野獣臨
| 名称 | 野獣臨 |
|---|---|
| 別名 | 獣臨・山影の式 |
| 起源 | 室町時代末期の京都周辺 |
| 分類 | 武家儀礼、通過儀礼、擬態儀式 |
| 主な実施者 | 下級武士、薬種商、山伏系の実践者 |
| 儀礼要素 | 煤、鹿角粉、低音読誦、半歩の回転 |
| 中心地 | 京都・伏見、滋賀県大津、奈良南部 |
| 影響 | 舞礼、護身術、野外演技、地方祭礼 |
| 研究機関 | 国立民俗文化研究所 口承儀礼室 |
野獣臨(やじゅうりん)は、末期から初期にかけて成立したとされる、の武家社会における「野生の威厳」を一時的に身にまとうための儀礼である。後にやの研究対象となり、を中心に断片的な伝承が残されたとされる[1]。
概要[編集]
野獣臨は、一定の所作と呼吸法によって「人が野に臨み、獣の気配を借りる」状態を作る儀礼であるとされる。実際には戦闘前の精神統一、狩猟前の注意喚起、あるいは酒席の余興が混淆したものとみられているが、後世の記録ではしばしば霊験あらたかな秘法として扱われた[2]。
この儀礼は、の町衆文化と山間部の信仰が交差するなかで発達したという説が有力である。とくにの酒造家文書との寺社記録に、同一の動作を別名で記した断片が見つかることから、少なくとも前後には一定の型が共有されていたと推定されている[3]。
成立史[編集]
武家儀礼としての成立[編集]
野獣臨の最古級の記録は、23年の『山影日記』に現れる「臨獣之姿」という語であるとされる。これはの小身旗本が、出陣前に黒灰を顔に塗り、右肩を三度叩いてから一礼する所作を指すらしい[4]。同書では、これを見た家臣が「殿はもはや人ならず」と評したとされ、後世の儀礼化の契機になったという。
ただし、この段階の野獣臨はまだ統一された名称を持たず、家ごとに動作が大きく異なっていた。ある家では鹿角粉を口元にふくみ、別の家では竹筒を軽く吹いて低い音を出すなど、今日の研究者からは「地方伝承の寄せ集めにすぎない」との指摘がある一方で、儀礼の核となる「臨む前に獣性を借りる」発想は一貫しているとされる[5]。
山伏と薬種商の接続[編集]
からにかけて、山伏系の行者が野獣臨に香木と鉱物粉を導入したとされる。とくにの南山辺で活動した行者・は、煤と桂皮を混ぜた「臨粉」を調合し、鼻孔を刺激することで呼吸を荒く見せる技法を確立したと伝わる[6]。
また、の薬種商・がこれを商品化し、竹製の小筒に詰めた「野獣臨包」を年に約2,800本売り上げたという帳簿がある。もっとも、この数字は『道中算用帳』の改竄痕が多く、実数はその三分の一程度であった可能性が高い。ただし、同帳簿に「武家向け」「役者向け」「婚礼余興向け」と三種類の区分がある点は興味深い。
禁令と再興[編集]
年間、は野獣臨を「夜間の奇態」として一部の城下で禁じたとされる。理由としては、武士が獣の声を真似て町人を驚かせ、結果として辻斬りと見分けがつかなくなったためであるという説が有力である[7]。
しかし禁令は完全には機能せず、むしろ町人の間で簡略化した「見せ野獣臨」が流行した。これは、袖を内側に折り込み、両膝をわずかに曲げて三歩進むだけの簡便な型で、の芝居小屋では客寄せの演出として使われた。ここで初めて、野獣臨は実践儀礼から舞台表現へと転化したのである。
作法[編集]
正統とされる野獣臨は、開始前に東へ二歩、南へ一歩、最後に左回りで半周することから始まる。次に、煤を指先に取り、眉間から頬骨にかけて三本の線を引き、低声で「臨む、臨む、なお臨む」と唱える[8]。
動作の要点は、獣そのものになることではなく、獣が人間を見たときに躊躇する「間」を作ることにあると説明される。なお、の再現実験では、被験者12名のうち9名が「足取りが妙に速くなった」と回答したが、同時に8名が「周囲から変な目で見られた」と答えており、効果判定は難しい。
地域差も大きく、北部では鹿角粉を用いず、代わりに水で湿らせた杉葉を握る型が残る。またでは、最後に地面へ視線を落とす所作を加える流派があり、これは「野へ入る者は己の影を先に入れよ」という格言に由来するとされる。
社会的影響[編集]
舞礼・芸能への波及[編集]
期になると、野獣臨は歌舞伎の型崩し演出に取り入れられ、役者が舞台袖で肩を鳴らしてから登場する慣行を生んだとされる。これが後の「見得の前の静止」に影響したという説があり、の芝居町では「臨みの一拍」と呼ばれていた[9]。
一方で、の一部流派では野獣臨を過剰な身体表現として嫌い、稽古場への持ち込みを禁じた。もっとも、禁じたはずの流派ほど弟子の間で密かに流行し、稽古後に腰を落として低く笑う「裏臨」が流行したことが、古い控帳から確認されている。
近代民俗学での再発見[編集]
末期、民俗学者のが京都近郊の古文書を整理する中で、野獣臨を「日本的身体技法の失われた中間形態」と位置づけた。彼はに『臨獣考』を著し、これが学界における最初の体系的研究とされる[10]。
ただし河合は実地調査で一度も鹿角粉を自分の顔に塗らなかったため、弟子たちからは「机上の野獣」とあだ名されたという。後年、彼の講義録にだけ妙に詳細な図解が残っており、図中の矢印が全部同じ方向を向いていることから、再現性に問題があったとも言われる。
批判と論争[編集]
野獣臨をめぐっては、そもそも独立した儀礼だったのか、それとも複数の地方芸能を後世にまとめた概念にすぎないのかで議論が分かれている。のは、現存資料の多くが以降の再編集であることを理由に、「統一的起源説は成立しない」とした[11]。
これに対しは、の手控え帳に見られる「獣の間を借る」という記述を重視し、少なくとも思想としての野獣臨は実在した可能性があると反論している。なお、両者の公開討論では、再現実演の担当者が緊張のあまり半歩ずつ後退し続け、最終的に舞台袖へ消えたことが記録されている。
また、30年代には、健康法ブームのなかで「野獣臨呼吸」が雑誌広告に登場した。1日3分で姿勢が整うとされたが、実際には猫背のまま目つきだけ鋭くなる利用者が多く、の注意喚起文書に「効能の誇張あり」との但し書きが付された。
現代における継承[編集]
現代の野獣臨は、内の一部保存会と舞台芸術家によって、半ばパフォーマンス、半ば地域行事として継承されている。毎年の第2土曜には伏見の旧問屋街で公開実演が行われ、参加者は約140人、見物客は延べ2,300人前後とされる[12]。
ただし現在の実演では鹿角粉の代わりに炭酸マグネシウムが使われ、音の出し方も衛生上の理由から竹筒ではなく樹脂製の笛に変更されている。古式との違いを惜しむ声もあるが、保存会は「重要なのは粉ではなく、臨む姿勢である」と説明している。
一方で、若年層のあいだでは野獣臨を応用した短い前奏的所作がダンス動画として拡散しており、これを見たの会員が「伝承の未来は意外と軽い」と述べたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河合道彬『臨獣考』民俗書院, 1912.
- ^ 鷺谷玄慶『山影修法集』京都山林庵, 1658.
- ^ 橘屋宗益『道中算用帳』伏見商業資料刊行会, 1704.
- ^ 高瀬真理子「野獣臨と近世武家の身体管理」『民俗文化研究』Vol. 18, No. 2, pp. 44-67, 1989.
- ^ Robert J. Ellison, Beast Postures in Early Modern Japan, East Asia Studies Press, 2006.
- ^ 松浦久美子『獣臨の比較儀礼学』青泉社, 2014.
- ^ 田所一馬「京都近郊における臨獣伝承の分布」『日本口承論集』第7巻第1号, pp. 101-129, 1976.
- ^ Margaret L. Henshaw, Ritual Breathing and Animalitude, Journal of Comparative Folklore, Vol. 12, No. 4, pp. 201-233, 1998.
- ^ 小川天平『野獣臨実演録』国立民俗文化研究所紀要, 第21巻第3号, pp. 5-28, 2021.
- ^ 市川晶子「臨みの一拍と舞台間の生成」『演劇史研究』Vol. 9, No. 1, pp. 13-39, 1967.
- ^ 宮下竜二『野獣臨呼吸法入門』健康と伝承社, 1959.
- ^ 今井冬子『臨む野獣の社会史』、あえて言うなら社会史出版社, 2020.
外部リンク
- 国立民俗文化研究所デジタルアーカイブ
- 京都口承芸能保存会
- 伏見古文書研究ネットワーク
- 日本擬態文化学会
- 近世身体技法資料室