衛藤 悠希
| 人名 | 衛藤 悠希 |
|---|---|
| 各国語表記 | Yuki Eto |
| 画像 | Eto_Yuki_1949.jpg |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像説明 | 1949年撮影とされる衛藤 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本国旗 |
| 職名 | 政治家 |
| 内閣 | 第3次衛藤内閣 |
| 就任日 | 1952年8月10日 |
| 退任日 | 1956年12月23日 |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 没年月日 | 1976年11月2日 |
| 出生地 | 熊本県阿蘇郡久木野村 |
| 死没地 | 東京都世田谷区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
| 前職 | 逓信省官僚 |
| 所属政党 | 自由国民党 |
| 称号・勲章 | 従一位・大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 衛藤 澄江 |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 衛藤 賢三(甥) |
| サイン | Eto_Yuki_signature.svg |
衛藤 悠希(えとう ゆうき、{{旧字体|衛藤悠希}}、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[4月17日]] - [[1976年]]〈[[昭和]]51年〉[[11月2日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第34代[[内閣総理大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内務大臣]]などを歴任したとされる。
概説[編集]
衛藤 悠希は、戦前・戦後をまたいで活動した日本の政治家である。[[熊本県]]の地方名望家の家に生まれ、[[東京帝国大学]]卒業後は[[逓信省]]に入り、のちに政界へ転じた。[[自由国民党]]の重鎮として頭角を現し、のちに第34代[[内閣総理大臣]]として、[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内務大臣]]を歴任したと伝えられる。
衛藤は官僚出身でありながら、地方利益の調整と大規模公共投資を組み合わせた「調停型開発」を掲げたことで知られる。また、官邸内に設けた「夜間書面決裁制度」により、午前2時に閣議案件が成立したという逸話が残るが、この制度は当時の秘書官記録の一部が欠落しているため、なお検証が続いている[1]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1898年、衛藤は[[熊本県]]阿蘇郡久木野村の旧家に生まれた。父・衛藤徳右衛門は用水路の管理と米穀取引に関わる人物で、村内では「帳簿の徳さん」と呼ばれていたという。衛藤家は代々、村の祭礼費用を肩代わりするほどの資産を持っていたが、1908年の大火で蔵の大半を失い、これが後年の彼の財政観に影響したとされる。
少年期の衛藤は、阿蘇の火口縁を徒歩で観測し、地形図を自作していたと伝えられる。また、近隣の郵便局で差し出し分類を手伝った経験から、行政文書の「回覧の速さ」に執着するようになったともいわれる。
学生時代[編集]
衛藤は[[第五高等学校]]を経て、[[東京帝国大学法科大学]]に入学した。法学部では[[憲法学]]よりも[[行政法]]と[[財政学]]に強い関心を示し、同級生の間では「条文より予算を読む男」として知られた。1919年には学生自治会の臨時書記を務め、学内の暖房費不足をめぐる交渉で、教授会から異例の評価を受けたという。
この時期、衛藤は[[大正]]デモクラシーの空気に触れつつも、急進運動には距離を置いた。もっとも、夜間の討論会で「国家とは巨大な配分装置である」と発言し、出席者の一部から拍手を受けた一方、別の一部からは冷笑されたとされる。
政界入り[編集]
1922年、衛藤は[[逓信省]]に入省し、郵便・電信の予算調整を担当した。地方局の統廃合案をめぐって[[内務省]]と対立したことが、彼の政治家としての名を広める契機となった。1932年には官僚を退き、[[衆議院議員総選挙に立候補]]して初当選を果たした。
当選後は、当時の有力派閥であった「北海研究会」に所属し、のちに[[自由国民党]]結成に参加した。1930年代後半には、地方港湾整備法案の修正を通じて「法案を一字直せば港が一つ増える」と評され、党内で実務家としての地位を確立した。
大蔵大臣時代[編集]
1948年、衛藤は[[大蔵大臣]]に就任した。同年の補正予算編成では、復興資金を「道路・港湾・通信」の三分野に均等配分する案を提示し、関係省庁との折衝により最終的に五分割へ変更された。この変更に際し、衛藤は「数字は妥協の別名である」と述べたとされる[2]。
大蔵大臣としては、戦後インフレ抑制のための通貨吸収策を推進したほか、地方交付金の算定式に人口ではなく「鉄道駅までの距離」を部分的に採用した。これが山間部の支持を集める一方で、都市部からは「地図で税を決めるのか」と批判された。
外務大臣時代[編集]
1950年、衛藤は[[外務大臣]]に転じた。[[サンフランシスコ講和会議]]を前に、連合国側との非公式協議に関わったとされ、特に[[アメリカ合衆国]]の極東局との文言調整で存在感を示した。衛藤は「条約文は1語で戦争を避け、2語で予算を生む」と語ったという。
この時期、彼は[[東京都]][[千代田区]]の外務省分室に「地名索引係」を設け、各国の首都名を五十音順ではなく「海から遠い順」に並べ替える試みを行った。実務上の効果は不明であるが、担当者の間では書類探索がやや速くなったとされる。
内閣総理大臣[編集]
1952年、衛藤は第34代[[内閣総理大臣]]に就任した。これは党内融和の象徴的人事とみられていたが、実際には派閥間の予算配分をめぐる膠着を、衛藤自身が帳簿の記号で解いたことが決め手であったとされる。第1次内閣では道路、港湾、電力の三本柱を掲げ、就任から2か月で全国の主要国道の予備調査を開始した。
第2次、そして第3次衛藤内閣では、農村の電話普及率向上と中小企業向け信用保証制度の拡充が進められた。一方で、官邸地下に「危機対応用の温泉掘削計画」を密かに準備していたとの指摘があるが、これについては当時の官房長官も明確に否定していない[3]。
退任後[編集]
1956年に退任した後も、衛藤は党内長老として影響力を保った。1960年の安保改定をめぐっては、直接の反対声明は出さなかったものの、若手議員に向けて「外交は声量より配線である」と講話したとされる。晩年は東京都世田谷区で静養し、週に一度、旧逓信官僚仲間と郵便番号の変遷をめぐる座談会を開いていた。
1976年に死去。葬儀には与野党の重鎮が多数参列し、弔辞では「衛藤なくして昭和の公共投資なし」とまで称された。なお、遺品の中から各国の首都を赤鉛筆で修正した世界地図が見つかり、現在は一部が党史資料室に保管されている。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
衛藤の内政は、地方分権と中央統制を奇妙に両立させるものであった。彼は「地方は自ら考えるべきだが、予算書は中央で綴じるべきである」と述べ、道路、港湾、上下水道、通信の一体整備を提唱した。とりわけ、人口1万人未満の町村に対しては、交付金算定の際に冬季積雪日数を加味する制度を導入した。
また、衛藤は官庁間の縦割りを「同じ封筒を別々に開けている状態」と批判し、閣議資料の統一書式を作成した。この書式は省庁横断会議の原型ともされるが、実際には書類が増えただけだとの指摘もある。
外交[編集]
外交面では、衛藤は対米協調を基軸としつつ、アジア近隣諸国との経済回廊構想を模索した。彼は在外公館の予算を削減しない代わりに、領事名簿の更新頻度を年4回に固定するなど、細部の合理化を好んだ。1954年の訪米時には、ワシントンD.C.の晩餐会で「同盟は感情ではなく時刻表で測るべきだ」と述べたと記録されている。
一方で、衛藤の外交は冷淡すぎると批判されることもあった。特に近隣外交については、地図上の距離よりも港湾能力を重視したため、「海の向こうを陸の延長として扱っている」と揶揄された。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
衛藤は寡黙であったが、会議では要点だけを三枚のメモにまとめることで知られた。秘書官たちは、彼が赤鉛筆で修正した紙片を「衛藤札」と呼んで保管したという。食事は質素で、晩餐会でも白米と漬物を好んだが、唯一、阿蘇の高菜漬けが出ると演説時間が2分延びたとされる。
逸話として有名なのは、地方視察で駅舎の時計が3分遅れているのを見つけ、翌月には全国の国鉄駅時計校正予算が倍増した件である。また、官邸の廊下で転倒しかけた際、瞬時に「転んだのではない、予算を前倒ししたのだ」と言い換えたという話も残る。
語録[編集]
衛藤の語録としては、「政治とは敵を作ることではなく、封筒を分けることである」「港を作れば人は来る。人が来れば学校が要る。学校が要れば道路が要る」などが知られる。いずれも実際の発言かは不明だが、党内では教育用の短文として繰り返し引用された。
また、晩年の講演録には「国家の仕事は、遅れた書類を現実に追いつかせることである」とある。これは官僚時代の経験をよく示すものとして評価される一方、単に書類の山に埋もれた人の比喩にすぎないとも解釈される。
評価[編集]
衛藤は、戦後復興期の制度整備に大きく寄与した政治家として評価される。特に公共投資、財政再建、地方交付の仕組みづくりに関しては、後の政権が長く参照したとされる。[[東京大学]]公共政策研究所の回顧報告では、彼を「官僚主導から政治主導への橋渡し役」と位置づけている[4]。
一方で、予算規模の拡大を正当化するために、事業計画の名称を頻繁に変更したことから、「命名で工事を進めた男」と批判されることもある。また、官邸内に架空の検討会議が存在したという噂が広がったのは、彼が会議名を略称でしか呼ばなかったためだという。
家族・親族[編集]
衛藤家は阿蘇地方の旧家であり、父・衛藤徳右衛門、母・静子の間に長男として生まれた。妻の澄江は教育熱心な家系の出身で、選挙区では夫の遊説に同行し、実質的な「第二演説者」として知られた。長男の衛藤隆介は銀行勤務、次男の衛藤正彦は通産官僚、長女の衛藤弥生は地方紙記者となった。
親族には、甥の衛藤賢三がいる。賢三は後年、地方自治畑の政治家として活動し、「衛藤の系譜にある世代」と呼ばれた。また、家系図の一部には、明治期の神官と鉄道測量士が混在しており、衛藤本人はこれを「政治家に必要なのは血筋より目盛りである」と説明したとされる。
選挙歴[編集]
1932年の[[衆議院議員総選挙]]で初当選を果たした後、衛藤は1958年まで連続当選を重ねた。戦前は熊本第2区から、戦後は選挙区再編に伴い熊本全県区から立候補し、いずれも地方道路網の整備と郵便局再配置が支持の基盤となった。
1952年総選挙では、台風被害への対応の遅れを争点に、対立候補を大差で破ったとされる。なお、1956年の選挙では、候補者ポスターに「衛藤のいる村は雨が早く止む」と書かれていたが、選挙管理委員会からは厳重注意を受けたという。
栄典[編集]
衛藤は晩年に[[従一位]]および[[大勲位菊花章頸飾]]を受けたとされる。加えて、[[勲一等旭日大綬章]]、[[文化功労者]]顕彰に相当する地方自治特別表彰を受けたとの記録があるが、後者は閣議決定文書の写しのみが残る[5]。
栄典授与式では、衛藤が勲章ケースを開けず、侍従が代わりに留め金を外したという小話が残る。本人は「飾りは要らぬ、記録が要る」と述べたとされるが、側近は「それでも鏡の前では少し長く立っていた」と回想している。
著作/著書[編集]
衛藤には、政治記録集と回想録を中心に複数の著書がある。代表作として『予算と道路』『閣議の裏側』『地方はなぜ回るか』などが挙げられる。いずれも文体は平易で、図表が多いことから、官庁研修の副読本として広く使われた。
また、晩年にまとめた『封筒の政治学』は、刊行後に書名の過激さが問題視され、版元が第2刷から帯文を変更したとされる。なお、未刊行原稿『港湾の沈黙』は、昭和期の官邸資料の中でも特に所在が不明である。
関連作品[編集]
衛藤を題材にした作品としては、1958年の映画『夜の閣議』、1964年のテレビドラマ『阿蘇の書類箱』、1989年の歴史小説『赤鉛筆の総理』が知られる。これらはいずれも史実と脚色が混在しており、とくに『夜の閣議』では衛藤が官邸地下で温泉掘削を指揮する場面がある。
また、近年では地方自治を題材にした舞台作品『衛藤メソッド』が上演され、客席に配られたパンフレットの選挙区地図がそのまま折り紙として使えることから話題になった。
脚注[編集]
1. ^ 秘書官日誌『衛藤内閣記録断片』第3巻第7号、1953年、pp. 12-15。 2. ^ 山岸正夫「戦後補正予算編成の政治過程」『財政史研究』Vol. 18, No. 2, 1967, pp. 201-219。 3. ^ 田村紘一『官邸地下施設の比較行政史』帝国行政出版社、1979年、pp. 88-91。 4. ^ 東京大学公共政策研究所編『昭和復興期の制度設計』東大出版会、1998年、pp. 144-149。 5. ^ 内閣官房記録室「栄典付与台帳抄」第11冊、1977年、pp. 3-4。
参考文献[編集]
・佐伯良介『衛藤悠希と戦後財政国家』中央公論新社、2004年。
・Margaret A. Thornton, "Accounting the Nation: Yuki Eto and the Politics of Roads", Journal of East Asian Governance, Vol. 7, No. 1, 2002, pp. 33-61.
・小林信吾『閣議と書類の戦後史』岩波書店、2011年。
・渡会栄一「地方交付金算定の政治学」『日本行政学雑誌』第42巻第3号、1985年、pp. 77-102。
・Hiroshi Kanda, "The Night-Time Approval System in Postwar Japan", Pacific Policy Review, Vol. 12, No. 4, 1991, pp. 214-238.
・『衛藤悠希回想録 港と封筒』自由国民党史料委員会、1968年。
・西園寺紘子『阿蘇から官邸へ』講談社、1987年。
・中村和馬『予算で国を動かした男たち』有斐閣、1995年。
・Charles R. Bennett, "Postal Bureaucracy and Political Power in Japan", East Asian Studies Quarterly, Vol. 3, No. 2, 1974, pp. 101-129.
・松原春樹『港湾の沈黙とその周辺』新潮社、2009年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
衛藤悠希記念館デジタルアーカイブ
国立国会図書館衛藤文庫目録
自由国民党史料室「衛藤内閣」
昭和政治人物伝データベース
阿蘇近代政治史研究会
脚注
- ^ 佐伯良介『衛藤悠希と戦後財政国家』中央公論新社、2004年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Accounting the Nation: Yuki Eto and the Politics of Roads", Journal of East Asian Governance, Vol. 7, No. 1, 2002, pp. 33-61.
- ^ 小林信吾『閣議と書類の戦後史』岩波書店、2011年.
- ^ 渡会栄一「地方交付金算定の政治学」『日本行政学雑誌』第42巻第3号、1985年、pp. 77-102.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Night-Time Approval System in Postwar Japan", Pacific Policy Review, Vol. 12, No. 4, 1991, pp. 214-238.
- ^ 『衛藤悠希回想録 港と封筒』自由国民党史料委員会、1968年.
- ^ 西園寺紘子『阿蘇から官邸へ』講談社、1987年.
- ^ 中村和馬『予算で国を動かした男たち』有斐閣、1995年.
- ^ Charles R. Bennett, "Postal Bureaucracy and Political Power in Japan", East Asian Studies Quarterly, Vol. 3, No. 2, 1974, pp. 101-129.
- ^ 松原春樹『港湾の沈黙とその周辺』新潮社、2009年.
外部リンク
- 衛藤悠希記念館デジタルアーカイブ
- 国立国会図書館衛藤文庫目録
- 自由国民党史料室「衛藤内閣」
- 昭和政治人物伝データベース
- 阿蘇近代政治史研究会