ボクサー連続殺人事件
| 名称 | ボクサー連続殺人事件 |
|---|---|
| 発生時期 | 1928年 - 1931年頃 |
| 発生場所 | 東京府、神奈川県、千葉県の一部 |
| 事件の性質 | 連続殺人、模倣犯騒動、興行街騒乱 |
| 犠牲者数 | 公表17名、行方不明扱い3名 |
| 主犯像 | 黒い拳闘用マスクを着用した男とされた |
| 捜査機関 | 警視庁特別兇行係、内務省臨時聞取班 |
| 通称 | グローブの男 |
| 関連現象 | 街頭プロモーションの自粛、拳闘熱の急減 |
ボクサー連続殺人事件(ボクサーれんぞくさつじんじけん、英: Boxer Serial Murders)は、末期から初期にかけて、主にとの興行街で発生したとされる、覆面の姿の犯人像をめぐる連続殺人事件である[1]。のちに上でも特異な事例として語られ、の大衆文化と犯罪報道の接点を象徴する事件として知られる[2]。
概要[編集]
ボクサー連続殺人事件は、の小劇場、の港湾酒場、の拳闘興行場を中心に、同じ手口の殺人が短期間に相次いだことで成立したとされる事件である。被害者の多くは興行記者、興行主、リング係、ならびに深夜営業の経営者であり、現場には必ず革製のグローブ片と、丸められた新聞が残されていたとされる[3]。
当時の報道では、犯人は「プロボクサーに恨みを持つ元興行師」とする説や、「拳闘の技法を宗教儀礼に転用した地下結社の処刑役」とする説まで現れた。また、は捜査を進める一方で、新聞各紙が事件を連日一面で煽ったため、いわゆる「拳闘恐慌」が発生したとされる。この恐慌は、のちにの改正議論を誘発したとする説がある[4]。
発端[編集]
事件の端緒は夏、の国技館裏で発見された「赤い包帯の死体」であるとされる。遺体の胸元には、当時流行していた英字雑誌『Ring Monthly』の切り抜きが数枚詰め込まれており、そこにという存在しない肩書きが鉛筆で書き足されていた[5]。
これをきっかけに、浅草の興行街では「夜更けに拳を洗う音が聞こえる」「試合前にだけ灯る赤提灯がある」といった噂が広まり、結果として模倣的な通報が内で月平均31件に達したと記録されている。なお、一部の地域ではボクシング用語を使うだけで警察に連れて行かれたという証言もあるが、裏付けは乏しい[要出典]。
捜査[編集]
警視庁特別兇行係の編成[編集]
は1月、刑事部内に臨時のを設置し、警部補ら9名を投入した。彼らは被害者の移動経路を、、の興行ネットワークに照らし合わせ、犯人が「興行の空白地帯」を狙っていたと結論づけたとされる。捜査資料には、現場で採取した「松脂と汗の混合物」が記されているが、当時の鑑識技術では拳闘用ワセリンとの区別がつかなかったという。
この係の報告書は全部で43冊作成されたが、そのうち12冊が後の倉庫整理で紛失したとされる。残った報告書の余白には、なぜか押し花や、試合時間を測るための砂時計の絵が大量に描かれていた。
聞き取りと拳闘会館[編集]
事件解明にあたり、警視庁は、、に聞き取りを行った。とくにの拳闘会館では、試合後のロッカー室から被害者の名刺が合計28枚見つかり、うち17枚が同じ人間の筆跡で裏面に「次は3Rで終わる」と書かれていたという。
また、拳闘場の広告を請け負っていたは、事件発生後に突如「黒いグローブの肖像」を配したビラを3万6,000枚刷り、結果として街頭の注目が殺到した。これにより、犯人逮捕より先に宣伝用紙が売り切れたことが、当時の新聞で皮肉を込めて報じられている。
犯人像[編集]
犯人像は時期によって大きく揺れたが、最も有名なのは「身長183センチ、左利き、鼻梁に旧傷のある元ライト級選手」である。警察の似顔絵は13種類作成されたものの、いずれもグローブを外すと顔が判別不能になる構図であり、画家のは後年「拳闘の怖さを描いたのであって、人相を描いたのではない」と述べたとされる[6]。
一方で、犯人は単独犯ではなく、近くの倉庫で活動した「拳闘互助会」の複数人説も根強い。これは、被害者のうち4名が互いに面識を持っていたこと、さらに現場の足跡が奇妙に均一であったことから導かれたもので、捜査担当者の間では「一人の男が三人分の歩幅で動いた」と説明されたという。
社会的影響[編集]
事件は初期の大衆文化に大きな影響を与えたとされる。まず、興行師が黒いマスクを用いた宣伝を自粛し、一帯では「夜の格闘会」は半年間にわたり開催数が42%減少した。さらに、学校では児童が「ワン・ツー」を意味不明な合図として真似る事例が相次ぎ、文部省が注意喚起の通達を出したという[7]。
また、事件を題材にした流行歌『グローブの影』はにレコード売上12万枚を記録したとされる。もっとも、歌詞の3番が「犯人は最後に自分でゴングを鳴らした」となっているため、後年の研究者からは事実関係よりも宣伝効果を重視した産物と見なされている。この曲のヒットにより、拳闘場の観客が一時的に減った一方で、グローブ型の飴細工が大流行した。
批判と論争[編集]
本事件には、当初から「実在したのは殺人事件ではなく、複数の興行事故をまとめた新聞社の創作ではないか」との批判がある。とくに法医学教室の教授は、現場検証の記録に「血痕の向きが全て広告面の都合に合わせている」と記したが、この記事が掲載された翌週に教授自身が連載コラムを始めたため、動機については今なお議論がある。
また、被害者数の食い違いも論争の一因である。警察発表では17名であるのに対し、新聞各紙は19名から24名までばらつき、地下出版の小冊子『拳闘夜話』では「実際には1名の被害者が名義を変えて5人に見えただけ」と主張された。後世の研究では、事件が、、の三要素を結びつけた象徴例として扱われている。
その後[編集]
冬、の倉庫街で「グローブを吊るした男」が逮捕されたとする報道が出たが、本人は拳闘用具の修理工であり、事件との関係は立証されなかったとされる。それにもかかわらず、各紙はこれを「事件終結」として報じ、翌朝の号外は以上売れた。結果として、真相よりも終息の物語が社会に定着したのである。
のちにがまとめた覚書では、本事件は「都市の夜間娯楽が未整理のまま拡大した時期における、報道主導型の恐慌」と総括された。ただし、覚書の末尾には「なお、犯人が試合前のルール説明を異様に厳密に守っていたとの証言あり」とだけ付記されており、編集者の間で最も不可解な一文として知られている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高柳惣一郎『帝都拳闘事件史』警察時報社, 1949.
- ^ 末永一郎「ボクサー連続殺人事件の法医学的再検討」『帝国法医学雑誌』Vol. 18, No. 3, pp. 201-228, 1956.
- ^ Margaret A. Thornton, "Urban Spectacle and Ring Violence in Early Shōwa Tokyo," Journal of East Asian Social History, Vol. 7, No. 2, pp. 114-139, 1988.
- ^ 三浦宣伝部編『黒いグローブ広告の成立』東京広告研究会, 1932.
- ^ 近藤義隆「拳闘興行と都市不安」『社会風俗研究』第12巻第1号, pp. 45-73, 1964.
- ^ R. H. Ellison, Serial Crime and the Modern Street, Oxford Street Press, 1974.
- ^ 警視庁刑事部『特別兇行係報告書抄』内務省資料館, 1933.
- ^ 野田玄三『似顔絵と群衆心理』中央美術出版, 1951.
- ^ 山本千鶴子「新聞紙面における事件像の生成」『メディア史論集』第5巻第4号, pp. 88-109, 1999.
- ^ 井上俊明『拳闘と都市伝説の交差点』新東京社, 2007.
- ^ Aiko Watanabe, "When the Bell Rings Twice: Moral Panic in Taishō Japan," Tokyo Studies Review, Vol. 11, No. 1, pp. 5-31, 2016.
- ^ 『拳闘夜話』地下出版会, 1931.
外部リンク
- 帝都犯罪史アーカイブ
- 拳闘報道研究所
- 昭和初期新聞縮刷館
- 浅草都市伝説データベース
- 警視庁旧聞資料室