谷 幸樹
| 氏名 | 谷 幸樹 |
|---|---|
| ふりがな | たに ゆうき |
| 生年月日 | 1934年4月17日 |
| 出生地 | 長野県下伊那郡遠山谷村 |
| 没年月日 | 2001年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗植物研究者、祭具修復家、随筆家 |
| 活動期間 | 1957年 - 2001年 |
| 主な業績 | 『山声植物誌』の編纂、谷式標本封入法の考案 |
| 受賞歴 | 地方文化功労章、山岳民俗研究奨励賞 |
谷 幸樹(たに ゆうき、 - )は、の民俗植物研究者、祭具修復家である。山間部の「音の植物史」を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
谷 幸樹は、日本の民俗植物研究者であり、からにかけての山間集落で採取される植物が、祭礼の際に「音を持つ」とする独自の仮説を提唱したことで知られる。農学部の周辺で学んだが、のちに学界の主流から離れ、各地のやの倉庫を巡って資料を集めたとされる。
彼の名は、民俗学と植物学の境界に位置する異色の研究者として語られることが多い。また、後期に流行した「地域文化の再発掘」運動のなかで、祭具の修復と植物分類を同時に行う稀有な職能を持つ人物として、の山村では今なお伝承が残る。なお、本人は自らを学者ではなく「聞き書きの整骨師」と称していたという[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
谷は、の旧家に生まれる。父はの伐採記録を付ける山林会計係、母はの面の補修を手伝う裁縫師であり、幼少期から植物名と祭礼名が同じ帳面に並ぶ環境で育った。
時代には、山野草の葉脈に糸を通して「音の違い」を調べる遊びをしていたとされ、村の教師であったに採集の作法を学んだ。のちに、この加納がの前身にあたる私設勉強会を紹介したことが、彼の進路を決定づけたとされる。
青年期[編集]
に農学部へ進学し、を専攻した。しかし、講義ノートの余白に祭祀の文言や方言植物名を大量に書き込んでいたため、指導教員のからたびたび注意を受けたという[3]。
大学在学中には、内の古書店で『山声図譜』という謎の写本を発見し、これが後年の主著につながったとされる。もっとも、写本の所在は現在も確認されておらず、研究史上の「最初の空白」と呼ばれることがある。
活動期[編集]
、谷はの調査を皮切りに、山間部の祭礼で用いられる植物標本の記録を開始した。特に、、の三種について、乾燥の程度によって鳴り方が変化するという報告を行い、の旧資料室で共同観察を行ったという。
には、独自の封入器具「谷式標本封入筒」を発表し、湿度差を0.3%単位で再現できるとして一部の博物館に採用された。これにより、祭具保存の現場で植物標本を単なる証拠物ではなく「演奏可能な資料」として扱う流れが生まれたともいわれる。
代にはの依頼で全国27か所の山村を巡回し、祭礼植物の聞き取り調査を実施した。調査票は全184項目に及び、うち17項目が「鳴音の有無」に関するものであったが、この分類は当初とされた。また、調査中にの社務所で一昼夜にわたり乾燥実験を行い、宿直の宮司を困惑させた逸話が残る。
晩年と死去[編集]
以降は体調を崩し、の山荘で半ば隠遁生活を送った。晩年は自著の補筆に専念し、未完原稿『湿る祭具、鳴る植物』を残したとされる。
、内の病院で死去した。享年。死後、私設資料群の一部はに寄贈され、残りは遺族の意向での寺院に移されたが、箱の背に貼られたラベルの筆跡がすべて違っていたため、後に別人の整理を疑う声も上がった。
人物[編集]
谷は寡黙であったが、聞き取り調査では相手の話を否定しない姿勢で知られた。村人の証言によれば、会話の最後に必ず「植物は忘れない」と書いたメモを畳へ置いたという。
性格は几帳面で、標本袋の紐の結び目まで季節ごとに変えていたとされる。一方で、電車の時刻には極端にルーズで、での調査移動では3回に1回は駅弁を食べ終えたころに列車が来たという逸話がある。
また、谷は祭礼の場でメモを取る際、を使わず必ずを削った自作筆記具を用いたとされる。これは「金属の匂いが植物の声を鈍らせる」という本人の信念によるもので、弟子たちは半ば迷信として笑っていたが、実際には雨天時の記録保存に向いていたと評価されている。
業績・作品[編集]
谷の代表作は、に刊行された『』である。同書は、山村で用いられる祭礼植物を五十音順ではなく「乾燥音」「折損音」「擦過音」の三分類で整理した点が画期的であった。
ほかに『』『』『『』草稿集』などがあり、いずれもの図書館に少部数が収蔵されている。特に『神社庫の植物学』では、儀礼と植物保存の関係を扱い、祭具の乾燥にを用いる地域差が詳細に記述された。
業績として最も有名なのは、谷式標本封入法である。これは、和紙、杉皮、真鍮の留め具を三層に配することで、標本の香気と音響特性を同時に固定する方法とされ、にはの特別収蔵棚で試験導入された[4]。ただし、実際に鳴音が観測されたのは全体の4割程度であり、残りは「記録者の思い込み」とする反論も根強い。
なお、谷はの教養番組『山のしるし』に3度出演し、画面外で標本袋を振りながら解説した。視聴者からは「地味なのに妙に怖い」と評され、再放送のたびにに問い合わせが寄せられたという。
後世の評価[編集]
谷の評価は大きく分かれている。民俗学の側からは、地域の言語と植物利用を結びつけた先駆者として再評価される一方、植物学の側からは実証性に難があるとして長く周縁的存在と見なされてきた。
しかし以降、との接点が重視されるようになると、谷の資料は「使われた植物」ではなく「使われた場の空気」まで記録している点で注目された。とりわけの研究会では、谷の記録方法がフィールドワークの原型の一つであると紹介されている。
一方で、谷が主張した「植物には地域ごとの発音差がある」という説については、現在でも学会内で決着がついていない。いくつかの自治体では観光資源として採用されたが、説明板の文言が年ごとに変わるため、来訪者から「学術よりも物産展に近い」と評されることもある。
系譜・家族[編集]
父・谷善平は山林会計係、母・谷とし江は祭具裁縫の手伝いをしていた。兄に谷義明、妹に谷春代がおり、いずれも地元に残って山仕事や寺務を支えたとされる。
妻はに結婚した谷澄子で、旧姓はである。澄子はの補修に長け、谷の調査ノートの表紙をすべて手作業で貼り替えたという。子には長男の谷信一、長女の谷美和がいたが、信一は後年で図書整理に携わり、美和はの郷土料理研究家になった。
また、遠縁にの神楽保存会があったとされ、同家の倉から谷の初期メモが見つかったという話もある。ただし、家系図の一部は戦後の台帳焼失で確認不能となっており、谷本人も「家族より先に標本が増える」と冗談を言っていたと伝えられる。
脚注[編集]
[1] 『山声植物誌』序文に基づくとされる。 [2] 口述記録『遠山谷村聞き書き集』第3巻。 [3] 折原義一「講義ノートの余白に見る学生文化」『東京農学紀要』第12巻第4号。 [4] 山形県立博物館資料室「谷式標本封入法試験導入報告」内部資料、1974年。 [5] なお、谷の生年は資料により1933年説もあるが、本項では遺族提供の戸籍複写に従った。 [6] 植物の鳴音に関する記述は再現性が低く、編集者間でも解釈が分かれている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 折原義一『山村植物の聞こえ方』東京農業出版, 1969.
- ^ 谷幸樹『山声植物誌』信濃文化社, 1968.
- ^ 谷澄子『紙と音と祭具』北辰書房, 1977.
- ^ 加納多喜蔵『遠山谷村民俗採集録』山野会, 1958.
- ^ M. H. Bennett, “On Audible Herbarium Practices in Rural Japan,” Journal of Ethnobotanical Studies, Vol. 8, No. 2, 1981, pp. 114-139.
- ^ 田村由紀夫『祭礼植物の保存技術』文化資料研究所, 1975.
- ^ 佐伯正隆「谷式標本封入法とその周辺」『地方文化史研究』第21巻第3号, 1989, pp. 41-67.
- ^ Clara W. Ingram, “The Acoustic Leaf: A Field Note from Nagano,” Asian Rural Review, Vol. 4, No. 1, 1992, pp. 9-22.
- ^ 山形県立博物館資料室編『特別収蔵棚導入報告書』山形県立博物館, 1974.
- ^ 折原義一・谷幸樹『湿る祭具、鳴る植物』未完稿集, 東山館, 2003.
- ^ 中島千鶴『講義ノートの余白の科学』青霧社, 1998.
- ^ “A Catalogue of Quiet Plants That Ring,” Proceedings of the East Asian Museum Forum, Vol. 2, No. 5, 1979, pp. 201-219.
外部リンク
- 信州民俗植物アーカイブ
- 遠山谷村郷土資料室
- 山声植物誌デジタル閲覧室
- 祭具修復研究ネットワーク
- 日本山村文化史研究会