財務省民営化法
| 正式名称 | 財務省民営化法 |
|---|---|
| 通称 | 財務省法民営化案、霞が関民営化法 |
| 成立想定 | 1996年 |
| 施行想定 | 1998年4月1日 |
| 所管 | 内閣府 行政再編臨時調整室 |
| 主な対象 | 予算査定、国庫管理、印刷・保管業務 |
| 起草者 | 河合俊介、ミリアム・L・ハーパー |
| 廃案後の影響 | 行政民営化論、準公営財務委託制度 |
| 関連法 | 省庁機能再配置特例法、国庫業務委任規程 |
財務省民営化法(ざいむしょうみんえいかほう)は、の一部機能を民間移管するために構想されたとされる日本の制度設計である。一般には初期の行政改革の流れの中で生まれたと説明されるが、実際にはの地下区画にあった「仮設政策試験室」で試作された案が起源とされる[1]。
概要[編集]
財務省民営化法は、の中枢機能を段階的に民間へ委ねるという、きわめて特異な発想に基づく法案である。単なるではなく、予算編成の一部、国庫出納、文書保全、さらには会計監査の前処理までを「準市場化」することが想定されていたとされる。
この法案は、行政効率化と透明性向上を掲げつつ、実際には時代から引き継がれた紙文化と印章行政を逆手に取って成立したという説が有力である。一方で、当時の官僚らはこれを「財務行政の外部委託ではなく、財務行政の自己分解である」と呼んだとされ、すでに発想の段階でかなりの混乱があった[2]。
成立の経緯[編集]
法案の原型は、に前身の特命調整チームに参加していたが、英国の研究を極端に誤読したことから生まれたとされる。河合は「省は国家の心臓ではなく、分社可能な循環器系である」とメモに残しており、この一文が後の議論の出発点になった。
その後、千代田区の貸会議室「第七日比谷ビル・B会議室」にて、率いる国際行政顧問団と共同で草案がまとめられた。会議では、国庫業務の一部を業界へ、給与計算を人材派遣会社へ、予算見積もりをシンクタンクへ移管する案が出され、最終的に「財務省のうち動かせるものは動かす」という極端な条文に収斂したという[3]。
なお、草案第3版はファクス送信中にの送信所で紙詰まりを起こし、復旧までに31分を要した。この事故をきっかけに、法案には「通信断に備えた二重承認」条項が追加されたが、後年の審査ではこの条項自体が最も実務的であったと評価されている。
制度設計[編集]
対象機能の分割[編集]
財務省民営化法の中心は、財務機能を三層に分割する点にあった。第一層は国家主権に直結する「非委託領域」、第二層は準公共性を持つ「条件付委託領域」、第三層は完全に競争入札へ開放される「市場領域」である。とくにの照合作業は、当初周辺の金融事務代行会社に委ねられる予定で、誤差0.3円までを許容する独自仕様が設けられた。
この仕分けにより、職員は「紙を回す者」から「紙を監督する者」へと再定義された。だが現場では、監督者の数が紙を回す者の数を上回り、結果として会議だけが増えるという逆転現象が起きたとされる。
監督機構[編集]
法案には、民営化された機能を監視するためのが設けられる予定であった。評議会はとの双方に仮事務局を置き、月2回の定例会で「委託の妥当性」「情報秘匿度」「印章の所在」を審査する方式を採用した。
しかし、監督の透明性を高めるために会議をすべて公開すると、傍聴席の人数が委託先社員の人数を超え、審議がしばしば中断されたという。特に11月の第14回会合では、質疑応答が長引いた末、議事録だけで87ページに達し、委員長が「これは監督ではなく、書面の自家増殖である」と述べたと伝えられる[4]。
会計と印章[編集]
同法の最も有名な規定は、印章管理の民間委託である。財務省本省で使用されていた主要印章のうち12本を、の老舗印材会社との保管業者が共同管理する体制が構想された。印章ごとにQR識別ではなく「朱肉の発色差」で追跡する方式が採られ、当時としては先進的であったともいわれる。
また、会計簿の一部は専用クラウドではなく、内の温湿度管理倉庫に保管される予定であった。これはデータ消失防止のためであったが、倉庫が豪雨で一度だけ浸水し、逆に「紙のほうが復元性に優れる」という奇妙な実証結果を生んだ。
政治過程[編集]
法案は内の行政改革派と、系の一部実務派の間で、表向きには折衝が進んでいたとされる。だが実際には、各省庁が「どの機能を残すか」で綱引きを行い、最後には財務部門の中でも「残す理由がある仕事」と「民間に出しても誰も気づかない仕事」の境界線を巡って深夜まで議論が続いた。
特筆すべきは、の与党税制調査会で配られた試算資料に、民営化後の効果として「職員1,240名相当の余暇創出」と書かれていた点である。これは改革効果としてはかなり異例であり、後に野党側から「余暇を生む法案」と揶揄された。
なお、当時のメディアはこの法案を「霞が関の解体ではなく、霞が関の分割払い」と報じたとされ、見出しの秀逸さだけが長く記憶された。
社会的影響[編集]
法案そのものは最終的に全面施行には至らなかったが、準備段階で生じた影響は大きかった。では「財務書類の外部点検」制度が流行し、民間監査会社が全国で急増した。また、の行政学講座では「財務機能の市場化」が一つの定番ケースとなり、毎年約3,200件のレポートで引用されたとされる[5]。
一方で、民営化対象候補だった事務のうち、もっとも混乱したのは予算要求書の配布であった。郵送先が5度変更され、そのたびに封筒の宛名だけが更新されるため、最終的に同一の書類がの周辺を三重に循環したと伝えられる。この出来事は後に「封筒シャトル事件」と呼ばれ、行政改革史の小話として語り継がれている。
批判と論争[編集]
批判派は、この法案が「国家の会計責任を曖昧にする」と主張した。また、委託先選定において入札基準がやや複雑すぎたため、説明会の参加者が基準表を理解する前に退出したという指摘もある。とくに2月の公聴会では、民営化後の責任主体を示す図表が8層構造になっており、傍聴者の一人が「これは法案ではなく地下鉄路線図である」と発言したと記録されている。
ただし、擁護派は「財務行政の神秘性を可視化した点に意義がある」と反論した。なお、後年の研究では、法案に反対した官僚の一部が実は委託先候補の選定委員会にも籍を置いていたことが判明し、利害の二重構造がさらに話題を呼んだ。
評価[編集]
財務省民営化法は、制度としては未完成でありながら、行政改革の象徴として高く引用されている。特に期の官僚制研究では、成功例としてではなく「失敗しそうで最後まで失敗しきらなかった案件」として評価されることが多い。
また、法案の文章が異様に美文調であったため、後年の公文書研究者の間では「財務行政詩」と呼ばれるようになった。文体だけを褒める論文も複数あり、制度論よりもレトリック論の教材として生き残った点は、この法案のもっとも奇妙な遺産である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河合俊介『省の分社化と国庫委託の限界』霞出版, 1999年, pp. 41-78.
- ^ Miriam L. Harper, “Fragmented Treasury and the Japanese Reform Model,” Journal of Public Administration Studies, Vol. 18, No. 2, 1998, pp. 113-146.
- ^ 佐伯あかね『財務行政の準市場化に関する覚書』行政経済評論社, 2001年, pp. 9-52.
- ^ Thomas W. Ellison, “Privatizing the Seal: Stamps, Trust, and Fiscal Delegation,” Public Sector Review, Vol. 7, No. 4, 1997, pp. 201-225.
- ^ 高瀬義一『霞が関B会議室の政治学』都政新書, 2004年, pp. 88-109.
- ^ Yoko N. Sutherland, “Outsourcing a Ministry: The Curious Case of Finance in Tokyo,” East Asian Governance Quarterly, Vol. 12, No. 1, 2000, pp. 55-93.
- ^ 『財務省民営化法案資料集 第一巻』内閣府行政再編臨時調整室, 1996年.
- ^ 森下清隆『印章の行方—財務機能民営化の実務』官庁研究会, 1998年, pp. 17-64.
- ^ A. Beaumont & 河村真理子『The Ministry That Became a Vendor』Kanda Policy Press, 2002, pp. 1-39.
- ^ 『封筒シャトル事件とその余波』千代田行政史編纂室, 2010年, pp. 3-28.
外部リンク
- 霞が関行政資料アーカイブ
- 財務制度史研究会
- 国庫業務民間委託観測所
- 日本準市場化学会
- 行政改革古文書データベース