石田百々葉
| 本名 | 石田 百々葉 |
|---|---|
| 生年月日 | 1908年 |
| 没年月日 | 1976年 |
| 出身地 | 日本・神奈川県鎌倉郡大船町 |
| 職業 | 植物採集家、民俗分類学者 |
| 著名な業績 | 葉脈記録法の提唱、浜辺標本帖の編纂 |
| 所属 | 神奈川植物民俗研究会、東京帝国大学附属資料整理部 |
石田百々葉(いしだ ももは、1908年 - 1976年)は、末期から中期にかけて活動したの植物採集家、民俗分類学者、ならびに「葉脈記録法」の提唱者である。特に沿岸部のに関する記述で知られ、のちにの資料室で再評価された[1]。
概要[編集]
石田百々葉は、後半にの海岸林調査から名を広めた人物である。植物そのものよりも、葉が風や湿度、塩分に応じて示す「痕跡の並び」を読み取る独自の方法を唱えたことで知られる。
この方法は、当初はの一部研究者から奇異なものと見なされたが、戦後の資料整理を経て、地域植物誌の書式に影響を与えたとされる。なお、本人は「葉は切られた後もなお土地の訛りを話す」と述べたと伝えられる[2]。
生涯[編集]
幼少期と採集の開始[編集]
百々葉は、の港町に生まれたとされる。父は関係の文書係、母は寺院の納経帳を写す仕事をしており、幼い頃から紙と植物の両方に親しんだという。
9年ごろ、近所の防風林で落葉を並べて「潮の来た方向」を当てる遊びを始めたことが、後年の研究の原型になった。近隣では「葉を拾って道を決める娘」と呼ばれ、神社の掃き集めを手伝う代わりに、参道の樹種を記録していたという[3]。
葉脈記録法の成立[編集]
、百々葉はの古道沿いで採集したの葉50枚を、塩水・真水・焚火の煙の3条件に分けて乾燥させ、葉脈の歪みを方位図として読む手法をまとめた。これが「葉脈記録法」の初発表であるとされる。
発表の場はの月例会で、聴衆は12名しかいなかったが、うち3名が配布された標本の裏に実際の地図を書き込んだため、記録上は「会場の半数が賛同」と扱われた。百々葉はこれを「学問が多数決に敗れた珍しい例」と記している[4]。
東京での評価と挫折[編集]
、百々葉は附属資料整理部に臨時雇いとして迎えられ、の書庫で植物標本の再分類を担当した。しかし、彼女は標本票の記載順を「採取順」ではなく「風向順」に並べ替えたため、半年で37箱分の目録が混乱したとされる。
一方で、この時期に作成された『浜辺標本帖 第一〜第四集』は、の前身資料群に一部残され、昭和40年代の再整理で再発見された。現在では、学術的価値というより「分類への執念の記録」として珍重されている。
業績[編集]
浜辺標本帖[編集]
『浜辺標本帖』は、からにかけて採集された植物片、貝殻、紙片、割れた下駄の緒などを、季節別ではなく「潮位別」に綴じた全6冊の帳面である。各冊には葉の裏面に鉛筆で「北」「湿」「戻り潮」などの注記があり、現在の植物誌よりもむしろ航海日誌に近い体裁を持つ。
特に第3集の巻末には、百々葉がの茶店で聞いた方言をもとに、樹木を「話す樹」「黙る樹」「遅れて返事する樹」に分類した表があり、これが後の民俗分類学者に強い影響を与えたとされる。
葉脈記録法の特徴[編集]
葉脈記録法では、葉の形状を単なる種別の証拠ではなく、土地の湿度、作業者の癖、採集時の心理状態まで含む「複合痕跡」として扱う。百々葉は、同じ樹種でも採集者が違えば葉脈の曲がりが異なると主張し、これを「手袋のない科学」と呼んだ。
にの講演会で行われた実演では、百々葉が会場の観葉植物15鉢を前に「この葉は昨夜、誰かに悩みを聞かされた」と断じ、聴衆のうち2名が実際に飼い犬の相談をしていたことから妙に説得力を持ったという。
人物像[編集]
百々葉は厳格な採集家であったが、同時に非常に俗っぽい比喩を好んだ。標本ラベルに「この葉は朝の味噌汁のように落ち着く」などと書く癖があり、後年の整理担当者は判読に苦労した。
また、着物の袖に新聞紙を縫い付けて乾燥標本を持ち歩いたため、雨の日には紙の重みで肩が下がり、本人はそれを「標本が私を育てる姿勢」と呼んだ。周囲からは変人として知られたが、採集地点の記憶精度は極めて高く、の路地で35年後に同じ木を見つけたという逸話が残る。
社会的影響[編集]
百々葉の研究は、当初は植物学というより郷土趣味に近いものとして扱われたが、戦後の都市開発で消えた緑地の記録として注目された。特にの巡回展示では、彼女の標本帖を見た中学生の一団が「草木にも履歴書がある」と感想を書き残し、以後の学校教材に影響したとされる。
また、の一部会員は、百々葉の手法を応用して屋号や地名の変遷を葉脈図に置き換える試みを行った。成果は限定的だったが、地理教育と図像学の間を揺れる奇妙な潮流を生んだ。
批判と論争[編集]
百々葉の方法は、再現性が低いとしてたびたび批判された。とりわけの『植物民俗研究』誌上では、ある研究者が「葉脈記録法は、観察者の気分を標本のせいにしているだけではないか」と疑義を呈した。
これに対し支持者は、同法の価値は厳密な同定ではなく、失われつつある土地感覚を記録する点にあると反論した。なお、百々葉本人は晩年、「科学は証明するが、標本は黙って居場所を言う」と述べたというが、出典は見つかっていない[要出典]。
晩年と死後の評価[編集]
に入ると、百々葉は内の療養施設で静養生活を送りながら、海藻や街路樹の落葉を貼った私家版日記を作成していた。最晩年の日記には、の造成地を見て「土がまだ自分の名前を覚えていない」と書かれていたと伝えられる。
に没したのち、遺族が保管していた標本箱12箱がの旧家倉庫から発見され、の展覧会「葉のほうの記憶」で一躍知られるようになった。現在では、地方資料学、環境史、そして半ば怪談の領域で語られる人物となっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯冬子『葉の訛りを読む――石田百々葉研究序説』青潮書房, 1987年.
- ^ 大槻和也『近代植物民俗学の成立』みすず出版, 1994年.
- ^ Margaret H. Ellison, "Veins of the Shoreline: A Study of Regional Herbariums", Journal of East Asian Folklore Studies, Vol. 18, No. 2, 2001, pp. 44-79.
- ^ 石黒春乃『浜辺標本帖の編集史』国立資料整理叢書, 2005年.
- ^ Kenjiro Watanabe, "The Problem of Wind Order in Folk Botany", The Pacific Botanical Review, Vol. 11, No. 4, 1972, pp. 201-225.
- ^ 長谷川澄江『昭和期の女性採集家たち』港の人, 2010年.
- ^ 「石田百々葉とその時代」『植物民俗研究』第7巻第1号, 1961年, pp. 3-19.
- ^ Thomas L. Fenwick, "Cataloguing the Uncatalogued: A Note on Ishida Momoha", Bulletin of Imaginary Science History, Vol. 3, No. 1, 1998, pp. 9-17.
- ^ 青木真理子『葉脈記録法入門――風向順目録の技法』北窓社, 1979年.
- ^ 小野寺修『なぜ葉は黙るのか――百々葉の分類思想』新樹館, 2022年.
外部リンク
- 国立資料整理アーカイブ
- 湘南民俗植物データベース
- 葉脈記録法研究会
- 鎌倉近代標本館
- 神奈川植物民俗研究会会報デジタル版