菅江 桐薫
| 氏名 | 菅江 桐薫 |
|---|---|
| ふりがな | すがえ きりか |
| 生年月日 | 1898年4月12日 |
| 出生地 | 青森県五所川原町 |
| 没年月日 | 1971年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗植物採取家、香草記述者、調香批評家 |
| 活動期間 | 1919年 - 1968年 |
| 主な業績 | 移香採集法の体系化、桐皮帳の作成、寒地香草誌の編纂 |
| 受賞歴 | 北方文化研究賞、青森県文化奨励章 |
菅江 桐薫(すがえ きりか、 - )は、の民俗植物採取家、香草記述者である。とくにの山村における「移香採集」の記録者として広く知られる[1]。
概要[編集]
菅江桐薫は、末期から中期にかけて活動した民俗植物採取家である。山野に自生する草木の匂いを採取・記述し、それを村落の生活史や交易の変遷と結びつけて考察したことで知られる[1]。
その活動は、の私設研究会「北奥植物香記録会」を中心に広がったとされ、後年にはの植物分類学者や、の郷土史研究者からも注目を集めた。もっとも、桐薫自身は学術的な分類よりも、風の向きや炭焼き小屋の位置といった現地の条件を重視していたといわれる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
桐薫は、西部のに生まれる。父は木地師、母は薬草を扱う行商人であったとされ、幼少期から山の匂いを言葉に置き換える習慣を身につけたという[3]。
一方で、近隣の寺に伝わる『草香見聞録』を読み耽ったことが、のちの研究姿勢に決定的な影響を与えたとする説が有力である。ただし、この文献自体が地方の口承をもとに再構成されたもので、実在性についてはなお議論がある[要出典]。
青年期[編集]
、桐薫はへの進学を試みるが、入学直前に家業を手伝うため中退したとされる。その後、の呉服店で帳場を務めつつ、各地の市で香草の見本を集めるようになった。
にはので開かれた民俗講話会に参加し、そこで植物採集を「標本」ではなく「生活の痕跡」として扱うべきだと主張した。この発言が注目され、講話会の記録係であったの知遇を得たという[4]。
活動期[編集]
、桐薫は私家版の小冊子『移香採集法試論』を刊行し、匂いを採取するための紙袋、柾目箱、凍結防止用の薄綿などを組み合わせた独自の採取具を提案した。採取の際には、必ず東西南北の順に草木へ鼻を近づけ、3回目の呼気で記録するという細則まで設けられていた[5]。
にはで開催された北方生活文化展に出品し、雪解け期の内陸部で採取した「湿った山椒の匂い」を再現した展示で話題となった。この展示は観覧者の評判が極端に分かれ、好意的な批評家は「嗅覚による地方史」と呼び、否定的な新聞は「台所の残り香を科学に装うもの」と評したとされる。
晩年と死去[編集]
はに一時移り、寒地香草誌の整理と、未発表草稿『桐皮帳断片』の補筆に費やした。晩年は嗅覚の衰えを自覚し、代わりに紙や繊維が吸った匂いを読む「間接採香」を提唱したが、実地の再現性については賛否が分かれた[6]。
9月3日、で死去した。死因は慢性気管支炎とされるが、最期まで枕元にの封筒と、未整理の香草標本34点を置いていたという逸話が残る。葬儀では参列者が一人ずつ小袋の乾燥よもぎを持ち寄り、会場全体が「春の土蔵のような匂い」になったと記録されている。
人物[編集]
桐薫は寡黙で偏屈な人物として知られる一方、記録の細かさでは群を抜いていた。たとえば、山道で採取した草の記録には、葉脈の数だけでなく、採取時の風速、履物の湿り具合、同行者の咳の回数まで書き込んだとされる。
性格面では、他人の比喩をそのまま採用せず、必ず自分の匂いの語彙に置き換えたという逸話がある。海の潮の匂いを「塩を含んだ障子紙」と記した記述は、彼の代表的な比喩として今も引用される[7]。
また、の料亭で出された味噌汁の匂いが良いと褒めた際、翌日わざわざ同じ鍋底を再現させたという話も残る。本人は「再現できぬ匂いは観察ではない」と述べたとされるが、この発言は弟子の回想録にしか見えず、後世の創作とみる向きもある。
業績・作品[編集]
桐薫の主要業績は、匂いを地域文化の一次資料として扱う姿勢を確立した点にある。代表作『寒地香草誌』では、からにかけての採取地点を37区分し、それぞれについて土壌、炭窯、鍬先、保存容器まで関連づけて論じた。
『移香採集法試論』は、後にの教材として一部引用され、1940年代には「香気の地図化」という概念の先駆けとして再評価された。もっとも、地図の凡例に「晴天時は匂いが三割ほど軽い」とあるなど、定量性には疑問も多い[8]。
晩年にまとめられた『桐皮帳断片』は、樹皮に擦り付けた香草の記録を短冊状に綴じたもので、現存する18冊のうち4冊はに、2冊は私人の蔵にあるとされる。なお、残る12冊の所在については、本人が「雪の夜に匂いごと埋めた」と語ったという証言があり、真偽は定かではない。
後世の評価[編集]
以降、桐薫は民俗学と植物学の境界領域を切り開いた先駆者として評価されるようになった。の研究会では、彼の方法を「嗅覚民俗誌」と呼び、土地の記憶を匂いから再構成する試みとして紹介している。
一方で、学界では「観察対象が主観に依存しすぎる」「記録語彙が個人的すぎる」との批判も根強い。特にに公刊された追悼論文集では、編集者の一人が桐薫の文章を「百科事典の体裁を借りた私的嗅覚日誌」と評し、以後この言い回しが半ば定着した[9]。
それでも、の一部自治体では、桐薫の採取地点をもとにした「匂い散策路」が整備されており、観光案内では春の湿地、製材所跡、味噌蔵の順に歩くと最も彼の記述に近い体験が得られるとされている。
系譜・家族[編集]
桐薫の家系は、の木地師系譜と、行商を生業とした母方の薬草系譜が交差する複雑なものとされる。父・菅江清右衛門は漆器の下地材として用いる木粉の扱いに長け、母・菅江トメは山仕事の合間に乾燥薬草を交換していたという。
配偶者については頃にの染物屋の娘と婚姻した記録があるが、戸籍と手控えの表記が一致しないため、研究者の間では別人婚姻説も出ている。子は二女一男とされるが、長女の菅江美夜子のみが香草採取を継いだとみられる。
また、晩年に同居していた甥の菅江桐一は、桐薫の草稿を整理した中心人物であった。桐一は後に「叔父は人より先に匂いと会話していた」と述懐したが、この表現が広まりすぎたため、いまでは半ば決まり文句になっている。
脚注[編集]
[1] 北奥植物香記録会編『寒地香草誌序説』北方文化社、1964年。
[2] 渡辺彬一郎「嗅覚と地方史の接点」『北奥民俗』Vol. 12, 第3号, pp. 18-29, 1934年。
[3] 菅江美夜子『父の匂い帳』私家版、1982年。
[4] 青森県民俗講話会『会報』第7号、1921年。
[5] 菅江桐薫『移香採集法試論』自筆謄写版、1926年。
[6] 松本香気資料保存会「桐薫晩年草稿目録」『信州文化研究』第9巻第1号、1972年、pp. 41-55。
[7] 佐々木圭介『匂いの修辞学』東北書房、1959年。
[8] 北方民俗研究所編『香気地図化の可能性』研究報告第14号、1948年。
[9] 追悼論文集編集委員会『菅江桐薫と北方の嗅覚史』みちのく出版、1978年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺彬一郎『嗅覚と地方史の接点』北奥民俗社, 1934.
- ^ 菅江桐薫『移香採集法試論』謄写版, 1926.
- ^ 佐々木圭介『匂いの修辞学』東北書房, 1959.
- ^ 北奥植物香記録会編『寒地香草誌序説』北方文化社, 1964.
- ^ 松本香気資料保存会『桐薫晩年草稿目録』信州文化研究, Vol. 9, 第1号, pp. 41-55, 1972.
- ^ 追悼論文集編集委員会『菅江桐薫と北方の嗅覚史』みちのく出版, 1978.
- ^ 青森県民俗講話会『会報』第7号, 1921.
- ^ 北方民俗研究所編『香気地図化の可能性』研究報告第14号, 1948.
- ^ 菅江美夜子『父の匂い帳』私家版, 1982.
- ^ 遠野一成『匂いで読む村落史』新潮社, 1991.
外部リンク
- 北奥民俗アーカイブ
- 青森香草資料館
- 東北嗅覚文化研究会
- 桐薫文庫デジタル目録
- みちのく匂い史年表