赤いマント殺人事件
| 発生時期 | 1987年〜1991年 |
|---|---|
| 発生地 | 東京都、神奈川県、埼玉県 |
| 種類 | 連続失踪事件、都市伝承 |
| 通称 | 赤マント事件 |
| 被害者数 | 確認19名、行方不明扱い7名 |
| 捜査機関 | 警視庁、神奈川県警察、埼玉県警察 |
| 主要関係者 | 特別捜査班M-3、民俗研究者・相馬冬子 |
| 特徴 | 赤い布片、深夜の電話、地下通路の残響 |
| 関連分野 | 防犯心理学、都市民俗学 |
| 現在の扱い | 未解決事件としての再検討対象 |
赤いマント殺人事件(あかいまんとさつじんじけん)は、末期の都市伝承を起点として成立したとされる連続失踪事件の総称であり、のちに内の防犯史、衣服心理学、そしての広報戦略にまで影響を与えたとされる[1]。赤色の外套が目撃証言に反復して現れることからこの名で呼ばれ、現在でも未解決事件の代表例として扱われることがある[2]。
概要[編集]
赤いマント殺人事件は、春から初頭にかけて、西部を中心に相次いで報告された失踪・殺人未遂事件群であるとされる。実際には単独の犯人像が最後まで確定しなかったため、後年の報道では複数の事案をまとめた呼称として扱われた。
事件名は、被害者証言の多くに「赤いマントを着た人物」「赤いレインコートではなく、袖口のない外套」「駅の蛍光灯にだけ異様に赤く見える布」が含まれていたことに由来する。なお、当初は『赤布係事件』とも呼ばれていたが、広報課が『語感がやや地味である』として採用を見送った記録が残る[3]。
発生の背景[編集]
この事件の背景には、後期の深夜交通網の拡張、繁華街の防犯カメラ未整備、ならびに『赤色は視認性が高いが、夜間では恐怖誘発性も高い』という当時の研究が重なったとされる。とくに、、の地下通路で同種の目撃談が集中したことから、都市の“赤い影”が共有されたという説が有力である。
一方で、民俗学者のは、各地の祭礼で用いられる赤い布が『境界を示す記号』として機能してきたことに注目し、犯行は単なる模倣ではなく、都市伝承の反復儀礼として理解すべきだと主張した。これに対し、当時の捜査一課は『儀礼にしては妙に足が速い』という内部メモを残している[4]。
経緯[編集]
1987年の初発例[編集]
最初の公式記録は6月、の商店街で帰宅途中の高校生が消えた事案である。被害者の自宅に翌朝届いた封筒には、赤い布端が一片だけ同封されており、布地の繊維は沿線で流通していた舞台用マントと一致したとされる。もっとも、鑑定書の末尾には『一致率87.4%だが、断定には若干の勇気を要する』と記されていた。
この事件を契機に、地元紙は『赤いマントの男』という見出しを初めて使用し、以後、似た報告が出るたびに事件性が過剰に連想されるようになった。結果として、未確認情報が捜査線を数百メートル単位で膨張させたともいわれる。
1989年の地下通路事案[編集]
にはの地下通路で、深夜に赤いマントを見たという通報が18件に達した。うち13件は通行人の証言が完全に一致せず、2件は同一人物が4分間隔で矛盾した証言をしていたため、のちに『自己増殖型証言』として防犯心理学の教材に採用された[5]。
このころ設置された特別捜査班M-3は、赤い布の移動経路を追うため、都内のクリーニング店1,274店に聞き取りを行った。ところが、最も重要な手掛かりは港区の試写室で見つかった忘れ物のマフラーであり、事件の核心とは無関係だったにもかかわらず、班内で3週間にわたり最優先資料として扱われた。
1991年の終息と誤認[編集]
2月、内で最後の重大事案とされた失踪が起きたが、後年の再調査では、当該人物は単に深夜バスの終点を乗り過ごし、翌朝までの健康ランドで休んでいた可能性が高いとされた。にもかかわらず、この事案は『事件の終息』として各種年表に記載され、都市伝承としての完成を見た。
なお、この時点で合計被害者数は19名とされたが、うち4名は別件の住民票異動、2名は短期留学、1名は演劇部の合宿と判明している。したがって、実数よりも“事件らしさ”が先行して膨らんだ典型例といえる。
捜査と検証[編集]
警察側の初動では、被害者の動線が鉄道網に沿っていたことから、犯人は都内近郊の定期券保有者ではないかと推定された。特に、、の遅延記録が照合され、3社合わせて約42万件の改札データが閲覧対象になったとされる。
しかし、決定打となったのは現場近くに落ちていた赤い糸くずではなく、の古書店で発見された防犯雑誌『月刊セキュリティ・ノート』の切り抜きであった。そこには『マント型衣類は群衆の視線を吸収する』という謎の一文があり、当時の捜査員の一部はこれを犯人の手記と誤認した。
後年、の再鑑定により、赤い布片の多くは舞台衣装、神社の幟、児童劇のコスチュームの断片であると判明した。ただし、最終報告書は『それでもなお、事件の空気は十分に赤かった』と結ばれており、学術文書としてはかなり珍妙である。
社会的影響[編集]
事件後、は小中学校向けの防犯教材に『見知らぬ赤色の衣服に注意すること』という項目を追加した。これが行き過ぎた結果、1980年代末には赤い上着を着た市民が駅で視線を集める現象が生じ、都内の赤系衣料の売上が一時的に12.6%減少したとされる。
また、民間では『赤マント回避術』と呼ばれる独自の防犯術が流行した。具体的には、夜道で赤を見たら立ち止まらず、3回深呼吸してから最寄りの交番ではなく最寄りの自動販売機へ向かう、というもので、効果のほどは定かでない。自動販売機を『光る現代の護符』とみなす都市伝承が広まったのもこの時期である。
一方で、の特集番組『夜の都市に潜む色』では、事件を契機に夜間照明と安全色彩設計の研究が進んだことが紹介された。専門家の一部は、赤いマント殺人事件は犯罪史というより都市デザイン史の転換点であったと評価している。
批判と論争[編集]
事件そのものの実在性については、当初から疑義が呈されていた。とくにの週刊誌報道以降、『複数の軽微な事件を編集部が一つに束ねたのではないか』という批判が強まり、被害者の一部家族も「話が年々赤く盛られている」と述べたとされる[6]。
また、相馬冬子の都市民俗学的解釈に対しては、『証拠より布地の象徴性を重視しすぎている』との反論があった。これに対し相馬は、記者会見で『事件は布である前に物語である』と発言し、翌日の見出しが『布である前に物語』になってしまったため、論争はさらにややこしくなった。
現在では、実際の犯行の有無とは別に、当時の報道・行政・学校教育が共同で作り上げた“赤い恐怖の履歴”として研究されている。ただし、今なお一部地域では、夜の地下道で赤いマフラーを見ると足が速くなるという報告が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
末期の社会不安
脚注
- ^ 相馬冬子『都市の赤色恐怖――戦後日本における衣服と不安』民俗学研究社, 1998.
- ^ 田代健一『夜間視認性と群衆心理』警察庁安全研究会, 1992.
- ^ M. Thornton, "Cloak Phenomena in Urban Mythmaking," Journal of Metropolitan Folklore, Vol. 14, No. 2, 2001, pp. 44-71.
- ^ 佐伯光一『赤布係事件資料集』都心事件考証室, 2004.
- ^ H. Watanabe, "The Red Garment Panic and Transit Anxiety," Security Studies Quarterly, Vol. 9, No. 4, 1994, pp. 201-233.
- ^ 警視庁広報課『昭和末期における未確認衣類事案の広報記録』内部資料第3号, 1990.
- ^ 小野寺澄子『地下通路と都市の影』東京防犯文化出版, 2007.
- ^ K. Ellison, "Fabric, Fear, and the Missing Commuter," East Asia Review of Criminology, Vol. 6, No. 1, 2010, pp. 5-29.
- ^ 相馬冬子『赤い布はなぜ怖いのか』青葉書房, 1995.
- ^ 『月刊セキュリティ・ノート』第18巻第7号, 1989年7月号, pp. 12-19.
外部リンク
- 都市伝承アーカイブ・東京
- 防犯心理研究センター資料室
- 昭和末期事件年表データベース
- 未解決事案口承史館
- 赤色衣類と都市不安研究会