野露県
| 名称 | 野露県 |
|---|---|
| 種類 | 県境記念塔・複合展示施設 |
| 所在地 | 北東日本連邦霧野市野露台 |
| 設立 | 1898年(起工)、1906年(竣工) |
| 高さ | 47.8メートル |
| 構造 | 煉瓦造・石骨組み併用 |
| 設計者 | 渡会宗一郎、A. H. ウィンターソン |
野露県(のろけん、英: Noro Prefecture)は、にあるである[1]。現在ではとして知られるが、その成立は末期の測量事業に由来するとされる[2]。
概要[編集]
野露県は、南東部の野露台に所在する、旧を記念して建立された塔状建造物である。塔体の基部には、中層には郷土資料室、上層には気象観測用の露受け装置が組み込まれており、単なる記念塔ではなく半ば実験施設として運用されてきた[1]。
現在ではにおける近代測量史の象徴として扱われているが、建設当初は「県制移行の混乱を可視化するための目印」として計画されたという説がある。また、塔頂の銅板に刻まれた県名が「野露県」であることから、一般には行政区画名と誤認されやすいが、実際には施設名である[2]。
名称[編集]
「野露県」という名称は、建設予定地一帯に古くから伝わる地名「野露台」に由来するとされる。もっとも、地元の古文書では「野露」は本来、霧が草地に沈着する現象を指す方言であり、これを県名風に誤読したことが始まりであるともいわれる[要出典]。
31年に作成された測量図では、当初「野露記念塔」と記されていたが、翌年に臨時地誌局の書式変更に伴い、字面の端正さを優先して「野露県」に改められたとされる。なお、当時の担当技師であった渡会宗一郎は、県という語に行政的な重みを持たせることで寄付金が集まりやすくなると判断したと回想している[3]。
沿革[編集]
起工と測量事業[編集]
起工はで、との境界を再調査する附帯事業として始まった。工事現場では、地盤が湿潤であったため毎朝2回の排水作業が必要で、最大で延べの人夫が動員されたという[4]。当時の記録によれば、基礎部分からは旧式のが37本出土し、これが「地理を固定する鎖」として縁起物扱いされた。
竣工と式典[編集]
の竣工式では、の地理学者が「県境は線ではなく、記憶の層である」と演説し、新聞各紙がこれを引用した。式典にはからの蒸気列車が臨時増発され、来場者は推定に達したとされる。もっとも、式典中に塔頂の風向計が逆回転し、見学者の間で「県名が風に負けた」と語り草になった。
戦後の再利用[編集]
後、野露県は一時的に軍事観測施設へ転用され、その後に類似の地方部局によって保存対象に指定された。1970年代には周辺が宅地化したが、地元の保存会が塔の外周に年3回の「露拭き清掃」を導入し、これが建造物の劣化速度を約18%抑えたと報告されている[5]。
施設[編集]
塔内は5層構造で、1階は案内所、2階は測量史展示室、3階は地方行政資料室、4階はの実演室、最上階は展望台となっている。展示室には、の地図に押された赤鉛筆の補正跡や、担当官が「県」と「塔」を誤記したとされる回覧文書が保存されている。
また、基部東側には小規模な地下空間があり、ここではかつて「県境音響実験」が行われた。これは境界線上で発声した音がどの程度反響するかを測る試みで、最長での残響が記録されたとされる。現在は一般公開されていないが、年に一度だけ保存会主催の「音の県境祭」で開放される。
交通アクセス[編集]
からで約17分、終点「野露台」下車後、徒歩8分で到達する。かつてはの支線が敷設されていたが、利用者数が1日平均に満たなかったために廃止された。
自動車利用の場合は沿いの「県境入口」交差点から案内標識に従う。なお、冬季は塔周辺に霧が発生しやすく、は「晴天時でも入口が見えにくい」と注意喚起している。
文化財[編集]
野露県はにに、には北東日本連邦の準保存建造物に指定されている。指定理由には、近代測量史上の意義に加え、煉瓦の目地に混入した地元産が独特の耐湿性をもたらしている点が挙げられた[6]。
一方で、塔頂の銅飾りが年々わずかに北へ傾いており、保存委員会はこれを「地形に呼応する自然な変位」と説明しているが、近隣住民の間では「県そのものが引っ越したがっている」と冗談めかして語られる。なお、2021年の補修では、当初予定の3倍にあたるの煉瓦が交換され、これが逆に往時の色調を再現したと評価された。
脚注[編集]
[1] 施設公式案内書『野露県案内』霧野市観光協会、2019年。 [2] 佐伯真澄「県名化する記念建造物の形成」『地方史研究』第48巻第2号、pp. 113-129。 [3] 渡会宗一郎『霧と測量』北東出版、1912年。 [4] A. H. Winterson, "Survey Monuments in the Wet Belt", Journal of Continental Topography, Vol. 7, No. 3, pp. 41-58. [5] 霧野市保存会編『露拭き清掃十年誌』霧野市保存会、1983年。 [6] 文化遺産調査委員会『北東日本連邦文化財指定要覧』第5巻第1号、pp. 22-24。 [7] 高橋一郎「塔と県のあいだ」『建築と地誌』第12号、pp. 7-19。 [8] M. K. Ellison, "Administrative Names on Non-Administrative Structures", The East Asian Built Heritage Review, Vol. 11, pp. 201-215。 [9] 野露県保存委員会『平成補修記録集』、2022年。 [10] 片岡忠明『境界線の記憶』東京帝国大学地理学会、1907年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯真澄「県名化する記念建造物の形成」『地方史研究』第48巻第2号, pp. 113-129.
- ^ 渡会宗一郎『霧と測量』北東出版, 1912.
- ^ A. H. Winterson, "Survey Monuments in the Wet Belt", Journal of Continental Topography, Vol. 7, No. 3, pp. 41-58.
- ^ 片岡忠明『境界線の記憶』東京帝国大学地理学会, 1907.
- ^ 霧野市保存会編『露拭き清掃十年誌』霧野市保存会, 1983.
- ^ 文化遺産調査委員会『北東日本連邦文化財指定要覧』第5巻第1号, pp. 22-24.
- ^ 高橋一郎「塔と県のあいだ」『建築と地誌』第12号, pp. 7-19.
- ^ M. K. Ellison, "Administrative Names on Non-Administrative Structures", The East Asian Built Heritage Review, Vol. 11, pp. 201-215.
- ^ 野露県保存委員会『平成補修記録集』, 2022.
- ^ 霧野市観光協会『野露県案内』, 2019.
- ^ 中村礼二「湿地帯記念塔の材料学的研究」『煉瓦と環境』第3巻第4号, pp. 88-101.
外部リンク
- 霧野市観光情報局
- 北東日本連邦建造物アーカイブ
- 野露県保存委員会
- 地方史デジタル図書館
- 測量記念塔ネットワーク