適当
| 分類 | 社会習慣、実務技法、口語表現 |
|---|---|
| 成立 | 頃とされる |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、松浦ミツ、東京府臨時整理係 |
| 発祥地 | 周辺 |
| 主要資料 | 『適当取扱心得書』 |
| 別名 | 臨機配分、仮決め、間合い調整 |
| 関連分野 | 官僚制、労務管理、都市民俗学 |
| 影響 | 学校、飲食、会議運営、文房具文化 |
適当(てきとう)は、で発達した、条件に応じて精密さと即応性の配分を調整するための判断原理である。しばしば「いい加減さ」と混同されるが、末期の官庁実務と都市生活の摩擦から生まれた技法として知られている[1]。
概要[編集]
は、本来は「目的や状況にふさわしいこと」を指す語であるが、都市官僚制の発達に伴い、手続の厳密さを保ちながらも現場裁量を認める技法名として再定義されたとされる。とくにの臨時文書整理と系統の簡略報告において、記入欄の不足を補う表現として定着したという説がある[2]。
この用法は、単なる怠慢ではなく、時間・予算・面子の三要素を同時に損なわないようにする「中間解」を指した。なお、後年の口語化によって意味が拡散し、中期には家庭内の返答語、さらに期には自己正当化の記号として広まったとされる。研究者の間では、の文具商が売り出した可変式定規「テキスト・アジャスター」が普及を後押ししたとの指摘もあるが、裏付けは乏しい[3]。
歴史[編集]
明治期の成立[編集]
、臨時整理係の渡辺精一郎は、年度末の帳簿照合で起きた差異を「適当ニ処置ス」と記した覚書を残したとされる。これが最古の用例とされるが、同年の別資料には同じ文言が3回しか現れず、実務上はほとんど「先送り」の同義語であった可能性もある[4]。
一方で、の貸本屋に勤めていた松浦ミツが、帳票の余白に「適当」の二字を朱で囲んで示したことが、若い書記官の間で流行したという伝承がある。この伝承では、適当は「怒られない程度に整える」ことを意味し、午後三時の茶菓配布と結びついて制度化したとされる。
大正から戦前期の拡張[編集]
期には、や商店街組合で「適当配置」「適当人数」といった複合語が生まれた。とくにの見世物小屋では、客の混み具合に応じて開演時刻を数分ずらす慣行が「適当興行」と呼ばれ、当時の観客満足度は平均で14分短縮されたと報告されている[5]。
この頃、の菓子問屋が配達伝票に「適当個」と書いて数量を丸めたことから、適当は数量管理の言い換えとしても機能するようになった。もっとも、実際の帳簿では7箱を8箱と記すなど、現場の裁量がどこまで許容されるかをめぐってしばしば争いが起きたという。
戦後の再解釈[編集]
頃、の学習指導要領草案に「適当な方法」という表現が頻出したことで、学校教育における適当の地位は安定した。ここでの適当は、答案の正確さよりも手順の理解を優先させる教育理念を示し、特に理科実験での「適当量の水」は全国の児童に曖昧な精度感覚を植えつけたとされる[6]。
また、期の家庭では、主婦が「適当にやっとく」と述べることで家計・家事・近所付き合いの三領域を同時に処理したと分析される。家計簿研究会の調査によれば、1963年の東京都内80世帯のうち62世帯が、買い物メモに「適当」とだけ書いた経験を持っていた。
制度化と社会的影響[編集]
は、やがて日本独自の実務倫理として半制度化された。自治体窓口では、書類不備を完全に突き返す代わりに「適当に補正してください」という案内が用いられ、ではこの運用を「柔軟性の担保」と呼んだとされる。
民間でも、会議資料の枚数、弁当の数、贈答品の包装紙の厚さなど、厳密化すると面倒だが雑にすると怒られる領域で適当が活用された。特にとの間では、締切直前の修正回数を1回に抑えることを「適当運用」と称したという。
ただし、適当の普及はトラブルも生んだ。1978年の港湾労務では、積荷確認を適当に済ませた結果、伝票上は米粉だった箱から大量の印刷用チョークが出てきた事件があり、これを契機に「適当で済む範囲」の社内規定が各社で整備された[7]。
文化的受容[編集]
は単なる語彙を超え、都市生活者の態度表明として独立した。返答の「適当に」には、依頼を引き受ける意思、責任を限定する意思、あるいは会話を終える意思が同時に含まれるとされ、文脈により意味が逆転する点が特徴である。
には、喫茶店での「適当にコーヒー」が常連客の合言葉となり、店主がその日の豆の残量と気分で苦味を調整する慣行が広まった。また、の若者文化では「適当でいいよ」が肯定にも否定にも読めることから、電話連絡の省略表現として流行した。
研究者の一部は、適当を日本語における「失敗しない曖昧さ」の完成形とみなしている。もっとも、国語学の会議でこの説を発表した岡本章一は、質疑応答で5回連続「適当です」と答え、会場の笑いを誘ったという。
批判と論争[編集]
には、責任回避の隠れ蓑であるとの批判が根強い。とりわけ以降、企業のコンプライアンス強化に伴い、「適当に処理しました」という報告書は査定上もっとも危険なフレーズの一つとされた。
一方で、民俗学の立場からは、適当は日本社会における摩擦回避の知恵であり、過剰な厳密性から共同体を守る緩衝材だと評価されている。なお、の老舗旅館では今なお「適当な加減」が厨房内の最高評価とされ、塩分濃度はレシピではなく女将の記憶で決まるという[要出典]。
2016年にはの外郭研究会が「適当の公共性」を議題にしたが、結論は「用途限定なら有効」と曖昧にまとめられた。これに対し批判派は、曖昧さそのものが適当の本質であり、制度化した時点で語が自壊すると指摘している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『適当取扱心得書』東京府臨時整理係, 1901年.
- ^ 松浦ミツ『神田余白史』神保町出版会, 1912年.
- ^ 岡本章一「口語における適当の機能」『国語文化研究』Vol. 18, No. 2, 1957, pp. 41-63.
- ^ 藤原清二『曖昧性の制度化』有斐閣, 1968年.
- ^ Harold S. Benton, “Administrative Approximation in Urban Japan,” Journal of East Asian Civic Studies, Vol. 7, No. 4, 1982, pp. 201-229.
- ^ 田所みどり「戦後家庭における適当語法」『生活民俗学紀要』第12巻第1号, 1991, pp. 88-104.
- ^ Elizabeth M. Harrow, “Elastic Compliance and the Japanese Workplace,” The Pacific Review of Sociology, Vol. 22, No. 1, 2004, pp. 17-39.
- ^ 本多一夫『適当の経済学』中央実務社, 2011年.
- ^ 水野理恵「『適当量』の測定誤差について」『食品と家庭』第9巻第3号, 2014, pp. 5-19.
- ^ 北川拓也『適当にしてはならないこと』新潮社, 2019年.
外部リンク
- 日本適当学会
- 東京口語史アーカイブ
- 神田文具文化資料室
- 都市実務民俗研究所
- 適当語法データベース