[6] 芹家文書編纂委員会『芹家系図補遺』私家版、2001年。
脚注
- ^ 芹ゆう子記念研究会編『芹式所作譜入門』芹記録社, 1998年.
- ^ 佐伯澄子「下町芸能と戦後身体論」『舞台民俗学紀要』第12巻第3号, 1979年, pp. 41-68.
- ^ Morita, H. “Notation of Urban Folk Motion: The Seri Method.” Journal of Japanese Performance Studies, Vol. 8, No. 2, 1981, pp. 103-129.
- ^ 渡会真一『踊りの誤差学』文化保存出版, 2004年.
- ^ Nakamura, Elise. “Reconstructing Silence: Yuko Seri and the City Ritual Archive.” East Asian Arts Review, Vol. 15, No. 4, 2011, pp. 22-49.
- ^ 芹家文書編纂委員会『芹家系図補遺』私家版, 2001年.
- ^ 高瀬玲子「盆踊りの都市化と記譜」『日本芸能研究』第21巻第1号, 1988年, pp. 5-31.
- ^ Watanabe, Colin. “Margins of the Dance Score.” Archive Studies Quarterly, Vol. 3, No. 1, 1996, pp. 77-94.
- ^ 北条美紀『拍子木と地図』中央記録社, 1973年.
- ^ Suzuki, Petra. “The Curious Case of the Silent Parade.” Performing Arts Review, Vol. 19, No. 2, 2015, pp. 140-162.
外部リンク
- 芹ゆう子記念アーカイブ
- 下町芸能資料室
- 日本舞台民俗学会デジタル年報
- 東京都市祭礼研究センター
- 国立劇場所作譜閲覧室