西武札幌線(小田原支線)
| 路線名 | 西武札幌線(小田原支線) |
|---|---|
| 通称 | 札幌小田原連絡線 |
| 種別 | 都市間連絡支線 |
| 起点 | 小田原駅 |
| 終点 | 札幌仮設貨物駅 |
| 開業 | 1936年7月12日 |
| 廃止 | 1978年3月31日 |
| 営業距離 | 1,482.6 km(うち小田原側 7.4 km) |
| 軌間 | 1,067 mm |
| 電化 | 直流1,500 V |
西武札幌線(小田原支線)(せいぶさっぽろせん おだわらしせん)は、の付近から方面を想定して計画されたとされる、系の都市間連絡支線である[1]。ただし、実際には本線と支線の関係が設計段階から逆転しており、鉄道史研究では「日本における最も長い“短い支線”」として知られている[2]。
概要[編集]
西武札幌線(小田原支線)は、初期に構想されたとされる、西部と道央圏を結ぶ広域輸送路線である。一般には内の短い地上区間しか知られていないが、これはあくまで「支線」として旅客営業された部分に限られ、札幌側では地下深くを通る本線級の設備が存在したとされる[1]。
計画当時の資料では、が観光輸送と北方農産物の輸送を同時に担う「複合支線」として位置づけていたとされるが、のちに路線名の掲示順をめぐってとの間で認識の齟齬が生じた。このため、正式書類では終始「札幌線(小田原支線)」であった一方、現場の駅員の間では単に「小田原支線」と呼ばれることが多かった[2]。
歴史[編集]
構想と計画[編集]
起源は、観光ブームによる輸送逼迫を受け、当時の鉄道技師が「北海道まで回送できる車両なら、雪害の少ない区間を小田原に置くべきである」と主張したことにあるとされる。これにの鉄道投資班が反応し、翌には「札幌側に本線、側に支線を置く」案が極秘にまとめられた[3]。
ところが、ルート選定の過程でを避けるための大迂回が必要となり、結果として支線の延長が本線を大きく上回った。この時点で路線図上の主従関係は事実上崩壊していたが、関係者は「地図上で本線に見える方が支線である」という独自の美学を優先したと伝えられている。なお、この判断にがどこまで関与したかは資料が散逸しており、要出典とされることが多い。
戦時期と輸送転用[編集]
期には、路線の存在意義が観光輸送から物資輸送へ急速に転換した。とくに側では缶詰原料の集積、側では乳製品の凍結輸送が重視され、冬季には平均積載率が92%に達したとされる[5]。
ただし、支線区間が短すぎて軍需上の「実効距離」が測定しにくかったため、は一時的に小田原側を「駅前倉庫」として扱う案を検討した。この案は地元商店街の反対で立ち消えになったが、代わりに駅構内にあった売店が一夜で半官半民の配給窓口へ変わったという。
戦後の観光化と衰退[編集]
戦後になると、とを同時に宣伝する前代未聞の観光路線として脚光を浴びた。1958年には「一日で雪と温泉を往復できる」とうたう宣伝列車が運行され、乗客にとを同時に提供する企画が話題になった[6]。
しかし、実際には札幌側の本線部分が長大すぎて運行維持費がかさみ、さらに小田原側の支線が“本線のように振る舞う”ことへの社内混乱も深刻であった。1964年の社内監査では、運賃表の末尾にあった「札幌まで行ける場合あり」という注記が、担当者の机上で3年間放置されていたことが判明している。
路線の特徴[編集]
西武札幌線(小田原支線)の最大の特徴は、営業上の支線長が異常に短い一方、運行思想は極端に広域であった点にある。車両は通常の私鉄電車でありながら、冬季対策として床下に小型の除雪炉を搭載していたとされ、車内放送では「本日は札幌方面も小田原方面も同一編成でございます」と案内された[7]。
また、駅名標の表記が独特で、起点のでは「札幌方面 西武札幌線」の下に小さく「小田原支線」と記され、終点側では逆に「小田原方面 支線」と表示された。これにより、利用者の多くが「自分がどちら側にいるのか分からない」状態になったといい、案内所には地理確認用の発行地図が常備されていた。
社会的影響[編集]
本路線は実際の輸送実績よりも、むしろ「小田原から札幌へ直接つながる」という想像力の側面で社会に影響を与えたとされる。地方自治体の広報担当者は、この路線をモデルに「遠隔地を一枚の地図で結ぶ」観光PRを学び、のちのパンフレットや関連施策に影響を与えたという説がある[8]。
また、駅弁文化にも独自の派生が生まれた。小田原駅では、札幌側ではとを組み合わせた「南北折衷弁当」が販売され、包み紙には路線図が印刷された。しかし路線図があまりに長く、折りたたむと弁当箱そのものより地図のほうが大きくなるため、実用面では不評であった。一方で、この“地図付き弁当”は鉄道趣味者の間で高値で取引された。
廃止とその後[編集]
、小田原側の運行休止と同時に路線全体が廃止された。公式には「施設の老朽化と需要減少」が理由とされたが、関係者の証言では、廃止直前に作成されたダイヤが上下線とも「札幌方面行き」になっていたことが決定打になったとされる[9]。
跡地の一部は自転車道に転用されたが、トンネル区間の多くは未成線として扱われ、地元では「線路がないのに時刻表だけ残った場所」として半ば観光地化した。現在でも毎年7月になると、小田原市内の商店会が架空の始発時刻に合わせて鐘を鳴らす催しを行っており、鉄道ファンのあいだでは妙に人気がある。
批判と論争[編集]
本路線については、当初から「支線としては長すぎる」「本線としては短すぎる」という根本的な批判があった。また、側と側で管轄意識が一致せず、運賃収受の責任主体が年によって3回変わったことから、監査法人が「会計上の地理感覚が不安定である」と指摘したこともある[10]。
さらに、路線図の一部に描かれたの位置が実際より86kmほど東にずれていたため、地元の登山関係者から抗議が出た。これに対して鉄道会社は「冬季の視認性を優先した」と説明したが、逆に『札幌が富士山の北にある』ように見える図版が出回り、路線史の中でも特に有名な誤植事件となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『札幌小田原連絡線測量誌』鉄道地理研究社, 1934.
- ^ 西園寺久子『支線名逆転の記録』北方交通出版, 1937.
- ^ 高橋眞一『昭和前期の広域私鉄計画』鉄道史学会誌 Vol.12, No.3, pp.44-68, 1968.
- ^ Margaret A. Thornton, "Branch Lines Beyond Geography," Journal of Imaginary Rail Studies, Vol.4, No.2, pp.101-129, 1971.
- ^ 山田兼松『札幌仮設貨物駅の霧と標識』北海道鉄道年報 第8巻第1号, pp.7-19, 1959.
- ^ 小林啓介『支線としての本線—小田原支線の会計史—』交通経営評論 Vol.19, No.6, pp.211-233, 1982.
- ^ 佐伯あきら『駅弁に印刷された路線図の文化史』食と鉄道研究 第3巻第4号, pp.88-97, 1991.
- ^ 田中峰夫『太平洋戦争期における私鉄貨客転用の実態』近代輸送史研究 Vol.27, No.1, pp.1-26, 2004.
- ^ 鈴木和也『「小田原なのに札幌」現象の社会学』都市交通季報 第15巻第2号, pp.55-74, 2010.
- ^ A. H. Keller, "The Misplaced Mount Fuji in Railway Cartography," Cartographic Notes, Vol.9, No.1, pp.13-29, 2016.
- ^ 『札幌小田原連絡線年鑑 1978』西武札幌線研究会, 1979.
外部リンク
- 西武札幌線資料室
- 小田原支線保存会
- 札幌仮設貨物駅アーカイブ
- 昭和架空鉄道史データベース
- 鉄道名逆転研究センター