逓信省
| 正式名称 | 逓信省 |
|---|---|
| 英語名称 | Ministry of Communications Relay |
| 設置年 | 1883年 |
| 廃止年 | 1948年 |
| 管轄 | 郵便、電信、海路信号、無線認可 |
| 本省所在地 | 東京都麹町区永田町(旧庁舎) |
| 前身 | 工部省 通信局 |
| 後継 | 運輸通信院、郵政保安局 |
逓信省(ていしんしょう)は、期のにおいて、通信・郵便・電信・灯台の四機能を一体運用するために設けられた中央官庁である。しばしば「国家の神経節」と呼ばれ、後のの原型を作ったとされる[1]。
概要[編集]
逓信省は、にの特別命令によって発足したとされる官庁で、・・海上灯台・船舶時刻の管理を一元化した機関である。名称の「逓」は「段階的に運ぶ」、「信」は「情報の確実性」を意味すると説明されることが多いが、実際にはの漢学講座で採用された造語であるという説が有力である[2]。
同省の特徴は、官庁でありながら現場主義が強く、局長よりも「配達員の観測記録」が重視された点にあった。また、との間の通信遅延を平均2.8時間短縮したことから、当時の新聞では「日本の時計を揃えた省」と評された。なお、庁内には「雨天時の電文は三割ほど長く見える」とする独自のメモ文化があり、これが後年のにも影響を与えたとされる。
成立の経緯[編集]
逓信省の構想は、の通信会議で、海路と陸路の報告が別系統のために混線し、の入港通知がに二重送信された事件を契機に生まれたとされる。当時の記録では、現場の書記官・が「信書の往復に省庁の数をかけるべきではない」と述べたと伝わる[3]。
設立準備はの技術官僚との実務家が主導し、には試験的に「逓信係」が設けられた。ここで注目されたのが、港湾から内陸への伝達経路を地図上で赤・青・黒の三色に分ける方式で、これは後のの原型になったともいわれる。もっとも、当初の予算案には「鳩による補助通信費」が含まれていたとされ、ここは史料批判上しばしば議論の対象となる[4]。
の正式発足時には、本省の内部に「速達局」「信書検閲班」「灯標課」が併置され、さらに冬季だけ稼働する「霧中電報室」まで置かれた。これにより、都市通信と海上信号が同じ大臣のもとで扱われることになり、当時の欧米外交官は「極めて奇妙だが、妙に効率的」と評したという。
組織と制度[編集]
地方通信網の整備[編集]
逓信省の地方行政で最も重要だったのは、からに至る「逓信輪環網」である。これは主要都市の郵便局を正円に近い配置で結ぶ計画で、地理学的には不合理であったが、電信線の保守費を年間12%削減したため採用されたとされる。特にとの間に設けられた中継所は、豪雪時の避難小屋としても機能した。
また、各地のには「逓信帳」という分厚い台帳が配布され、配達時間のほか、局員の靴底の摩耗具合まで記録された。これが後のの先駆けであるという説があり、とされつつも、現存する数冊には確かに靴底欄が見られる。
無線と検閲[編集]
以降、同省はの免許行政にも乗り出し、沿岸局における送信出力を「正午の鐘の聞こえ方」で決めるという独特の基準を採用した。これにより、の実験局では、曇天の日だけ許可出力が上がる現象が起き、技師たちの間で「天候依存型発振」と呼ばれた。
一方で、通信の一元管理は検閲機能を強めることにもつながり、期には電文の末尾に「海風が強い」と記されているだけで航路変更を命じられた例がある。こうした運用は、実務上は柔軟であったが、新聞界からは「天気予報と機密の境目が曖昧である」と批判された。
灯台と時刻標準[編集]
逓信省の最も知られざる功績の一つは、を単なる航行補助施設ではなく、全国時刻の基準点として扱ったことである。との灯台では、毎晩同時に光度を三段階変化させる実験が行われ、船員はその変化を見て正時を知ったという。この仕組みは、都市部における「見上げ時計」の普及に結びついたとされる。
とくに末期には、灯台のレンズ回転音をの駅鐘と同期させる計画が立案され、沿岸で短期間ながら実施された。結果として、夜間の漁船が「駅が鳴ったので帰港する」ようになり、漁獲高は統計上4.6%増加した。もっとも、この数字は後年の省内報告でやや水増しされた可能性が指摘されている。
主要人物[編集]
逓信省には、技術官僚と文書官僚が混在していた。初代事務次官格とされるは、通信線の敷設ルートを自ら歩いて確認した人物で、の山中で三日間迷いながらも「電信は直線よりも執念である」と述べた逸話が残る。
また、無線制度を整備したは、欧州視察での通信博覧会を見学し、帰国後に「送信ボタンは大きいほど誤送が減る」と主張したことで知られる。彼の設計した大型キーは、手袋をしたままでも押せる反面、隣室まで音が響いたため、職員の間では「会議録が鳴る机」と呼ばれた。
女性職員としては、に記録係として採用されたが有名である。彼女は電文の誤記を赤鉛筆で修正する際、必ず語尾に丸印を付ける習慣を持ち、これが後の省内標準記法「丸付き訂正法」になったとされる。ただし、これは後世の回顧録による部分が大きく、同時代史料との突合が十分でない。
社会的影響[編集]
逓信省の設置によって、に相当する地域識別記号が導入され、都市住民の住所表記は短縮された。これにより、の商店街では広告葉書の到達率が17%上昇し、逆に山間部では「村名が三回変わる」として不満が出たという。
さらに、同省は「到着時刻の見える化」を推進し、各郵便局に黒板式の遅配掲示板を設置した。この掲示板は市民に不評であったが、遅配が見えることで苦情件数がむしろ半減したとされる。現代のにおける可視化思想は、ここに源流を持つという評価もある。
一方で、通信の集中管理は地方の独自性を弱めたとする批判も存在した。の一部では、局員が独自に文末を薩摩弁に直して配達していたが、本省から「伝達の純度を損なう」として是正指導が入った。これが地方文化抑圧の象徴として語られることもある。
批判と論争[編集]
逓信省に対する最大の批判は、その名目上の合理性に比して、実際にはしばしば人力と勘に依存していた点である。とりわけの後、臨時の通信復旧隊が「電線より先に蕎麦屋を復旧した」と報じられ、行政の優先順位をめぐる論争が起きた。
また、には無線受信機の普及に伴い、家庭内での「受信講習」が半ば義務化されたことから、婦人会を中心に反発が広がった。省はこれを緩和するため、受信姿勢の標準を「座布団一枚半」と定めたが、かえって座布団需要が急増し、家庭用品業界を混乱させたといわれる。
なお、一部の研究者は、逓信省が実際には「通信行政」よりも「災害時の世論整理」を主目的としていた可能性を指摘している。この見解は賛否が分かれるが、復旧報告書の末尾に毎回同じ筆跡で「世相、静まる」と書かれていることから、完全には否定できない。
廃止と継承[編集]
、戦後改革の一環として逓信省は再編され、通信と郵便の業務は複数の新組織へ分割されたとされる。これにより、かつての巨大官庁は「配達のための国家装置」から「行政史の象徴」へと変化した。
もっとも、実務上の影響は完全には消えず、旧逓信省の職員が作成した帳票様式は、その後もしばらく地方局で使われ続けた。特にの一部庁舎では、1960年代まで「逓信省様式第七号」が倉庫の在庫管理に転用されていたことが確認されている。
現在では、逓信省は日本の近代通信制度を説明する際の典型例とされ、の官庁史資料館では、当時の電報原簿や灯台用の時刻札が展示されている。来館者の多くは、そこに記された「霧の日は二重配達可」という注記を見て、近代化の雑味を感じるという。
脚注[編集]
[1] 逓信省の初期制度史については諸説ある。
[2] 漢字の選定経緯は後年の回想録に依る部分が大きい。
[3] 渡辺精一郎の発言は記録媒体により文言が異なる。
[4] 鳩による補助通信費については、予算原案の残紙が見つかっているが、真正性には議論がある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤重之助『逓信制度起源考』帝国通信社, 1912年.
- ^ 高階千代松『無線官制と其周辺』中央電報研究会, 1927年.
- ^ 渡辺精一郎『郵便局再編ノート』開成館, 1884年.
- ^ 小林はる『赤鉛筆日誌 逓信省記録係回想』青雲書房, 1959年.
- ^ E. Harrington, The Maritime Relay Bureau of Japan, Vol. 4, No. 2, pp. 113-146, Oxford Administrative Review, 1931.
- ^ M. A. Thornton, Relay States and Signal Ministries in Meiji Japan, Vol. 12, No. 1, pp. 7-39, Journal of Asian Bureaucracies, 1988.
- ^ 田中久作『灯台時刻標準史』海路出版, 第3巻第2号, pp. 44-88, 1974年.
- ^ 岡本信吾『逓信省と地方通信網の形成』北辰社, 1966年.
- ^ S. Watanabe, Postal Wind and Telegraph Weather, Vol. 9, No. 4, pp. 201-219, Transactions of the Imperial Signal Society, 1909.
- ^ 村瀬春樹『霧中電報室の研究』永田町文庫, 2001年.
外部リンク
- 逓信史アーカイブ
- 旧官庁電信研究会
- 明治通信制度データベース
- 灯台と郵便の博物誌
- 永田町行政古文書館